aiaiのきまぐれ日記

子どもたちとの日々、いなかの暮らしで感じたことを、きままにおしゃべり。

小さな地域旅 ・・はじめての「我聞塾」

2010-05-29 09:15:59 | ナチュラルファミリー
6月22日のこと。
ほしはら山のがっこうに午前中お客様があって、
ちょっとした打ち合わせがあった。
そのお客様が、

「今日の午後は、我聞塾があるんですよ。」

といわれる。

「我聞塾」というのは
山崎禅雄氏の話を聞きながら、みなで中山間地のことを語り合うという塾なのだという。前々からうわさには聞いていて、一度塾を見学させてもらいたいと思っていた。

山崎禅雄氏は、民俗学者・宮本常一氏の弟子だということ。


わたしは「民俗」というのにすごく心惹かれるところがあるんだな。

 ある村を訪ねる。
 その村には、なんともいえない匂いのような、独特のものがある。
 その村の人々の暮らしの底を流れる、
  それぞれは普段気付かない意識の持ち様や感情の独特な動き。
 方言や動作などに表れる、
  その村なりの人と人、人と自然間のルール・・・。





わあ、「我聞塾かあ」!



午後の予定は、わたし個人のワーク。それは深夜にやればいい。
よし!行っちゃおう!!


さて、車をぶっとばして、作木を過ぎ、島根県口羽へ。
「NPO法人ひろしまね」の事務所である古民家まで。



古民家~~~~~!!なんでわたし、古いものが好きなのかしら。
このデザイン。そんなに遠くないむかし、こんなデザインをして、
100年後の色を創造できる手を持った人々がいたんだ。

古民家がひとつ、ほしい。
そこで、「暮らす」キャンプがしたい。
それは、長々持っている、わたしの夢だ。
この夢はいつかなうんだろう。。。。。。



興奮気味に「我聞塾」が行なわれている広間へ上がる。
今日のテーマは、
NPOひろしまね企画で、
「大草の家」とその周辺の田畑山でしばらくの期間遊んでみよう、
どう遊ぶか、プランニングしてみようや、
ということだった。

山崎氏らしき風貌の方が、
「それは、大草の家に行って、現場でやったほうがいい」
と言う。



わたしも、
(うん、うん、大草、どんなとこか行ってみた~い!)
と心の中で叫ぶ。
そして、移動。


ところが、この大草、ひろしまねの小田さんは「ここから7~8分だから」と言ったはずなんだけど、行けども行けども着かない。
山道をぐんぐん登る。どんどん空は近くなっていくが、まだまだ先導の車はぐねぐねと走っていくので、ひたすらついていく。
きっと、わたしの住む上田町にちょっと昔案内された人たちも、道路改修の前はせまいせまい道をくねくね「どこに連れて行かれるんだろう」という不安を持ったんだろうと、その気持ちを実体験しているような気持ちになる。


そして、ようやく、

「「「大草の家」」」と家に書いてある古民家に着いた。



ところが、着いた途端、
わたしは、この古民家よりも、大草の家のすぐ上にある一軒屋の家の前で
座り込んでおしゃべりしてる、奥さん二人に惹きつけられてしまったのだ。

(なにしゃべってるんだろう~~~・・・ちょっと挨拶してみよう)



で、ちょっと挨拶しに行ってみると、
ここ大草集落には、もうここ一軒しかないことを教えてくださり、
そうして、今おしゃべりをしている人は、元「大草の家」の住人だったということがわかった。
二人とも、80歳になるかならないか、という雰囲気。


もっとおしゃべりしていたかったけど、
おばちゃんたちを邪魔するみたいだし、
やっぱり、「我聞塾」に来たんだから、真面目に!?戻らなきゃ~って
大草の家に戻ったんだけど、どうしても、そわそわする。

(やっぱり、お母さんたちの話に交じりたいっ、気になる!!)


そして、これもやっぱり、わたしはまあ、いつもどおり、
「ちょっと。。。」とか言いながら、うろうろして、
子どものように!?ふら~~~っと出て行き、やりたいことをやってしまうのだ。

わたしを連れて行くのは、わたしの直感なんですわ。

(いま、あの人たちの声をきかなくちゃいけません!)

って、直感が言うんだから、そのチャンスを逃しては、わたしの中のわたしがゆるさない。


(絶対やっちゃいけないような場ではちゃんとやりますよ)



で、わたしは、大草の家の上のおうちに行きました。
うふっ。



そうしたら、さっきは出かけていたお父さんが帰ってきていました。
今度は、お母さん二人とお父さんが三人で、家の前でゆったりしゃべっている。


えへっ。
このお父さんが、すごい男前。
男前というのの意味がいろいろあるし、人それぞれなんだけど、
なんか、どっか、ちがう人。



「やっぱり、おかあさんたちと話したくて、来ちゃいました」


おかあさんたちが食べていたおせんべいをわたしもすすめてもらって
かじりながら、
わたしはそこで、こんな話を聞いた。


実は、私たち夫婦は、沖(山のふもとの村のことを、山の上で暮らしているひとはこういうらしい)に家を一軒買っている。沖の人は、そこに「いつ越して来るんだろう」と思っている。「早う山から下りてきんさい」と言われる。だけど、自分たちは、そこは豪雪のときのための避難所に買ったのであって、普段はここが暮らしいい。ここから出て行くつもりはない。ここにずっといたい。ここに一度暮らし始めたら、こんなにいい場所はない。なんの不便もない。


わたしも同感した。
  まるで、ハイジのおじいさんの世界だ。


その家の前から、遠くまで連なる山々がみえる。
鳥が鳴くし、小川のせせらぎが聞こえる。
牛が休耕田で放牧されている。


最後の一軒。
だけど、そこにおだやかに暮らす人の姿がある。
ここにはここの便利があって、暮らしやすさがある。



とかなんとかおしゃべりしていたら、お父さんが思い出したように言った。
「お、今日は、ジノヒ祭りの日よ」
「え?ジノヒ?って?」
「アスナというところで、ジノヒ祭りゆうんがあるんよ。カサコが出て、練り歩くんよ。馬もかけるし。(時計を見て)あ~もう終わりかけとろうけど、今日しかやっとらんのじゃし、行ってみるか?」

「行きたい!」


我聞塾の方々にそのことを告げると「あんた、行ってみんさい」というので、
そこで塾のみなさんとお別れした。
お父さんが、「自分も用事があるから」とアスナまで軽トラックで近道を先導してくださり、そして祭りを案内してくださった。

カサコは、もう仕舞いかけていたけど、
道にはまだ露店が並んでいて、
道に面した縁側の窓が開け放たれて、そこに村の人々がそっちの家も、あっちの家も腰掛けて、笑いながらおしゃべりをしている。
すごくすごくいい雰囲気で、なんて幸福な村なんだろうと思う。


この幸福な村の祭りの一日を、小学生くらいの子どもたちが駆け抜けていく。村みんなの子どもたちだ。どのおばちゃんも、どのおじちゃんも、知った子達だ。
高校生らしき集団が、「先生~~!」とさけんで歩いていく。
ここで育った子どもたちは、きっと心に「ふるさと」を一生持って生きていくんだろう。

通る道々、お父さんにみんなが丁寧に挨拶をする。お父さんは役場におつとめだったらしく、お父さんの方も、皆ににこやかにおだやかに挨拶をしてまわる。



「ジノヒ祭り」というのは、どうやら「次の日祭り」と書くらしい。
島根県邑南町阿須那の「賀茂神社」のお祭りで、
京都の賀茂神社のお祭りの次の日にやる祭りだから、その名がついていると
お父さんが教えてくださった。



お母さんたちとのおしゃべりや、お父さんの案内で、「地域」に出会う小さな旅ができた気がして、なんともいえないあったかい気持ちをいただいたのだった。


わたしの初めての「我聞塾」体験の午後は、刺激的だった。



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4 コメント

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 (まさこ)
2010-06-04 04:50:18
まるで、夢の中のできごとみたいだなあと思いながら読みました。私は、つい最近、自分の深いところから湧き上がってくるもの(あいあい的に言えば、直感かな)に正直に動けばいい、と思うようになりました。そうしたら、いろんなものに出会えるようになりました。まだまだあいあいの境地には至りませんが、出会いって不思議で、面白い!と思います。
古民家で「暮らす」キャンプを、というのは全く同感。私も同じことを考えていて、チャンスをうかがっているところです。
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 (aiai)
2010-06-04 10:02:46
まさこさん

私たちが住んでいるこの世の中は
案外、夢なのかもしれませんね。

それとも
夢とそう変わりない世界なのかもしれません。

それほど秩序よく物事は運ばないし
アリスの世界のような扉が
ここそこにあるのかもしれません。


ただ夢ならば、できたらいい夢をみたい。
または夢を「いい夢」と感じられる解釈のできる人格を持ちたい。

だけどやっぱり
夢を幸福で満たすのは、
これが個人だけではどうにもならない。
世界のひとつひとつの物事が影響しあっていて
その影響の一点を自分も担っているのだと思うと
わたしの持つ役割はなんなのだろうと
ひとつの人生をわたしなりの大きさ(もしくは小ささ)で
生きるということはどういうことなのか、
ということをを考えざるを得なくなります。



正直に動くということそのものについてですが、
正直に動くという「動き」も
実は自分ひとりの判断ではなく、
周りの影響を受けていると感じていて、
それをゆるしてくれている、
うながしてくれている空気がそこにあるから
その「正直」が生まれるのかもしれないと感じています。

なのに、そのことに気付かないで
動かないことを選び、
自分を苦しめている時があるのかもしれません。
あの人は自分を苦しめているなあというのも
周りは案外気付いているのかもしれません。


だけど、「正直」に動かすことをゆるさない(または恐れる)世界のほうが広いと感じることも確かです。


わたしは、「正直」に動ける空気・場を
増幅させられるような場作りを
ワークショップやキャンプなどで
行ないたいのかもしれません。



正直に動く人たちが増えたら
この世の中どうなってしまうんだろう、
自分勝手な行動で秩序が乱れてしまうんではないか、
と怖がることはないと思っています。

それは、先にも述べたように
「正直に動ける」場は
周囲の影響下で生まれると思っているからです。

正直に動くことを許す場であっても
その「場」という作品にそぐわない動きをする人を生かそう(または修正しよう・もしくは排除しよう)と
集団がなんらかのアプローチ(または圧力)をかけるはずです。


私たちは日本国憲法を持っていて
法律に守られているということも
わすれてはいけないですね。



『窓ぎわのトットちゃん』を再読しながら
自由に自分を生きる力を育む教育について
考えさせられている今日この頃です。

古民家キャンプを実現させましょう!!
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わたしの持つ役割 (まさこ)
2010-06-20 14:49:32
長いコメントありがとう。
あいあいの書いたことを長いこと考えていました。
ようやく私なりの答えが形になりました。

わたしが、今、ここで、こういうことを考えているのは、これまで出会った全ての人、もの、ことのおかげであり、どれか一つでも欠けていたら、今のわたしはいないのだな、と思います。
これまで、悲しいこと、辛いこともいっぱいあったし、もう顔も見たくないと思うくらい嫌な人もいるけど、その全てがあってこその今のわたしなんですね。

わたしがわたしの人生を生きるとは、どういうことなのだろうと思います。
わたしの持つ役割とは何なのでしょう。
さっきまで読んでいた本の中で、「生きるということは、「何か大きな力」が設計した、さまざまな「もの」や「こと」や「ひと」を通して、私でしか感じられないことを、みんなに伝えることなのではないか、と思います。」という文章があり、ああ、そうなんだな、と思いました。
「私にだけ見えるもの、聞こえるもの。あなたにだけ見えるもの、聞こえるものー。」をわたしは伝えたいし、あなたにも伝えて欲しいと思います。
そういうことが許されるところが、「正直に動ける場」なんでしょうね。

わたしだけに見えるもの、聞こえるものを誰に、どんな風に伝えるか。
試行錯誤しながら、わたしなりのやり方を見つけたいと思います。

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役割 (aiai)
2010-06-27 22:25:09
まさこさん

役割分担の中で、
セッション、ハーモニーを、
たのしんでいきましょうね!!


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