秋まつり 2007-10-14 08:49:41 | ナチュラルファミリー 隣村で、わが上田町の芸能保存会が神楽をしましたよ! 山のがっこうの校長先生がお爺さん、田んぼのやすじいがお婆さん役。太鼓はウチの義父。三谿(みたに)神楽と呼ばれる伝統芸能ですが存続が危ぶまれてます。 « あけび | トップ | 明日は蕎麦刈り! »
8 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 ふるさと (aiai) 2007-10-22 13:43:38 ふるさとの定義。しばらく、私の頭の中で、回転しそうです。「ふる」が、時間が経過するという原義ということは、長く時間を過ごした場所がもともとの意味なんですかね。mmuunneeさんのふるさとの思い出話は、いろんな人の思い出にもつながっているのだろうと思います。ふるさとって、いいなあ。 返信する fふるさととは? (mmuunnee) 2007-10-21 17:27:29 ふり返ってみれば、長い時間を経て変化生成する「私」が、「はじめての私」になった出発の場所。そこは、人間らしい感情の総てを経験した場所、言葉の苗を心に植えつけられた場所、人々の生活をすっぽり包む自然がそのまま呼吸している世界。これがmmuunneeの「ふるさと」定義です。aiaiさん。「ふるさと」とは、それぞれの人が、それぞれの言葉で、自分自身に対して、定義してもいいのだと、思うのです。 ちなみに、私が少年時代をすごした神石高原町の山里の村では、人が、福山市など賑やかな所へ買い物などに行くとき、「里に行ってくる」などという言い方をしていましたよ。「さと」とは、人々が多く棲んでいる場所。これに対するのが「ひな」です。「ふる」とは時間が経過するというのが原義のようです。 不思議なもので、ずうぅと昔のことなのに、学校に通った道のでこぼこや、大きな石がとび出していた様子や、ヘビがよく出る場所や、クワガタムシがよく採れる林や、などなど、なんでもないような些細なことをいっぱい覚えているもんですよね。 返信する ふるさとって何だろう (aiai) 2007-10-20 09:14:57 mmuunneeさん。ふるさとって何でしょうね。上田町は、今「第二のふるさと」にもなりつつあります。ふるさとを持つ人。心に支えの言葉を持つ人。人は、立ち戻る場所があることで安心するのでしょうか。自分が誰かのふるさとになることができるというのは、本当に素敵なことですね。先日、グリーンツーリズムの先進地発表のようなところに、地域の町おこしメンバーと行きました。私は、商業主義的な進め方に納得できない。私がふるさとに選んだ場所に、あまり強く損得を持ち込みたくない。気持ちと気持ちがつながる場所でありたいです。だけど、そこでお金が動くことは、罪悪感を抱く必要のないこと。あんまりに商売っけを出して、そこに「人」の気持ちを感じないと、がっかりします。そういうツーリズムが日本の田舎に拡がってほしくないな!お金って何でしょう。 返信する 「ふるさと」について (mmuunnee) 2007-10-19 12:16:33 aiaiさん。私は、少年時代を過ごした時間・空間が限りなく懐かしい。ですが、全く別の町に移住して来たとき、決心しました。「この土地は、子供たちのふるさとになるところだ。子供たちのために、この町を耕そう」って。 人々に囲まれて自分が成長した場が「ふるさと」であって、それはその人にとってかけがえの無い場所であるに違いありません。でも、また、どのような場所を選んだとしても、自分自身が、愛する者たちの「ふるさと」になることができる。これも、素敵なことです。自分が誰かの「ふるさと」になることができるなんて。 aiaiさんが、地域の人たち、いい仲間と共に、豊かな人生を切り開かれようとしている。素晴らしいと思います。私のふるさと中国山地の一角が、善意の人たちの営みで、暖かい明かりが点っている。 返信する なつかしい祭 (aiai) 2007-10-17 22:26:16 mmuunneeさんが、「なつかしい」というのがうらやましい。私は、祭りのないところで育ちました。だけど、この町の祭りを初めて見たとき、「なつかしい」感じがしました。古里って、こういうのをいうのだろうと思いました。ここ上田町にも獅子舞が出ます。娘は昨年、おお泣き!周りは、泣く子を見ながら、ほっこほこの笑顔。何にも変えられない、素敵な時間です。 返信する 秋祭り。なんと懐かしい。 (mmuunnee) 2007-10-17 16:05:05 なぜか、秋祭りが近づくと、小学生の私たちは、とてもとても、それはとても、待ち遠しい気もちに満たされたのです。一ヶ月もまえから、村ごとに、鐘、太鼓の練習の音がする。子供たちは、学校からの帰り道、獅子舞の真似をしたり、太鼓を打つ人の舞を真似したりしながら、浮かれていた。祭りの日には、遠く村を離れていた人たちが、それぞれの内に帰ってくる。親戚縁者が集まってご馳走を食べる。小学校は、半ドンになる。 祭りの日は、何もかも生き生きしていました。 獅子舞。村の猪鼻神社の秋祭りには、獅子舞が二頭登場します。鐘、太鼓に合わせて二匹の獅子が舞う。大人が獅子頭を振り回し、その後ろから少年が、獅子舞を覆う大きな風呂敷のような布の端を持って、付いて行く。見物する人たちは、その獅子は人が演じているということを知っているから、幼児を除くと、誰も、獅子舞を怖がらない。真面目少年のmmuunneeも、獅子舞は、どこそこの誰が役を演じているかを聞かされて知っている。なのに、です。aiaiさん。悪ガキの要素ももち合わせていた私なのですが、獅子舞が始まると、獅子の周りに近づくことができなかったのです。生きているように感じました。小休止のとき、はずされた獅子頭を手にして、ここの紐を引くと口が動くのだな、なんて確認しているのに、舞が始まると、私はどうしても獅子の近くに寄れなかったのです。小学校6年生になってもです。あれは何だったのかと、今でも不思議です。 ああ、なつかしい。 返信する いいよねぇ (aiai) 2007-10-14 14:39:35 すごくいいよね、こういうの。焚き火にあたって、おでんやお酒がまわってきて、太鼓焼きもどうぞどうぞと振舞われて、子どもたちは夜遅くまで神楽のまわりで遊んでて、酔ったおじちゃんが、ふらふら一人でしてるのを、適当にみんなが「はいはい、こっちにおれ~よ」と言ったりして、あったかい、あったかい時間。空にはこれでもか!と星、星、星。流れ星。うちの子たちですが、このはは、ウツラウツラしながらも大蛇が出るまで見て、三四郎は、神社に着く前に車で熟睡してしまいました。 返信する これぞ日本!って感じ (TAMU) 2007-10-14 09:22:14 いいね~。こういうの。『山のがっこうの校長先生がお爺さん、田んぼのやすじいがお婆さん役』とかいうのが、いいね~。それと、焚火があるのが、いいね~。子どもたちは見ることができたのかな? 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
しばらく、私の頭の中で、回転しそうです。
「ふる」が、時間が経過するという原義ということは、
長く時間を過ごした場所がもともとの意味なんですかね。
mmuunneeさんのふるさとの思い出話は、
いろんな人の思い出にもつながっているのだろうと思います。
ふるさとって、いいなあ。
ちなみに、私が少年時代をすごした神石高原町の山里の村では、人が、福山市など賑やかな所へ買い物などに行くとき、「里に行ってくる」などという言い方をしていましたよ。「さと」とは、人々が多く棲んでいる場所。これに対するのが「ひな」です。「ふる」とは時間が経過するというのが原義のようです。
不思議なもので、ずうぅと昔のことなのに、学校に通った道のでこぼこや、大きな石がとび出していた様子や、ヘビがよく出る場所や、クワガタムシがよく採れる林や、などなど、なんでもないような些細なことをいっぱい覚えているもんですよね。
上田町は、今「第二のふるさと」にもなりつつあります。
ふるさとを持つ人。心に支えの言葉を持つ人。
人は、立ち戻る場所があることで安心するのでしょうか。
自分が誰かのふるさとになることができるというのは、
本当に素敵なことですね。
先日、グリーンツーリズムの先進地発表のようなところに、地域の町おこしメンバーと行きました。
私は、商業主義的な進め方に納得できない。
私がふるさとに選んだ場所に、あまり強く損得を持ち込みたくない。
気持ちと気持ちがつながる場所でありたいです。
だけど、そこでお金が動くことは、罪悪感を抱く必要のないこと。
あんまりに商売っけを出して、そこに「人」の気持ちを感じないと、がっかりします。
そういうツーリズムが日本の田舎に拡がってほしくないな!
お金って何でしょう。
人々に囲まれて自分が成長した場が「ふるさと」であって、それはその人にとってかけがえの無い場所であるに違いありません。でも、また、どのような場所を選んだとしても、自分自身が、愛する者たちの「ふるさと」になることができる。これも、素敵なことです。自分が誰かの「ふるさと」になることができるなんて。
aiaiさんが、地域の人たち、いい仲間と共に、豊かな人生を切り開かれようとしている。素晴らしいと思います。私のふるさと中国山地の一角が、善意の人たちの営みで、暖かい明かりが点っている。
うらやましい。
私は、祭りのないところで育ちました。
だけど、この町の祭りを初めて見たとき、
「なつかしい」感じがしました。
古里って、こういうのをいうのだろうと思いました。
ここ上田町にも獅子舞が出ます。
娘は昨年、おお泣き!
周りは、泣く子を見ながら、ほっこほこの笑顔。
何にも変えられない、素敵な時間です。
祭りの日は、何もかも生き生きしていました。
獅子舞。村の猪鼻神社の秋祭りには、獅子舞が二頭登場します。鐘、太鼓に合わせて二匹の獅子が舞う。大人が獅子頭を振り回し、その後ろから少年が、獅子舞を覆う大きな風呂敷のような布の端を持って、付いて行く。見物する人たちは、その獅子は人が演じているということを知っているから、幼児を除くと、誰も、獅子舞を怖がらない。真面目少年のmmuunneeも、獅子舞は、どこそこの誰が役を演じているかを聞かされて知っている。なのに、です。aiaiさん。悪ガキの要素ももち合わせていた私なのですが、獅子舞が始まると、獅子の周りに近づくことができなかったのです。生きているように感じました。小休止のとき、はずされた獅子頭を手にして、ここの紐を引くと口が動くのだな、なんて確認しているのに、舞が始まると、私はどうしても獅子の近くに寄れなかったのです。小学校6年生になってもです。あれは何だったのかと、今でも不思議です。
ああ、なつかしい。
焚き火にあたって、おでんやお酒がまわってきて、
太鼓焼きもどうぞどうぞと振舞われて、
子どもたちは夜遅くまで神楽のまわりで遊んでて、
酔ったおじちゃんが、ふらふら一人でしてるのを、
適当にみんなが「はいはい、こっちにおれ~よ」と言ったりして、
あったかい、あったかい時間。
空にはこれでもか!と星、星、星。流れ星。
うちの子たちですが、
このはは、ウツラウツラしながらも大蛇が出るまで見て、
三四郎は、神社に着く前に車で熟睡してしまいました。
『山のがっこうの校長先生がお爺さん、田んぼのやすじいがお婆さん役』
とかいうのが、いいね~。
それと、焚火があるのが、いいね~。
子どもたちは見ることができたのかな?