今日、知らないところからポスターが届きました。
うち宛になっているので開けてみると、大きなポスターが入っていました。
「三本木農林高校馬術部」 「私、コスモの目になる!」
何か聞いたことがあると思いだして見ると、数年前、大坂先生(日本で初のオリンピックジャッジをした人、またいずれこの人の話も)がビデオを見せてくれたあの馬だ。
そのビデオは、女の子が乗って馬場をやっているところで、簡単な課目でしたが、馬は自信に満ちて演技をしていました。
「この馬は目が見えないんだ、騎手を信頼して動いている、、」
以下、「うみねこ博物館」さんからお借りしました。
【タカラコスモス】
~盲目の女王~
生年:1984年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:日本(青森県 十和田市)
目が不自由であるにも関わらず、立派に子育てをやり遂げ、マスコミを巻き込んで多くの人々に感動を与えた元馬術競技馬。それが本馬タカラコスモスなのである。その波瀾万丈な馬生を辿っていきたい。
タカラコスモスは実は中央競馬出身。1987年、福島競馬場でデビュー。新潟、中京のローカル競馬場を舞台に転戦するも、成績はまったく振るわなかった。
タカラコスモスは中央競馬から去り、新天地を求めた。どんな人間にも取り柄があるように、どんな馬にも取り柄がある。タカラコスモスは1990年、競技馬としての基礎訓練を受けるため、日本中央競馬会宇都宮育成牧場へ入廐し、そこから日本獣医畜産大学へ。これが正解だった。タカラは「第40回全日本学生障害飛越競技」に出場し、いきなりの三位入賞。1992年には優勝という快挙を成し遂げるのだった。難易度の高い障害を、まったくの気後れなく軽やかに駆け抜ける戦慄の走りに、誰しもがタカラコスモスの時代を予感した。
この時のタカラの雄姿に胸打たれ、引退後は自らが引き取りたいと考えたのが、青森県三本木高校教論で馬術部顧問を務める藤森亮二氏であった。
時は流れ1996年、藤森氏の元へ一本の電話が入った。「タカラコスモスを引き取ってもらえないだろうか」突然の報せに呆気にとられながら、藤森氏の顔には納得がいかないというような、怪訝な色が浮かんでいた。おかしい…引退には早すぎる…。
「馬体にはどこにも異状がないのだが、瞳に白濁が少し見られ、治療を施したけれども回復が期待できない。大学は引退を決めたので面倒を見てもらえるならば輸送したい」、との話だった。
この年、藤森先生は全国高校馬術競技大会が間近に迫り、運営準備のための激務の生活を強いられていた。そればかりでなく厩舎がない。部活動も離れた牧場や大学に馬を預けてやっていたが、そこの馬房にも余裕はなかった。しかし、なんとか温泉牧場に馬房が確保でき、タカラコスモスは平穏無事に引き取られることとなった。
タカラが引き取られた十和田市は、幸運にもかつて旧陸軍の軍馬補充部があり、温泉治療と薬草がふんだんに活用されていた。タカラコスモスはここで眼の治療に専念することになった。
タカラが眼を癒している頃、藤森先生は部の存続の命運を懸けた「全日本高等学校馬術選手権大会」の準備に追われていた。
この大会を成功に導かなくては、校内に活動場所が確保できなくなってしまう。それはタカラコスモスの行き場がなくなることも意味していた。
この大会は乗馬クラブの施設で開催されることが多く、開催するには50頭規模の厩舎、競技場、障害物、そしてスタッフがいなければ運営が難しい競技の特殊性がある。さらにその上、多くの学校職員が馬術競技を観たことすらなかったし、校長が春に赴任したばかりで大会返上の弱音を吐いていた。しかし、藤森先生はあきらめなかった。懸命な姿勢に周囲も感動し、協力をかってでてくれた。部員はもちろん、他の教職員や卒業生まで加勢に駆け付けた。作業場は夜遅くまで灯りが消えることがなかったという。
大会は無事に終了。大会会長は馬術部以外の高校生も巻き込んだ大会運営を讃えた。藤森先生の血の滲むような努力と、大会成功への執念が呼び込んだ勝利と言えよう。
大会も終わり、熱い日差しが連日つづく8月後半、タカラコスモスが療養生活から復帰。馬体から疲れはスッカリ消えていたものの、眼は以前より悪化していた。温泉も薬草も、眼には効き目がなかったようだった。馬場に出ても、ただただ同じ場所をグルグルと周回するだけで、障害を飛ぶことなどままならないような状態だったのだ。
藤森先生はなんとかタカラに活躍の場を与えたいと、考えた。熟考した結果、タカラコスモスの仔を生産してみようという、一つの答えが出た。2000年5月、日高に渡り、サンクレールとの交配が決定された。津軽海峡を渡る船の船倉から、蹴り続ける音が鳴り響く。暗く狭い場所に閉じ込められ、不安の余りにそんな行動をとってしまったのだろう。
出発から二ヵ月が過ぎ、タカラコスモスが藤森先生の下へ帰ってきた。赤ちゃんを身籠ったタカラを担当したのは、女子部員の湊華苗さん。苦労しながらも精一杯面倒をみていた。そんなある日、自分の声に近寄ってきたという。まさかと思いつつ、藤森先生が行ってみると、放牧地にいるタカラは華苗さんの声を聞き分け、遠くから近寄ってくるではないか。プライドが高い上に、目が不自由であるタカラコスモスが、華苗さんに心開いたのである。華苗さんの懸命な世話により、タカラは心を許すだけでなく、身体能力も回復させていった。
そして、華苗さんが三年生最後の馬場馬術大会にタカラコスモスと共に出場。タカラは前日に肢を傷めていたにも関わらず、必死に演技し続けた。騎乗していたのが、自らに尽くしてくれた湊華苗さんの最後の大会だと知っていたのだろうか。
翌年の4月、タカラコスモスの初仔が誕生。「モスカ」と名付けられた。しかし、モスカが乳を飲もうとして寄りすがると、タカラは逃げ惑い授乳を嫌がってしまう。それでもなんとか授乳にこぎつけると、周囲からは拍手が起こるのだった。しかし、まだ問題があった。モスカが踏まれるという事故が、起きてしまう可能性が高い。子馬に最悪の事態が起きるのを未然に防ぐため、何らかの対策を講じる必要があったのだ。タカラは視力が低下していたものの、聴力が発達していた。そこで、モスカの首に鈴を付けてみた。すると、タカラは鈴の音で子馬の居場所を判断するようになった。音が消えると動きを止め、鳴り始めるまでタカラは馬房の片隅にじっと立ちつくすようになったという。
タカラコスモスの子育ては地元の新聞社・民放局はじめ、取材が殺到。やがては日本テレビの『ズームイン』で3回放映され、高い反響を呼んだ。県内外から、激励や感想などが電話や手紙で学校に届くだけでなく、お守りやニンジン、リンゴが送られてきた。時としては、薬品まで送られてくる時もあったという。
不況に次ぐリストラ、勝ち組と負け組の格差社会、弱い者が徹底的に虐げられる時代…虚無の不安が立ちこめる現代社会に、タカラコスモスは「希望と勇気」という、ほのかな光を与えたのだ。自らの眼の光を引き替えに…。
現在のタカラコスモスは、担当部員を少々てこずらせているようだ。やはり、湊華苗さんと紡ぎ上げた信頼関係は、よほどの厚みを持っていたということなのかもしれない。そして、今の藤森先生の夢は、タカラコスモスの二世で馬術競技会を駆け回ることだという。
人が馬を想い、馬も人を想う相思相愛の旋律が、今日も流れる…時代と言う名の譜線の上に。
★彡追記メモ★彡
☆日本で盲目の馬が子育てをした記録は、タカラコスモスの例を加えても2~3例しか見られない。
☆『盲目の名馬 タカラコスモス』というビデオが、地元企画会社の手で作製され、販売されている。
☆『私、コスモスの目になる』(橘内美佳 著、主婦と生活社 2001年)という本が出版され、この本は県内の小中学生が読書コンクールに一番多く取り上げるほど評判になった。健気な生き様が人々に感銘を与えたのだろう。
目が見えないということは、どれだけ不安なことか、、、、
目の見えない犬が、訓練競技会に出ていたのを見ました。
顔を見るまでわからなかったのです。目が白いので?と思って見ていると飼い主さんが「この子、目が見えないんです」
脚側も、招呼も遠隔もちゃんとやっていて、聞くまでほんとにわかりませんでした。
車椅子で競技会に出ていた人も見ました、車椅子で犬の肢を踏まないように注意しながら演技をしていました。
感動は近くにあり、動物とはこんなに絆が結べるのですね。