Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

自筆年譜その3

2006年09月01日 | 自筆年譜
自宅から通える県立高校に進学したのが1991(平成3)年の春で、
たいして迷うこともなく放送部に入部する。おっちょこちょいだったのは、
その部がどのような活動をしていたのか、一切下調べだとか様子見だとか
をすることなくいきなり飛び込んでしまったことであって、放送室の
ドアを開けた私を出迎えてくれた3年生の女子の先輩(3人くらいいた気
がする)は、私が入部した翌日から一切姿を現さなくなった。

私は、ひとりぼっちになった。

そりゃ確かに知恵のついた今であればアメリカンスタイルだとか言って
1人でCD回しながら喋ってもそれなりの格好はつくだろうが、
相当なレベルで私は、自分自身について勘違いしていたことがあった。

私は私の喋りが、とてもカッコいいと思いこんでいた。
16歳、いやまだ15歳だ、恐ろしい話だ。
そういう放送を聞かせられていたクラスメート、当時の在校生にとって
はたまったものではなかっただろう。許してほしい。今更だけど。

そういうわけでひとりでに、私の高校DJ生活は、自分も気付かない
ままいばらの道へと突き進むのであった。

その当時、帰宅してすぐに、上田定行氏の「HeatWave 80.7」(FM愛知)
で20時まで。その後、月曜~木曜の夜は「冨田和音株式会社」、金曜は
「フライデート」、そしていよいよ現在に至るまで最大の影響を残すこと
になる、「さだまさしのセイ!ヤング」(文化放送ー東海ラジオネット)
と出会うことになる。

あ、本格的にオールナイトニッポンに手を出し始めたのもこの頃だった
か。しかし、いつもウンナンの金曜日で言えば、「タコイカジャンケン」
の途中で寝てしまうのであった。

ここまでで高校1年の冬、くらいか。
演劇部の音響セッティングを手伝いに行って、それ以後の10何年間
が用意されることになろうとは、16歳の肥満児の私はつゆ知らない。
体重計は97キロを指していた。

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