■この風景に、確かに彼も、私もいた。
■2001(平成13年)の春から夏にかけて。所属していた「集中チ(←○囲みあり)療室」では、毎週土曜日の午後7時半位から2時間ほど、今はイベント会場や仮設店舗が毎週のように軒を連ねる、金山総合駅のコンコースでストリートライブを開催していた。歌って踊ってコントして1ターム25分くらいだったろうか。それを多いと3回。投げ銭のシステムは取らない代わりに、来たるべき大一番に向けて、新規のお客様との繋がりをとにかく広げるというミッションがメンバーには課されていた。
■実際、ここで出会って大学の学園祭に呼ばれたり、活動範囲が劇場のみで活動していたのに比べて徐々に未知の方角に広がっていった記憶が、確かにある。そこから干支でほぼひと回りして、後にこういう動きを模倣してくる若者が今のところ見つけられないのは、多少は気の利いたアクションであったことの証かもしれない、とも思ったりする。まあ半年続いたところで、ニューヨークで9.11が起こり、それを境に警備が途端に厳しくなってしまって続行が不可能になったという事情だから、大して自慢にはならないのですが。
■初めて会ったのは、そうして一緒の現場を踏む仲間になるずっと前、1996(平成8年)の春くらいではなかったかと思う。彼が19、私は20。少し離れた郊外の大学に通いつつ、集中の母体になった「劇団バッカスの水族館」に加わってきて、今でも活動の拠点になっているはずの名古屋大学北部学生会館で、よくだべっていた。自分も名大生ではなかったから毎日顔を合わせていたわけじゃないけれど、物静かな奴というか、余計なことは口にしない男だった。自分と正反対だ。
■その代わりに、彼には音楽があった。ギターとピアノをはじめ、一通りの楽器は彼の思い通りに音色を奏でた。僕はただ指をくわえて見ているだけだったが、それでもどうにか探してボンゴを叩くようになったのは、彼が弾いている楽しそうな姿に触発された部分が多分にあるということを記しておきたい。だから、彼の存在がなければ、僕はクラブ・ダイアモンドホールのステージに上がることはなかったのだと思う。踊れなかったし、今以上に芝居も下手くそだったから。
■僕が2003(平成15年)の春に集中を離れてAfroWagenの屋号で活動を始めてからも、していた仕事の種類が近しいこともあって、一番頻繁に連絡を取り合っていた間柄だったけど、最近しばらく連絡を取っていなかった。メールしてもあまり返事らしい返事は返ってきた記憶はなかったので、特に気に留めていなかった。そうしたら、これだ。名古屋市博物館で「大須観音展」を観てる時に飛び込んできた留守録のメッセージを聴いて、よからぬことだとは予想がついたけれども、だからってこんなに突然いなくなってしまうことはないじゃないか。いくら言葉が見つからなかったにせよ。それで、この場所に来てしばらくじっと思い返していた。
■すべては流れ去っていく。同じような景色に見えて、その内実は一瞬たりとも元の形をとどめないのだ。打ち込める楔の手数は自ずから限られていても、やるしかない。やっぱり使ってしまうけど、「あいつの分も」。決まり切った言葉で締めようと思ったけれど、あと1回、昔の写真を掘り出して、記録として残しておきたい。もうしばらくお付き合い下さい。
信じられなくて、頭がぐちゃぐちゃです。
実家から持ち帰ったものに
誰かからもらった集中ファンの集い飲み会の
写真たちが出てきたよ。
わっくんの写真がいい笑顔過ぎた。
人生の前半に 渉くんに御世話になり影響を受けたものです。
長らく、逢えてなくて一番 酒を酌み交わしたい相手でもありました。
勉強、運動、遊び、全てバランスよく出来る方で逆を行く僕はいつも比較されてました。
ニシムラさんの覚え書きのおかげで、彼の訃報と私の知らない彼の一面を知るこが出来て感謝いたします。
この場をお借りして、御冥福をお祈りいたします。