Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

自筆年譜その5~1年半おきの回想

2009年08月02日 | 自筆年譜
■何だかそういう気分になるとこのカテゴリ、自筆年譜を書きたくなるらしい。それにしては1年半は開きすぎだ。これからはもう少し気を付けたい。
■「さだまさしのセイ!ヤング」のリスナーと平行して放送部の活動をしていて、大会というものがあった。今も変わりなく行われ、ここから未来のマスコミ(アナウンサー)就職も割と出ているNコン(NHK杯全国高校放送コンテスト)ともう1つ、全国高等学校総合文化祭につながるそれぞれの専門部県大会というものがあった。毎年3学期に行われ、優秀賞以上は翌夏の全国高文祭に出場できるというものだった。結局自分には縁はなかったのだが、15年を経て、その全国大会が今年は三重県で開催されている。しかも「詩のボクシング」開始前のわずかな時間に、なんと朗読部門が行われると言うではないか。
■と、いうわけでこの続きは翌朝、現地で今の高校生たちの真剣勝負を観た後で書いてみたい。起きれるかなあ、松坂市に朝9時なんて…。

自筆年譜その4、のための虫干し

2008年05月11日 | 自筆年譜
■ぼけっとしているから、前回の年譜から1年半以上もたってしまった。そういうわけで虫干しとばかりに、「さだまさしのセイ!ヤング」第489回(大阪・MBSより)、490回(東京・文化放送より)を再生していた。もちろん、手は「潜水生活」の制作作業の真っ最中である。
■午前0時を回ると、実は番組名が変わり、「セイ!ヤングアネックス」として、IBC岩手放送からのネットを受けていた。その後20分くらいしてから始まるのが、普通にハガキを読むだけの何分間。この頃は、まだ具体的に名前が付いていなかった、のかも。そこから聞こえてきた、ありがちな悩み相談にたいしてまっさんは応える。間違えたら、失敗したら2度とそれから間違えないようにすれば良い。何もやらずに後悔するのが1番いけない。男だったら…、と。今と全く、ちょうど一昨日の夜にやっていた「連休明けもさだまさし」の時と変わらない調子で、一緒に自分の心も虫干しされたような気持ちになった。聞いて良かった。
■そういうわけで今週以降、チラシが先週までより多少は凄い勢いで出回ります。是非来場をご検討下さいませ。


自筆年譜その3

2006年09月01日 | 自筆年譜
自宅から通える県立高校に進学したのが1991(平成3)年の春で、
たいして迷うこともなく放送部に入部する。おっちょこちょいだったのは、
その部がどのような活動をしていたのか、一切下調べだとか様子見だとか
をすることなくいきなり飛び込んでしまったことであって、放送室の
ドアを開けた私を出迎えてくれた3年生の女子の先輩(3人くらいいた気
がする)は、私が入部した翌日から一切姿を現さなくなった。

私は、ひとりぼっちになった。

そりゃ確かに知恵のついた今であればアメリカンスタイルだとか言って
1人でCD回しながら喋ってもそれなりの格好はつくだろうが、
相当なレベルで私は、自分自身について勘違いしていたことがあった。

私は私の喋りが、とてもカッコいいと思いこんでいた。
16歳、いやまだ15歳だ、恐ろしい話だ。
そういう放送を聞かせられていたクラスメート、当時の在校生にとって
はたまったものではなかっただろう。許してほしい。今更だけど。

そういうわけでひとりでに、私の高校DJ生活は、自分も気付かない
ままいばらの道へと突き進むのであった。

その当時、帰宅してすぐに、上田定行氏の「HeatWave 80.7」(FM愛知)
で20時まで。その後、月曜~木曜の夜は「冨田和音株式会社」、金曜は
「フライデート」、そしていよいよ現在に至るまで最大の影響を残すこと
になる、「さだまさしのセイ!ヤング」(文化放送ー東海ラジオネット)
と出会うことになる。

あ、本格的にオールナイトニッポンに手を出し始めたのもこの頃だった
か。しかし、いつもウンナンの金曜日で言えば、「タコイカジャンケン」
の途中で寝てしまうのであった。

ここまでで高校1年の冬、くらいか。
演劇部の音響セッティングを手伝いに行って、それ以後の10何年間
が用意されることになろうとは、16歳の肥満児の私はつゆ知らない。
体重計は97キロを指していた。

自筆年譜その2

2006年08月26日 | 自筆年譜
コメントも頂いたこともあるが、しばらくラジオの話を続ける。
別に関西圏のラジオはMBSの日曜日の「ヤンタン」だけでなくて、
木曜日のダウンタウン+芳本美代子、金曜日の野沢直子+笑瓶師匠+
根本要(スタレビ)、土曜はダブルまこと(北野誠+C-C-Bの関口誠人)
に羽野晶紀、その後古田新太が加わったのではなかったか?で、後番組の
続いて始まった「ヤンタンミュージックゾーン」やがて「ぱんげあクラブ」
で出会ったジェフ・バークランドに上田正樹、ABC(朝日放送)で言えば
電波の関係で入ったり入らなかったりしたのだが、「ABCラジオシティ」
のコング桑田+キンタみーの、槍魔栗三助(生瀬勝久)、KBS京都
「青春ベジタブル」の森脇健児(!)というところがぱっと思いつくところ。
ABCは名古屋ではCBCと、OBS(ラジオ大阪)は東海ラジオと周波数が
近接していたために、ずっと雑音を聞いていたという記憶が多い。
そんなことを話題として共有できたのは、リーディングで大阪に通うように
なるまで、大学に入った当時知り合った「バッカスの水族館」の元・館長
のミズハラさんだけだった。今、お元気なんだろうか?

で、いきなり話は名古屋に戻る。
小学校6年の時、来客中の実家で暇つぶしにラジオをいじっていて、
偶然はいったCBCの「なんだかんだで生放送」が最古の記憶なのだが、
初めて自覚的に聞いた名古屋地区のラジオは、…やはり「冨田和音株式会社」
と、一宮市という地政学的(?)条件からクリアに受信できたGBS(岐阜放送)
ラジオの「ヤングスタジオ1431」(岡村洋一→戸井康成、宮本忠博)で
あり、「ナイトスクランブル~急げダイヤル1431」であったかと考えて
しまうが、それより強烈に残ったのは。この時期、高校受験のために3ヶ月
ほど「断ラ」をしていることだ。親戚の兄ちゃんから譲ってもらったパイオ
ニアのでかいコンポのチューナー部に紙を貼って、「ヤンタン」専用機だった
日立のラジカセも親に頼んで仕舞ってもらって、当時複合選抜制度が3年目を
迎えた愛知県立高校のBグループ面接が終わる3月16日?まで。
それを終えて、ふたたびチューナーを鳴らした時に飛び込んできたのが、
この前も挙げたが「ラジオでフライデート~夜はこれから!」だったのだ。
秀志さんが歌う。引込線みたいな俺の人生にも、灯りをともして最終電車が
来るというあの歌のタイトルは未だに知らないけれど、夜空の高さ、深さを
教えてくれた3時間40分の番組のエアチェックを、なぜしておかなかった
のかと今になって悔やまれる。

ようやく高校に入学する。あと何回続くのか、書いている自分にも判らない。

自筆年譜その1

2006年08月18日 | 自筆年譜
1988年10月ごろのお話。13歳になったばかり。

勉強の合間にラジカセをガチャガチャいじっていたら、AMラジオのモードに
なっていたことにも気付かないまま、CBC(中部日本放送)と東海ラジオの間に
少し強めに聞こえる日本語の放送局を発見する。あわてて紙切れを小さく切って、
その辺りをできるだけ正確に、ずれないようにマーキングする。

それが、初めて聞く大阪のラジオ局、MBS(毎日放送)ラジオとの出会いだった。
日曜日は当時も今も「MBSヤングタウン」。西川のりお+澤知香+柏木宏之アナの担当。
その後、1年にわたって毎週聞き続けることになる。「そりゃあんたシャレならんわ」
「のりおの人生大船まかせなさい!」のコーナーを食い入るように聞く。

そして23時45分に放送が終わると、その当時は「ラジオ図書館」が始まったのだった。
決して聞きやすいと言えない電波状態の中、月曜日をいやいやながら迎えてしまう
茫洋とした心の中に、あれほど深く飛び込んで来た音楽は、現在に至るまで、あまりない。

どこかへ連れてってくれるような気がしたのだ。たかが200キロ位しか離れていない
ところから発せられる電波の向こうに、いろいろな世界が待っていると悟ったのかも。

今の表現することに携わり続けている全ての原点は、あの夜の、けれどとても夜とは
言えないほどに光っていたラジカセにあるかもしれない、と今でも思う。

現在のMBSラジオの夜は「ナニワ音楽ショウ」。当時も、今でも活躍中の南かおりさん
の名前を「劇場へ!」の時に見つけて、少し、中学生に戻った気がした。
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