阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

「江戸しぐさ」とは

2012年10月24日 | 江戸



「江戸の繁盛しぐさ」越川禮子著



プロローグ(おめみえしぐさ)より抜粋

世は空前の江戸ブームです。しかし、これから申し上げるのは、今、世の中に出まわっている江戸ではなく、もう一つの江戸、つまり新しい別の江戸のことです。ひとくちで言えば「江戸しぐさ」。将軍家御用達の大手商人を先頭に商人たちが、繁盛するためにいろいろ知恵を絞り、工夫して築き上げた、人間関係を円滑に進めるノウハウについてです。

私たちが、今日、小説やテレビのドラマで見たり聞いたりする江戸の話は、この本のテーマである江戸の町が最高に繁栄していた文化・文政(1804~1830年)のころの様子とニュアンスが違っているようです。なぜなら現在の歴史の教科書や江戸に関する書物に出てくる江戸の話の多くが、明治の政変(明治維新、1869年)以来、「勝てば官軍」の、いわゆる「勝者」によって語られ、記録されたものだからです。

旧・幕府方の人たちは、江戸の町が官軍に占拠された時、「二世紀半以上の安穏と繁栄を保証して下さった公方様(将軍)に申し訳ない」と、しもうた屋(雨戸を締め切った家という意味)になったそうです。町屋(町中の商家)では全て、のれんを下ろし、入り口は「トッピンシャン」(戸を閉める音)と閉ざしてしまったそうです。この折、重要な家訓など記録を燃やした例が少なからずあるそうです。

(後略)





私はこれまで、いくらか江戸に関する本を読んでまいりましたが、教科書教育における封建主義的閉鎖世界、という認識から、漠然と「争いがなく、平和に人々が幸せに暮らしていた時代」、というものを新しい認識として得て感心していた部分がありました。

しかし、この「江戸の繁盛しぐさ」という本を読んで、その漠然とした認識が、さらに大きく覆されてしまったように感じています。

というのも、260年という長い間続いた江戸という時代は、その時代に生きた人々が、ただ漫然と平和を願って生きていたのではないことが、「江戸しぐさ」というものを通じて感じたのであります。

平和を願う気持ちはどの地域でもいつの時代も変わらないとは思いますが、それを積極的に、具体的に民衆のレベルから、実際に考え実践している時代というのは、現段階で理解されている世界の歴史を通しても、江戸時代ほどそれが実現されていた時代はなかったのではないか?と感じました。

徳川家康から始まる江戸時代は、長い戦乱の世の中から起こった時代であり、徳川幕府はもちろん、武士や農民、商人など、官・民全てが、「戦(いくさ)はもうコリゴリ」という共通の原点から、如何に平和な世を創り上げるか?を人々それぞれが考え実践し、実際に260年に渡る平和な世を創り上げてきた時代である、ということを感じました。

それらの平和への願いと、従来から影響を受けている、儒教や朱子学、神道や仏教の思想が習合されて、すべての人々の根底に流れる中で生まれた「江戸しぐさ」は、商人の商売繁盛のためのノウハウとはいえ、次第に江戸に住む人々の共通認識として育ったようです。

その奥深さは、単なる道徳や決まりという範囲を超えて、人間とは如何ようにあるべきか?という生命の哲学まで達するもののように感じました。



上記の抜粋の通り、薩摩藩や長州藩などの官軍による明治維新によって、「江戸しぐさ」という、江戸の人々の(ひいては日本の)無形の宝は、残念ながら徹底的に滅ぼされてしまいました。




「江戸の繁盛しぐさ」越川禮子著 p83-84より

「江戸しぐさ」はマクロでは太平の維持と、ミクロでは人間関係を円滑にするために、1590年の徳川家康の江戸入府以来、約二百年の間に、江戸町衆の英知の結晶として定着した。その間、日本はただの一度も外国を侵略せず、ただの一回も外国からの侵入を許さず、文字通り積極的な平和を守り通したのだ。戦後四十数年の今日の平和の六倍以上、このまま二十三世紀まで続く、気の遠くなるような長さの平和な時代が続いていたということになる。

だからこそ江戸の町衆の心は、耕され(カルチャー)、「江戸しぐさ」を土台として数々の町民文化が花開いていったのだ。

温故知新、古き良きものをダイナミックに掘り起し、今を楽しみ、余勢をかって未来に伝えることこそ、現代の私たちには必要ではないだろうか。それこそ「江戸しぐさ」の真髄であると言えるのだそうだ。

付き合いについては、江戸では人に限らず、全てのものに付き合うという感覚があった。たとえば、習字の「筆付き合い」、お月見の「満月付き合い」など。もっとも重視するのが「異国さん付き合い」「一見付き合い」。これは文字通りの外交で全くの赤の他人同士がいかにうまく付き合うかが問われた。

明治になって江戸の「お付き合い講」が禁止された時、古老たちは、「異国付き合いの方法を知らんような連中が、天下国家を取ってうまくやっていかれるんでしょうかね」「これでは三代目にはイギリスやアメリカとケンカして、シャッポを脱ぐようなことになりませんかね」と言って嘆いたという話が伝わっている。






江戸の人々は「お付き合い講」を通して、外国の方々との付き合い方に関しても、自国の利益を損なわないように、非常に慎重に対応することが出来る知恵がありました。

それが、薩摩藩や長州藩の「異国さん付き合い」を知らない官軍が政権を奪取して国政を担うことになり、結果的に江戸の古老たちが憂慮したとおりの歴史を歩むことになります。

このことから、明治政府を担った薩摩藩や長州藩の若い藩士たちが、幕末にイギリスなど外国の人々にそそのかされて、江戸の平和の真髄を知らずして、西欧化を近代化の旗印に、安易に倒幕に向かってしまった、ということが分かると思います。

坂本竜馬は今も英雄として取り上げられることが多いですが、明治政府樹立へ向けて、江戸が創り上げた平和への英知を壊すことに加担した、という視点から観れば、必ずしも英雄と言えるか?は疑問に感じてきます。



このように、現代の私たち日本人にとって、江戸時代やこの「江戸しぐさ」というものは、教科書では学べなかった未知の魅力に溢れており、しかしながら私たちのDNAの記憶のどこかにもあるようであり、またこれからの日本、というものを考えたときに、本来の平和への大きな手本であり指標となるものである、と私は感じています。

今後も参考になるものがありましたら、記事にしてまいりたいと考えております。

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