阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

とっても小さい、しかし全体的な争い。

2010年12月30日 | 日記
変なおじさんは昨日に引き続き、甥っ子軍団と遊んでいたんですが。

時として訪れる、兄弟ゲンカ。

将棋のコマで挟み将棋?か何かをしていたときだったのですが、弟が荒れて別な部屋に飛んでいきました。
自分はその遊びには参加しておらず、はたから眺めておりました。
その後しばらくはシクシク別の部屋で泣いている弟。
兄はおばあちゃんとその遊びを続けていました。

相当ひねているようで、その後も弟は場所を移しながらもシクシク。
イスを叩いたりして怒りをアピール。

その姿に対して、自分は一言。

「もういい加減、いいだろ」

その言葉を放ったとき、ふと自分に対しても言っているような感覚が。
思えば、目の前の甥っ子ほどの頃、このようにケンカして泣いていた自分がいた。
しかし、子供の兄弟ゲンカというのは、大人からしてみれば当たり前、かつ面倒くさいこと。
この言葉は面倒くさい大人の立場から発せられた言葉ではなかったか?!
と、ふと我に返ったのです。

かつて自分がそのようにシクシク泣いていたときに、ホントにして欲しかったことはなんだったか?
そう思い、その弟に聞いてみるのです。

「いったい何が原因なんだ?」

そのように聞いてみたら、弟はしゃくり上げながらもその理由をトツトツと話し始めるのです。
その内容は、とても具体的とは言えるものではなかったのですが、少なからず弟が心を開いた瞬間でもあったのでした。

あの時僕は、この争いにおける自分の言い分を、誰でもいいから聞いて欲しかったんだな。
そういったことを、時空を超えて感じるのでした。



第三者から見れば、子供の兄弟ゲンカというのは、突然、または偶然起こったような出来事のように見えます。
状況にもよりますが、「喧嘩両成敗」という、大人にしてみれば都合の良い言葉があって、問答無用で争いを治めようとすることも多いかもしれません。
しかし、争い(怒りや欲望)というものは、小さいものから大きいものまで、その原因を辿っていけば必ず元になるものが存在するもの。
それは平生落ちついている人の間で、突然争いが起こらないことからもわかるものです。

このようにアプローチする流れがない場合、争いが起こったとしても両者納得のもと、完全に争いを治めることは出来ない。
なぜなら、そこに必ず真相の隠蔽が存在し、隠蔽による心や物理的な被害が存在する。
その心の被害は、意識層から薄いベールを被せ、無意識層に静かにフタをする。
無意識層にフタをされた心は、まず始めに自分自身の自我を誤解する。
自分自身の自我を誤解する、ということは、認識される世界の誤解であることに他ならない。
この薄いベールは、度重なる真相の隠蔽によりその厚みを増し、誤解を多く含んだ自我形成を進め、緩やかな歪みとなる。



今年は仏教を少しずつ勉強した年になりましたが、これはいわゆる「集諦」ということです。
「集諦」とは、仏教の四諦における、苦しみの原因を明らかにすることです。
この世の根本は苦しみであり、その苦しみには必ず原因があり、それを明らかにして滅し、正しい道を歩む、というのが仏教の四諦の教えです。
明らかにされない苦しみは、再び目の前に現われ、自分自身や他者への誤解を招くものとなります。

「理不尽」、「無理を通せば道理が引っ込む」、などでも言われていますが、怒りや欲望から誘発される争いは、真実の道理に従わない場合、必ず誰かに心や物理的被害が発生します。
もしそういった争いの場に身を置いた場合、このような「集諦」のアプローチによって解決できることも多いかもしれません。



とっても小さい、しかし全体的な争い。

このことに気付けたなら、世界で起こっているあらゆる争いの解決の出発点に立っている、と言っても良いかもしれません。

要は、サイズ。根本は同じです。

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