空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

パーリ語を習う

2015-07-21 12:44:46 | 日記・エッセイ・コラム

 『望空游草』からの転載記事です。

            

 昨年5月、パーリ語を習い始めた。

 私が住んでいる市の公民館の一室を借りてパーリ語講座を開く話が持ち上がったのは4月のことだ。

 この『望空游草』第3号の編集後記に、「『望空游草』が送られてご迷惑な方は遠慮なく言ってください」と書いたら、早速、「礼状を出さなければと気になる性分なので、送付を辞退させていただきたい」という内容のメールが届いた。

 メールの送り主は、尼僧の華蓮さんだった。華蓮さんのことは、仏教系のサイトで知った。著作が紹介されていたので、すぐ購入して読んだ。『座標軸としての仏教学』という本で、共感するところが多々あり、仏教を学んでいくうえでの指針になっている。

 華蓮さんが京都で仏教塾を開いていることを知り、京都へも出かけた。

 そのころの私は両親の介護で疲れ果てていて、少しでも息ができる場所がほしかった。出席したのは最後の2回だけだったが、ずっと考え続けていた「縁起・空・中道」がちょうどテーマに取り上げられていた。華蓮さんの語る言葉は、私に向けて発せられているかのように深く胸にしみいってきた。

 最後の回で、「空」について質問した。華蓮さんが「縁起と空」を理解できたのは具体的にどういうときだったのかということを聞きたかったのだ。

 ところが、電車に乗って車窓から見えるすべてが空なのだと思うと、言い知れぬ虚しさに襲われたという体験を話しているうちに、その時に感じた空しさがよみがえってきて、質問を続けることができなかった。

 その後、ダライ・ラマ法王の著書『実践の書』と出会った。

 空について誤って理解すると極端な虚無主義に陥ることがあると書かれた箇所があり、「修行の土台となるのは、世俗の真実〈世俗締〉と究極の真実〈勝義締〉で、二つの真実〈二締〉に対応した方便と智慧を実践するのが修行の道である」「もし虚無主義的に考えがちになったら、縁起についてじっくりと考え抜く」と、具体的に書かれていた。

 華蓮さんが仏陀の悟りについて「仏陀は悟られたのち、一度は涅槃に入ろうとされたが、この世界に戻って法を説かれた。この世界に戻ることが大事なんです」と話され、〈世俗締〉と〈勝義締〉の〈二締〉について、繰り返し説明されたことを思い出した。

 一般の仏教書は、「苦集滅道」という〈四締〉については詳しく書いているが、〈二締〉に触れているのはあまりない。華蓮さんと出会い、さらにダライ・ラマ法王の著書と出会って、私は「空」について理解を深めることができたように思う。それ以来、虚無主義に陥ることはなくなり、だんだんと「空」を受け入れられるようになった。

 仏教塾は終わり、華蓮さんとお会いできる機会はなくなったが、折に触れてメールをやりとりしていた。『望空游草』も勝手にお送りした。そして前に書いたようなメールが届いたのだ。

 私は、勝手に送付したことを詫び、「これからも自分なりに仏教の勉強を続けたい。できるなら、パーリ語で『ダンマパダ』を読めるようになりたい」という内容のメールを返信した。

 華蓮さんからすぐにメールが帰って来た。私の住んでいる同じ市に、華蓮さんの仏教講座を受講しているYさんという人がいて、パーリ語を学びたいと言っている、心当たりの知人にも呼びかけてパーリ語教室を開いてはどうか、という提案だった。なんという展開!

 それから、華蓮さん、Yさん、私と3人で会い、公民館の部屋を借りる手続きをし、ほかにIさん、Aさんも加わることになって、五月からパーリ語教室が始まった。

 公民館に届け出るにはグループ名がいるので、「サークルれんげ」に決まった。講師は華蓮さん、生徒は仏縁で華蓮さんと出会った30代~70代の女性4人である。

 パーリ語とは、古代の西インドの俗語(プラークリット)。紀元前3世紀ごろにスリランカなどに伝えられた南伝仏教(上座仏教)の聖典でのみ使われている言葉で、パーリ語を母語として使う者は現在はいない。

 本来、仏陀の教えは口伝で伝えられ、文字で記録されるようになったのは紀元前1世紀になってからだ。そのため、パーリ語固有の文字は存在せず、スリランカではシンハラ文字、タイではタイ文字というふうに、仏教が伝えられた地域の文字で表記されている。欧米、日本ではアルファベットで表記している。

 ちなみに、サンスクリット(梵語)は古代インドの文法学者が作ったことばで、俗語であるプラークリットに対して、サンスクリットとは洗練された言葉という意味。文字もあり、現在もインドの公用語の一つとして使われている。

 紀元前後に生まれた大乗仏教の経典(たとえば「般若心経」)はサンスクリットで表記されている。サンスクリットで書かれた経典が漢訳され、日本にもたらされた。法隆寺には世界最古の「般若心経」のサンスクリット写本が保存されている。

 華蓮さんは、パーリ語で書かれた原始経典の研究者である。

 私たちにパーリ語を学んでほしいという理由は、ご自分がパーリ語聖典を読んだ経験からである。今までいろいろな研究者によって翻訳されたものと、自分が原典に当たって読むのとでは、語学力もさることながら、その人の言語的センスや人生経験、宗教的な経験などによって違ってくる。仏陀が説いた教えを、自分なりでいいから、原典を読んで理解してほしいと言われた。

 私が初めてパーリ語に触れたのは、ある仏教講座でのこと。カタカナで書かれたパーリ語の「三帰依文」を講座の始めにみんなで唱えるのだ。

 独学でいろいろな仏教書を読んでいくうちに、「ダンマパダ」(Dhammapada)を、翻訳ではなく、仏陀が話されたであろう言葉で読みたいと思うようになった。

 「ダンマパダ」は、もっとも早くに成立した仏教テクストで、仏陀の言葉が偈の形でまとめられている。「ダンマ」は法すなわち仏陀が説かれた真理、「パダ」は句、言葉を意味する。岩波文庫から、古くは『法句経』、新しくは『真理の言葉』として出ている。

 仏陀が法を説かれた言葉は、中インドの方言、マガダ語だったらしい。マガダ語とパーリ語とは、まったく同じではないが、類似しているそうだ。スリランカに口伝で伝わった仏陀の教えが、文字で記録されるようになり、聖典(パーリ)の言葉であったことから、パーリ語と呼ばれるようになったとのこと。

 憧れのパーリ語を学べることになって、意欲満々。華蓮さん手作りの教科書をもらった時も、水野弘元先生の『パーリ語辞典』を購入したときも、小学校へ入学する子どもが新しい教科書を手にしたときのように、新鮮な喜びがあった。

 学ぶ喜びは今も変わらない。ただし、華蓮さんの教え方は、基本的な文法をざっと学んだあとは実践あるのみ。辞書を引いて、ひたすら経典を読む。

 パーリ語の音は、基本的には母音と子音の組み合わせ、単語の最後は母音で終わる。だから、ローマ字のように読みやすい。しかし、文字の上下に点や横棒や波型の記号がついたりすると、発音の仕方が違ってくる。

パーリ語はインド・ヨーロッパ語。名詞は男性、女性、中性があり、単数、複数がある。それに従って動詞も語尾変化する。動詞の過去、現在、未来形も西洋語とは少し概念が違う。語順も西洋語のようには明確に決まっていない。

 もっとも悩ましいのは、名詞・形容詞・代名詞・数詞は、性・数・格によって語尾変化し、これを曲用語というのだが、その語尾変化たるや、複雑きわまりない。

 おまけに、辞書には語基という基本形でしか記載されていないから、語尾変化の一覧表である「曲用表」を探して、語基は何か、男性名詞か、女性名詞か、中性名詞か、単数か、複数か、接頭語がついている単語か、複合語なのか、あらゆる可能性を想像して、辞書を引くのである。

 名詞だけで二十六種類の曲用がある。こんなふうだから、辞書を引く作業は、さながら暗号解読作業だ。一つの単語を引くのに、暗号表ならぬ曲用表や、教科書を何度もひっくり返して、やっと辞書に載っている単語の基本形にたどりつく。

 ところが、仏典は、本来口伝だったから、覚えやすいように偈(韻文)の形をとっているため、言葉が繰り返されたり、語順が入れ替わったりする。

 この単語は主語なのか、補語なのか、目的語であれば、どの動詞に対応する目的語なのか、ありとあらゆるケースを考えて、ようやく一つの文章を訳するに至る。「パーリ語ってすごい脳活になる」というのが生徒みんなの感想。

 パーリ語教室は11月で終わった。華蓮さんは言われた。「基本的なことは一応教えました。あとは皆さんで集まるのか、各々でやるのか分かりませんが、読みたい経典を、辞書を引きながら、読んでいってください。やっているうちにきっと読めるようになりますから」。

 パーリ語を学んで、発見もあった。たとえば「五戒」。漢語で書くと「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒」。日本語は「生き物を殺さない、盗みをしない、嘘をつかない、飲酒をしない」となる。

 パーリ語にも、在家者が常に唱える聖典の中に「五戒」がある。それを直訳すると「(私は)生けるものを殺すことから離れるという学処(戒め)を受持します、与えられないものを盗むことから離れる……、邪淫から離れる……、妄語から離れる……、放逸の原因である飲酒から離れる……」となる。

 本来、人間はめぐりあわせで殺人もする、盗みもする、嘘もつく、邪淫も犯す、飲酒して放逸にもなる存在である。

 そのようなことをしてしまうところから離れるという生き方が修行なのである。修行を積んでいるうちに、自己をコントロールできるようになる。

 悪行をただ禁止するのではなく、悪しきものから離れることで自己をコントロールできるようにするという考え方は、精神医学における作業療法に通じるような、人間観察が根底にあるように思う。

 パーリ語経典を読むことで、仏陀が世界や人間をどう認識されていたかを学ぶことができるのではないかと感じている。

 今年から月に一度、生徒同士で集まって、経典を読む勉強会を開く。一人で勉強するよりも、縁あって仏陀に出会った女性同士で、教科書や辞書をひっくり返しながら、いろいろな考えを交換するのは、いい刺激になると思っている。