空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

お正月

2014-01-03 13:15:17 | 日記・エッセイ・コラム

 明けまして、おめでとうございます。

 父の喪中なので、あんまり大声で新年のあいさつをするのははばかられるが、それでもお正月には違いない。

 元日は実家で迎えた。

 両親が健在であったころは、私は、例年11、12月になると暇を見つけて帰っては、大掃除をした。母はいつも、今年はおせちは用意しないと言いながら、結局、コープで3万円ほどのおせち料理とにらみダイを予約して、31日に取りに行った。私は黒豆と特製のごまめを作って持って行った。

 弟や妹の家族が、それぞれ用意したおせち料理を持って、1日から3日の間に押し掛けた。孫たちにお年玉をあげるのが、父の楽しみで、その習慣は、孫たちが成人して、母が亡くなった年まで続いた。

 大みそか、ぽち袋に孫の名前を書き、それぞれの年齢に応じてお金を入れる父のそばで、母は「みんな大きくなったんだから、もうやめたら」と毎年言っていたなあ。

 母が亡くなる前年、2010年の正月には、海外にいる姪とその婚約者のジョン、ただ一人のひ孫まで、家族全員が同じ日に奇跡的に集まった。その年は両親にとって最高のお正月だったろうと思う。

 母が亡くなり、父が施設に入所して実家が空き家になると、家族が集まる家は無くなった。

 それでも、私は実家に帰ってお正月を迎えた。

 一昨年は一人で、昨年は友人が、実家からそう遠くはない大神神社に初詣をしたいと言ったので、大みそかに一緒に年越しそばを食べ、終夜運行の電車に乗って大神神社に参り、明け方に帰ってひと寝入りして、簡単なお雑煮を食べた。

 今年も大みそかに実家に帰った。自宅から雑煮用の野菜と前日に用意したお煮しめ、黒豆を持って帰った。

 実家近くのコープは閉店間際、しかも元日は休みなので、何もかもが安くなっていて、それらを買い求める客で大賑わい。私は雑煮用の鶏肉と、年越しそばの材料、晩ご飯用の弁当、お墓と神棚用の榊を4束買った。

 テレビを見ながらの晩ご飯(すごくまずい)のあと、目につくところの埃払いをし、家中に掃除機をかけた。紅白を見ながら(知らない歌手ばっかり)の年越しそば(これも天ぷらが衣ばかりで胸やけがしそうなぐらいまずかった)を食べた後、ラジオ深夜版を聞きながら寝た。典型的な独居老人の大みそか風景だ。

 

 7時ごろに起きて、神棚に榊を供え、 大祓詞を唱えた。母亡きあと、飛鳥坐神社の宮司さんが祓詞の言葉が書かれた冊子をくださった。それを見ながら、実家にいるときには毎朝、唱えている。

 その後、墓参りに行った。

 この墓地は村の共同墓地で、空いているところを新しい住人に抽選で提供してくれたものである。ほとんどの墓には、新しい花が供えられていた。近くに住んでいる人が多いので、花は枯れる前に替えられている。

 元日の墓参りはやはりすがすがしい感じがする。榊を供えて、こんどは大祓詞ではなく(冊子も持って行かなかったので)、般若心経を唱えた。

 良いお天気なので、庭や畑に立ち枯れている菊などの花を刈り取った。サボテンやアロエなどの多肉植物の鉢を、ナマコ板で覆っただけの、父手作りの温室に入れた。

 

 午後から、末の弟夫婦が来た。弟たちが買ってきたお寿司と、私の作った簡単なお雑煮、煮しめ、黒豆でお正月の食事をした。

 実家は、末の弟の名義にすることに兄弟で話し合って決めた。他の兄弟は相続放棄の書類にサインしなければならない。その書類に私が最後にサインした。父がずっと前に書いていた遺言には、私が住むように書かれていたし、私も父の死後は実家に住むつもりにしていた。

 実家は田舎で、いろいろ不便なことも多い。父が施設に移って分かったことだが、病院、介護業者の対応も、自治体の対応も、今、私が住んでいる地域とは、ずいぶん遅れている。これから年老いていくことを考えると、元気なうちは田舎暮らしもいいが、いずれ動けなくなっていくことを考えると、今、住んでいる地域の方がはるかに便利である。

 「親の残した家を大切に思う気持ちは分かるが、これからは自分の年老いたときのことを考えて、住むところを決めるべきではないか」と妹にも言われた。

 そう言われれば、そうだ。出かけるにしても、実家近くには何もなくて、少し遠出すれば交通費もばかにならない。引きこもり老人になりかねない。実際、父が車の運転ができなくなってからは、両親はどこへも出かけなくなり、老化のスピードも速くなった。

 妹も私も一人暮らし、年金も十分ではない。いまから公営住宅に応募し続けて、安い家賃の高齢者住宅に入れれば何とかやっていけるのではないかというのが、妹の老後の計画である。思い優先で物事を決める私に対して、妹はなかなか現実的である。

 とりあえず、私の次に家への思いが強く、同じ県内に住んでいる末弟の名義にすることにしたのである。弟は仕事の関係で、あと5年は移れないと言っている。その間、私が今まで通り、時折帰って、家や庭の手入れをするつもりでいるが、5年後にどうなっているか、誰にも分からない。

 書類にサインするとき、いろいろな思いが頭をよぎったが、考えるときりがない。弟はもうリフォームのことを話している。「あんた、リフォームより、自分がその時まで元気でいることのほうが大事だよ」と私が言うと、「そうやなあ、5年先には俺は死んでいるかもしれんしなあ」と病気持ちの弟は言った。

 弟夫婦とはざっくばらんな話ができるので、この先、家をどうしていくか、話し合いながら、気分転換のためにも実家に通い、守っていくつもりにしている。

 

 帰る前に、弟夫婦が、鈴なりになったキンカンを収穫した。

 弟は、甘いキンカンより未熟気味の酸っぱいものが好きなので、いつも早めに取りに来ていた。弟のお嫁さんは、テレビで見たキンカン・ソースをつくると言って、二人でたくさん収穫した。

 その様子を2階の窓から見ていた。「今年のキンカンは大きいなあ」、「もっと上の方が大きいのがあるよ」と言う声が庭に響く。弟は踏み台を持ってきて届かなかった上の方に手を伸ばして摘んでいる。

 その様子を見たり、久しぶりに庭に響く声を聴いていると、両親を囲んで兄弟で過ごしたころが思い出された。その時間は二度と帰ってこない。

 両親がこの様子を空から見ているような気がした。

 新年早々、おめでたい話ではなく、やはり生老病死の話になってしまった。