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村上春樹の「騎士団長殺し」を読んで

2017-05-30 11:23:10 | 日記
村上春樹は毎年ノーベル文学賞が決まる時期になるとその有力候補として騒がれてしまう作家だ。今年はボブ・ディランが受賞した。それはこの「騎士団長殺し」を読む前の出来事だったが、ボブ・ディランの詩人及び音楽家としての業績はさておき、村上春樹は21世紀に入ってから歴史修正主義への批判的な発言をしており、それは作家として真摯な態度であるし、彼が国家権力の御用作家などではないことを表している。前作「1Q84」におけるリトルピープルの存在などは、昨今、世界中を席捲しているポピュリズムの暗喩のようで実に興味深かった。そのあたりも感性が非常に鋭く、世界的なベストセラーを生み出す才能があるのだろう。

私はタイトルの「騎士団長殺し」を目にした時、半ば反射的に騎士団長が殺されない物語を予感していた。しかし蓋を開けてみるとそうではなかった。これはいったいどうしたものか。物語の後半で行方不明の少女を探す為の突破口が剣を使った殺人行為だというのは正直がっかりした。たとえその騎士団長が生身の人間ではなく見える人にしか見えないイデアであったとしてもである。老いた日本画家の描いた絵の中の騎士団長は殺されてしかるべきヒトラーのような恐ろしい権力の象徴なのかもしれない。ただそれで暴力による世直しを肯定するのはいかがなものか?物語の前半、日本画家の弟は第二次世界大戦において、不本意にも上官からの命令で人を殺めてしまう。血に塗れた彼の手は武器を取るのではなく本来ならピアノを弾いて音楽を演奏する為のものだったはずなのに。

村上春樹はかつてエルサレム賞の授賞式で、「高く、堅い壁と、それに当たって砕ける卵があれば、私は常に卵の側に立つ」とスピーチした。ただこの壁と卵の図式は、戦いという対立の図式でもある。今も世界の何処かで戦禍の中、当たって砕け散る膨大な犠牲者が存在する。もはや戦うことでは世界は良くならないのではないか。20世紀の話になるが、ベルリンの壁が崩壊した時、その偉業に最大級の貢献を果たしたのは旧ソ連の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフである。あの時、彼は全知全能を尽くして無尽蔵の卵が壁にぶつかることを未然に防いでいる。要は壁と卵の図式を用いなかったわけだ。

村上春樹の小説は中国でも多くの読者がいるらしい。その中国のチャン・イーモウという素晴らしい映画監督の作品に「英雄(ヒーロー)」というものがある。中国は民主主義の国ではない為、表現の自由は無い。しかし、この始皇帝の暗殺を主題に据えた物語のラストで、始皇帝は書家が書いた「剣」という字の奥儀を悟る。第一の奥儀は「剣を手に持ち敵を倒す」、これは戦場における兵士のことだ。第二の奥儀は「剣を手から離し、心の中に剣を持ち敵を倒す」、これは自らは手を下さず命令し、戦争を指揮する権力者のことだ。そして第三の奥儀とは「手からも心からも剣を捨て去る」、この最終の奥儀とは人の心の変革を意味する。つまり、為政者が広く大きな心で平和を希求し、戦争を放棄して平和をもたらすということである。なぜ、この映画が中国政府の検閲で許可を得たのかというと、多分それは解釈の違いだろう。恐らくチャン・イーモウ監督の真意は、戦いの果てに天下を統一し、力による平和をもたらすということの肯定ではないはずだからだ。
「騎士団長殺し」のブックカバーには剣が描かれている。この表紙のデザインを見てチャン・イーモウ監督の「英雄(ヒーロー)」という映画のラストシーンを思い出してしまった。

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