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2024年米国大統領選挙

2024-11-10 17:35:46 | 日記

 アメリカ合衆国の次期大統領にドナルド•トランプが選ばれた。彼は既に2017年から4年間、大統領職を務めている為、来年2025年から2期連続とは違う空白期を経ての再登板となる。

 この全世界が注目する超大国の大統領選、終盤までの事前調査では大接戦が想定されていたが、蓋を開けてみると、僅差ではなくほぼトランプ圧勝に近い結果になった。正直、個人的には米国史上初の女性大統領の誕生を期待していた為、真に残念である。


 ただ現職のバイデン大統領が、まだ選挙戦の辞退を決める前に、自分が大統領選に勝利した場合、その選挙結果に納得しない反対勢力の暴走を非常に危惧していたことを鑑みると、この結果は米国で内戦が勃発するという最悪の事態にはならないように思える。また今回の政権移行に際しては、前回のように元トランプ大統領が非協力的であったのとは逆に政権移行チームが発足し、スムーズに平和的に実施されることがホワイトハウスからアナウンスされた。そして同時に副大統領カマラ•ハリスを含めた現政権が、選挙結果を真摯に受け止め、肯定している姿も、この超大国が民主主義の法治国家であることを如実に証明している。つまり米国社会は様々な問題を抱えていても、民主主義は歴然と機能しているのだ。


 来年から発足するこの新しいトランプ政権に関してだが、前回のトランプ政権よりも、大統領の権限は増すと思われる。要は大統領令が州法で停止されたりするケースが減るのではないか。ホワイトハウスと上下両院が共和党で占められると、その可能性は高くなるからだ。民主主義を数の論理だけで解釈するなら、そうなってもおかしくはない。この為、政府の要人たちにはその良識が問われ、試されることになる。彼らに大統領の独断専横を止める器量があるかどうかだ。尤もそれ以前に当の大統領自身が、良識のある意志決定をしてくれれば何の問題もないはずだが。


 ドナルド•トランプという人物において、世界中が不安にさせられるのは、民主主義の超大国のリーダーでありながら、権威主義国家の独裁者タイプの人々に親愛の情を感じているように見えることだ。彼の行動が予測不可能な点も大いに不安だが、超大国が覇道に突き進む流れは非常に危険である。しかしこれは国際法を無視するような国の政府を支持してしまう国民や、そんな政府をつくる政治家を選ぶ有権者にもその責任はあろう。独裁者の常套句には、敵を倒せという類の勇ましいスローガンが多い。強者や勇者、あるいは英雄として着飾る演出に優れている。要は独裁者たちは英雄に憧れる人々に支えられているわけだ。


 だが、そんな独裁者を支える人々は、英雄に憧れても、英雄の一員にも英雄そのものにもなれないことに気付くべきであろう。ドナルド•トランプは億万長者だが、彼を支持し応援しても、大多数は金持ちクラブのような億万長者の一員にはなれないし、ましてや億万長者にもなれない。


 現時点では、新しいトランプ政権はアメリカ•ファーストを前回以上にエスカレートさせることが予想できる。ただ今年の大統領選の最中、ドナルド•トランプは暗殺未遂に遭遇した。その九死に一生を得た劇的瞬間は全世界に報道されている。生かされた命を、分断ではなく融和に使うことを願う。

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祝❗️被団協のノーベル平和賞受賞

2024-10-19 21:05:38 | 日記
 今年のノーベル平和賞は、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が受賞した。これは今、世界中で戦禍が増す中、大変な朗報であり、この受賞が戦争による忌まわしい殺戮が止む契機となることを切に願う。またこの壮挙によって、現実に被爆した過酷で悲惨な体験を持つ人々の核廃絶を訴え続けてきた、骨身を削るような不断の努力こそが、為政者の核兵器使用という凶行を許さないブレーキであったことが明確になった。実際に第2次世界大戦が終わって以降、核戦争が勃発せず、国際世論で核のタブーが確立した事実が何よりもその証である。

 しかしながら今回の受賞で初めて、被団協の存在を知った人々も地球規模でいえば多かったはずだ。それゆえ、この素晴らしい受賞が世界的な反戦の潮流となることを期待せずにはおれない。特に日本政府はこれを機に、ずっと批准を回避してきた核兵器禁止条約に、重い腰を上げて加わるべきであろう。世界で唯一の被爆国である以上は、当然のこと批准を実現化すべく、米国政府に粘り強く交渉してはどうか。核の傘に入っていても、いずれはこの傘を取り去る日が来ることを肝に銘じて、原発ビジネスなどはもう論外とし、それこそ被団協の人々の不屈の精神と行動力を見習い、人類全体が核廃絶を総意として目指せる段階に進めていただきたい。

 また東日本大震災において福島第1原子力発電所事故が発生したように、核被害は戦争による人災だけではなく天災との連動でも起こり得る。核の管理が人間の所業の範囲である限り、それは完全無欠ではない。つまり為政者が考えているほど万全ではなく、人災でも天災でも被爆してしまった日本の政府は本来なら、核の危険性を国際政治の場でもっと真摯に警告していくべきなのだ。そしてその為には、戦争の被害者としての記憶だけではなく、加害者としての記憶も国際社会で潔く表明していく必要がある。

 実際、市民レベルの国際的な対話の場で、1945年の広島と長崎の話になると、原爆投下は戦争を終わらせる為に仕方なくそうなったという諸外国からのコメントも出てくるが、これはやはり日本の海外侵略における加害者意識が弱いからではないか。つまり日本政府が加害者としての反省を侵略した国々に対して曖昧ではなく、もっと具体的に示していたら、こうした事情は変わっていたようにさえ思える。要は両国にとって不幸な時代があったなどという煙に巻いた言い方ではなく、あの時は侵略して領土を占領した自分達が悪かった、御免なさいと正直にそう言えば良い。こうした明白な謝罪があれば、被団協の人々の大変な苦労も幾らかは軽減されていた可能性はある。

 また被団協の歩みは反核反戦の重大性のみならず、日本社会の様々な問題点も浮き彫りにしてきた。まず被曝者が不条理な差別や偏見の対象になってしまったのは、古来から日本社会に根強く残る、同調圧力と村八分の集団意識であろう。このせいで、被曝者は原爆の外傷から異形視され、そのダメージは想像の域を遥かに超えている。しかしそうした痛切の念さえも起動点として、1945年の長崎を人類最後の核攻撃の被爆地にすべく、全身全霊をかけて反核反戦を貫き通されてきた。

 そして広島や長崎の被曝者は、何も日本人だけではない。連合国の捕虜やアジア諸国からの移民など外国籍の人々も、その地でこの最大規模の惨劇に遭遇している。つまり核廃絶は日本だけではなく人類全体が共有できる、戦争を根絶する為に必要な命題である。生あるものに必ず死が訪れる以上、地球上の全ての被曝者の方々も、何れこの世から去っていかれてしまう。ただ今回、この受賞の報道で心強かったのは、被曝経験の無い若者が確りと被団協の意志を継いでいることだ。記者会見では代表の箕枚智之さんと共に、ノーベル賞委員会からの最高の賛辞に、素直に喜んで謙虚に微笑んでいた。この姿に確かな希望の連鎖を感じた。そしてそれは戦争が生む憎悪の連鎖とは真逆のものである。
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伊藤若冲の「果蔬涅槃図」

2024-09-28 22:08:28 | 日記
 前回の「象鯨図屏風」に続いて、今回も伊藤若冲の作品を取り上げたい。あの「象鯨図屏風」に登場した象と鯨が、仏教美術における涅槃図の世界から、伊藤若冲が影響を受けたのではないかという話を書いたが、今回紹介する「果蔬涅槃図」はタイトルの通り、そのものずばり涅槃図の世界である。そしてこの涅槃図が素晴らしいのは、伊藤若冲にしか思いつかない優れたアイディアに満ちていることだ。

 見ての通りこの絵に描かれたのは、人間や動物ではなく果物と野菜の植物のみである。つまり釈迦の入滅というテーマの表現を、若冲は植物だけで構成するという離れ業でやってのけている。これは奇抜なことこの上ない独創だが、ある種のユーモアも交えつつ、涅槃図を異次元の高みへと解放しながら、仏教の本質を問いかけているのかもしれない。

 涅槃に入る釈迦は画面中央の大根であり、沙羅双樹は玉蜀黍だ。また釈迦の死を悲しむ弟子や信者、それに動物たちは大根を円になって囲む、その他バラエティに富んだ野菜や果物と化している。正直、この絵画世界はパロディと捉えることも可能であろうが、笑いを誘うからこそ教条的ではなく、全ての生命は平等だという、仏教本来の真摯なメッセージが自然に伝わってくるのだ。

 仏教に限らず地球上の宗教美術の多くには、宗教的権威や権力を補強するような匂いが濃厚に感じられたりもするが、元来、涅槃図は仏教美術において、そのような匂いとはほぼ無縁に近い。しかしそれでも、絵の中心に人間の釈迦が配されている以上、釈迦の威光は発せられている。恐らく伊藤若冲はこの威光を取り去り、宗教的権威や権力を微塵も感じさせない絵の完成を目指したかったのだ。またじっくり鑑賞すると、モノクロの水墨の世界ではあっても、若冲の植物への慈愛を込めた眼差し、そこから生まれた絶妙な筆さばきや明暗の表現により、植物固有の鮮やかな色彩を想像することは可能である。そしてその想像の過程において、鑑賞者は崇高な祈りや悟りさえ認識できるはずだ。つまり自らの心に仏性が在ることに気付く。

 伊藤若冲が生きた江戸時代、仏教組織は幕府の法整備によって、武装の牙を完膚なきまでに抜かれた状態になっていた。これはある意味で画期的なことである。なぜならそもそも仏教の始祖の釈迦は武力を否定しているのだから、この状態が間違っているはずがない。ところが戸籍管理まで寺社が全国的に担うことになった為、寺社はすっかりお役所の機能も備えて僧侶は役人よろしく官僚に成り果てた。室町時代や鎌倉時代に幕府に保護されていた禅宗の組織も、そこまで官僚化してはおらず、この統治形態によって地域社会の庶民の日常生活には、身分制の上位に置かれた僧侶からの圧力が生じはじめていたのではないか。 

 この「果蔬涅槃図」は現在、京都国立博物館に所蔵されているが、生前の伊藤若冲はこの絵を伊藤家一族の菩提を弔う京都の宝蔵寺を通じて誓願寺に寄贈した。誓願寺も宝蔵寺も浄土宗の寺院だが、若冲その人は晩年に伊藤家の宗派である浄土宗から黄檗宗に帰依し出家している。この行動を鑑みるに、やはり彼自身の仏教に対する見識は相当に深かったようだ。

 浄土宗の開祖の法然は平安時代末期を生きた敬虔な僧侶であり、比叡山で修行した後、無辜の民の救済を誠実に探究し、称名念仏による浄土への救済を唱えた日本史においても稀有な宗教家である。そして法然の直弟子の親鸞が開いた浄土真宗は、室町時代に親鸞の嫡流の8世である蓮如の代に爆発的に信者数が増える。しかも戦国乱世においては一向一揆で有名な、最大規模の武装蜂起をした宗教勢力にまでなった。

 一方、黄檗宗は江戸時代前期に、中国大陸の明王朝から伝来した臨済宗の新興の一派であり、そこに若冲が魅かれたのは、既存の仏教が彼の目には旧態依然として組織的に世俗化し、教義も形骸化している印象があり、芸術活動において精神面でプラス作用を及ぼす方向性をあまり見出せなかったのではないか。これは宗教に限らず、どんな組織にもいえることだが、組織化の過程で権威や権力が発生すると、それに付随して利権や汚職も生まれてしまう傾向があり、真面目に仏教を信仰していた若冲は、どうやらそこに辟易していたようだ。

 黄檗宗で特徴的なのは、釈迦が説いた唯心の概念である。それはこの世に存在するのは心のみで、目で見える全ての物事や現象も、心の働きがもたらしたものだという教えになる。つまりありとあらゆる偏見は心の働き次第で打破できる。伊藤若冲が想像し創造した涅槃図において、入滅する釈迦も、その死を悲しむ人や動物たち全てが、植物に集約されているそのイメージは、実のところこの真理を理解してもらうには至って自然な姿なのだ。先に述べたように、涅槃図は釈迦を英雄礼賛する情景ではない。しかしながら、それでも解釈によっては、宗教的権威や権力に悪用される可能性は考えられる。ところがこの若冲の手になる涅槃図では、まずそれはあり得ないはずだ。

 そしてこの絵に登場しているトータルで80種類を超える野菜や果物が有名で美味なものだけで構成されていないことも特筆に値する。これは青物問屋が生家であった、描く対象物を知り尽くしていた若冲の制作意図でもあろう。実際、現代では正体不明の野菜さえもが描かれており、ここからも「果蔬涅槃図」には、全ての生命は分け隔てなく平等に尊重されるべきだという仏の教えが、一見すると絵の雰囲気はユーモラスであっても真摯に伝わってくるのだ。またこのユーモアこそが、私たち現代人にとっても社会の理不尽さに気づき、人間が人間以外の生命の尊厳や権利を現状よりも大切にする、またその為の環境をつくるよう、気負わずに私たちの背を押してくれる。

 伊藤若冲は生前に「千年待つ」という言葉を残した。大変深い意味が込められているのは間違いないが、これは彼の制作した作品が彼本人の納得できる形で理解され受容されるには、そのくらいの膨大な時間がかかるという謙虚な姿勢であろう。しかし同時に、彼が生きた近世の18世紀から千年の時が経過した時代、つまり今の21世紀から概算すると28世紀辺りになってしまうが、その気が遠くなるほど先の未来には、きっと現世に浄土のような理想社会が必ず到来していると楽観していたようにも思える。
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伊藤若冲の「象鯨図屏風」

2024-08-28 20:47:10 | 日記
 前回の雪舟伝説の話で、長谷川等伯や雲谷等顔と共に伊藤若冲についても書いた。今回はその伊藤若冲の「象鯨図屏風」がテーマである。この絵は1795年頃に完成しており、若冲の没年が1800年だったことを考慮すると、彼の創造における技巧や感性はその円熟の極みに達している。謂わばこの偉大な絵師の仕事が集大成の域に入り、気宇壮大な画面に結実した魅力に溢れているのだ。大海原を背景にして、鯨と象という巨大な動物を左右に配した空間構成も実に見事だが、描かれた海の鯨と陸の象の姿は共に存在感が抜群である。しかも好対照の妙も冴えており、その独特な構図は何かを象徴している趣きさえ感じられる。

 特に「象鯨図屏風」の制作期間が、京の石峯寺の庵に若冲が隠棲して以降であったことを踏まえると、やはり仏教の信仰心が創造の礎にあるように思えるのだ。また彼自身も58歳の時に黄檗宗に帰依し出家しており、雪舟のように幼少期から僧の身ではなかったが、かなり信心深い仏教観を持っていたはずである。それはこの屏風絵の大作で、象と鯨を描く対象に選んでいることからも理解できる。実は象と鯨が同じ空間に描かれた絵は、若冲の「象鯨図屏風」が美術史上で唯一無二というわけではない。仏教美術において象と鯨が一緒に登場する作品は古くから存在する。それは絵画だと涅槃図とよばれるものだ。

 涅槃図とは釈迦の入滅の光景を荘厳に描いた絵である。沙羅双樹の下で静かに横たわる仏教の始祖の釈迦の死に際し、弟子や信者の人々だけではなく、人間以外の動植物の多くも集う大団円が表現されている。鯨や魚たちは海から画面中央の釈迦へ視線を注ぎ、陸の象は長い鼻を伸ばして天を指し嘆いているわけだが、この釈迦の生涯最期の場面には、当然のこと深い悲しみも漂っていながら、むしろそんな悲壮感を超えた優しい光に包まれているような安息と悟りの境地を感じさせる。そして巨大生物である鯨と象は、此処では重要な役割を象徴的に果たしているようだ。それは強く大きな勢力が、謙虚に仏の教えを受容している姿として描かれたということである。つまりこの絵の世界では、動物たちは食うか食われるかという弱肉強食の食物連鎖からも逸脱し、争う理由もなく平和に共存しているのだ。そしてそれは人間も植物も含めてである。

 恐らく伊藤若冲は「象鯨図屏風」の制作において、涅槃図を幾許か参考にしたであろう。これは容易に想像できる。それゆえ、象と鯨は涅槃図と同様に象徴的な意味を持つ。ここで今一度「象鯨図屏風」を注視して頂きたい。まず右側の象の表情はその目を見れば一目瞭然で、実に微笑ましく機嫌が良さげである。しかし象の体勢は陸の王者として誇り高く天を仰いでいながら、行儀良く膝を丸めている。一方、左側の鯨は波打つ海面に阻まれてその全貌が掴めない。しかし広い背から吹き上がる潮は、象の長い鼻よりも遥かに天高く舞い上がっており、それは絵の画面から噴水のような潮がはみ出していることからも明白だ。

 これは随分と個人的な見解になってしまうかもしれないが、象は幕府の勢力を象徴しており、それに対する鯨は反幕府の勢力を象徴しているのではないか。多分、鯨は海外からの脅威と、幕府に制御されている朝廷の権威であろう。これは江戸幕府以前の室町幕府や鎌倉幕府が崩壊した要因でもあった。鎌倉幕府は元寇と建武の新政を目指した倒幕により滅んだ。また室町幕府も大航海地代の南蛮貿易と、その影響でポルトガル王国やスペイン帝国から最新の銃火器が輸入されてエスカレートした戦国乱世により崩壊している。そして鎌倉幕府のような軍事力による倒幕は起きなかったが、最後の将軍の足利義昭が将軍職を関白の豊臣秀吉からの要請で、朝廷に返上して室町幕府は名実共に消滅した。

 古希を過ぎた晩年に至り、この「象鯨図屏風」を制作することで、伊藤若冲もまた雪舟や長谷川等伯のように、社会や為政者たちに向けて、絵の世界から警鐘を鳴らしたくなったのかもしれない。少なくとも鑑賞する限りにおいて、そうした解釈は可能である。無論、雪舟や等伯が生きていた時代とは違い、若冲の84年の生涯は江戸時代のほぼ中期、つまり乱世とは無縁の時の流れに収まる。ところが江戸時代中期を厳密に定義すると、若冲の晩年は江戸時代後期に入っていた。恐らく19世紀を目前にして人生の幕を閉じた若冲は、江戸幕府の終わりの始まりを告げる鐘の音を聴いていたようにも思えるのだ。かつての鎌倉幕府や室町幕府と同じく、やがて遠からず江戸幕府にも終焉は訪れるであろうと。

 しかし伊藤若冲は江戸幕府が何れ滅びを迎えるにしても、幕府崩壊に連鎖した南北朝の動乱や戦国乱世のような軍事的カタストロフを予知していたようには思えない。少なくともこの「象鯨図屏風」には、そこまでの不穏な空気は感じられない。むしろ涅槃図からの影響を受けて、陸の王者と海の王者が敵対して争うのではなく、融和し共生する姿を描こうとしたのではないか。私がこの絵を鑑賞したのは、2015年に東京のサントリー美術館を訪れた時だが、視界が捉えた第一印象では、鯨と象の鳴き声が協奏して聞こえてくるほどに和んだ雰囲気が伝わってきた。そしてゆっくりと近づいたり離れたりしながら絵を暫し目で味わっても、その印象は消えなかった。やはりこの絵は平和を希求した作品である。

 仮にそこに一抹の不安を感じるとすれば、それは鯨の表情が海に隠れている為、象よりも体が大きいその鯨が、想像を遥かに超えた未知の神秘性や潜在力を有していることだ。そしてこれは「象鯨図屏風」が完成した約半世紀後に日本列島を揺るがす幕末動乱を、知る術もない伊藤若冲が最も恐れていた予感であろう。記録に残っている若冲の人物像は、外界との接触を嫌い、諍いに巻き込まれることを避けるタイプであったといわれている。40歳で隠居したのだから、流石に納得できる評価だ。しかし現代だと商社に該当する青物問屋の家業を弟に譲っても、完全な世捨て人にはならなかったようである。実際、弟を含めた家族が営む家業を町年寄として若冲がサポートしていたことが史実として判明している。

 また江戸時代に、首都の江戸ほど巨大な人口を要せずとも、伊藤若冲が長く暮らした京は、商業都市の大坂に隣接した工業都市であった。謂わば江戸と大坂と京は、それぞれ政治と商業と工業の中心地として三都と称され栄えていた。しかし京と大坂は天領となる幕府の直轄地であった為に、幕府に遠隔支配された大名が統治する他藩のような地方分権的な自由度が低かった。それゆえ幕府から派遣された役人の圧力が強く、これに付随して汚職や利権が絡んだトラブルも横行していたようである。どうも若冲が早々と隠居した理由は画業に専念したかっただけではなく、職場環境も含めた地域社会からのストレスも多分にあったのではないか。

 そして青物問屋の周縁の問題発見と問題解決に際し、家業から引退し一歩退いた立場から、緩衝地帯のアドバイザーのようにして事に当たる形を伊藤若冲自身が望んだのかもしれない。なぜなら生家の青物問屋の家業も、絵師の経済的基盤を支えていたからである。事実、伊藤若冲の作品の多くは、保存性に優れた高価な絵の具の使用が確認できる。それゆえ若冲の絵は、江戸時代の作品とは思えないほど色鮮やかなものが多い。尤も「象鯨図屏風」の制作期間は、天明の大火という大惨事で京の都市の大半が焼け野原になった後のことだ。この忌まわしい人災で若冲は晩年になり経済的境遇は大幅にトーンダウンするのだが、石峯寺に隠棲して落ち着いた辺り、実はここからが真の隠居であったのかもしれない。還暦近くで出家している若冲にすれば、天明の大火によって気が動転することはなかったはずだが、困窮する人々を間近で目にし、被災地に当事者として彼も立っていたことを鑑みると、この大きな災厄が「象鯨図屏風」を創造する動機になった可能性はある。

 今回紹介している画像は、画集を開いた状態で撮影しており、多少歪んでしまって申し訳ないのだが、先に述べたように大画面で左右に配された2つの巨体、黒い鯨と白い象はこれから戦闘態勢に入るようには、やはり全く見えない。鯨と象の同居という到底あり得ないような組み合わせが、海と陸の境界で出会い、互いの存在を認めて呼応している。そんなユーモラスな光景であり、動植物が好きで、争い事が嫌いな伊藤若冲でしか創造できない世界が現出している。しかしながら皮肉なことに現実の歴史は、この「象鯨図屏風」の絵をグロテスクに変形させたような様相となった。若冲が鬼籍に入って約半世紀後に黒船が来航し、それと連動して倒幕運動が巻き起こり、江戸幕府は音を立てて崩壊に向かう。軍事的なカタストロフは幕末維新以降にエスカレートし、近代国家の大日本帝国の誕生と共に、日本列島から大陸へと帝国主義による海外侵略が始まった。もし伊藤若冲がこの史実を時空を超えて知ったとしたら、悲嘆にくれることは間違いなかろう。
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雪舟伝説 (後)

2024-07-31 22:02:58 | 日記

 前回に引き続き今回も、今年の4月から5月にかけて京都国立博物館で開催された「雪舟伝説」についての話である。以前にこのブログで長谷川等伯に関し、それも彼の最高傑作「松林図屏風」を取り上げた。あの絵で等伯はついに雪舟の域に達した。否、鑑賞者によっては雪舟を超えたと感じる人も多いのではないか。勿論、等伯が尊敬し多大な影響を受けた雪舟の絵が存在しなければ、等伯の絵は生まれなかった。しかし「松林図屏風」は間違いなく等伯が目指した最高峰の到達点であろう。そしてこの展覧会でも、流石はそんな長谷川等伯だと納得させられる絵と対峙できた。それは「竹林七賢図屏風」だ。
 
「竹林七賢図屏風」は等伯が1607年に完成させた絵である。そして彼が3年後の1610年に江戸で客死していることを考えると、この絵は非常に意味深な内容を含む。まず主題は清談という古代中国の3世紀中頃に、儒教倫理を嫌い老荘思想に感化された貴族が、政治の表舞台から去って自然の中で自由気儘に議論をする姿を描いている。この絵で竹林の中に佇み話を交わす7人の貴族の様子を拝見していると、雪舟が描いた「慧可断碑図」からの影響を如実に感じざるを得ない。有難いことに、この展覧会では「慧可断臂図」も展示されていた為、雪舟から等伯へ絵師の魂が連鎖されたような感慨を得た人もいたのではないか。

「慧可断碑図」に登場する人間は達磨と慧可の2人だが、この絵の特筆すべき点は、雪舟が6世紀の中国大陸で起きた達磨と慧可のエピソードの真実を露わにしたことである。それは達磨に弟子入りを懇願する慧可が自らの腕を切断して捧げた行為が、虚偽であった事実だ。ここで雪舟は弟子が身を切り、血を流してまで師に尽くす忠義を批判的に表現している。暴力を否定する釈迦の声を、絵の世界から届けるようにして。そして慧可が腕を失ったのは、盗賊に襲われる等の暴力のトラブルかもしれないし、刑罰による切断かもしれないが、明白なのは達磨と出会うずっと以前から彼は片腕の身であったことだ。この「慧可断碑図」における儒教倫理に対する拒絶は、絵師が描いた時代背景こそ違え「竹林七賢図屏風」にも受け継がれている。
 
 恐らく「竹林七賢図屏風」の制作を決めた段階の長谷川等伯には、雪舟の「慧可断碑図」の概要やその解釈がかなり煮詰まっていたように思う。「慧可断碑図」が完成したのは1496年の室町時代後期で、京の都で勃発した応仁の乱が終息してから20年近い年月が経過しているが、畿内や関東のように室町時代初期から荒れていた地域以外にも戦禍が飛び火しだした頃である。要は戦国乱世の幕開けのような不穏な空気を、既に古希を過ぎた雪舟は絵筆を動かしながら察知していたはずだ。

 そしてその雪舟が鬼籍に入って丁度100年のタイミングで等伯の「竹林七賢図屏風」が完成する。この時、等伯は還暦を越えていたが時代は大きく揺れていた。まず1600年に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に征夷大将軍に就くと江戸幕府を創立した。この為、大坂城で太閤の遺児秀頼を擁する豊臣家はまだ居座っているものの、これで実質上は徳川の世に入ったようなものである。この時勢において、等伯は自ら描いた絵によって時の権力者に向けて何かを伝えたくなったのではないか。それこそ雪舟のように。この「竹林七賢図屏風」の群像に目を光らせると、登場する7人の賢人のうち、3人は背中を向けてやや横顔に近い状態になっており顔の表情が判然としないが、他の4人は真正面ではなくともほぼ正面に近く、その容貌を確りと把握できる。そして「慧可断碑図」の達磨のように身体を太い輪郭線で描かれたこの4人は同じような丸顔で髭を蓄え、興味深いことにあの徳川家康に似ているのだ。
 
「竹林七賢図屏風」の主題、つまり清談から読み解くなら、長谷川等伯は江戸幕府をコントロールする徳川家康に対し、儒教の社会通念で貫かれた圧政に向かうべきではないと訴えている。絵の中の人々は、彼らが身を置いた政権の中枢から離れ、儒教ではなく仏教と親和性のある老荘思想の観点において正しい道を探っており、恐らく家康にもその一考を期待しているのだ。1605年に家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、以後は大御所として駿府で隠居した身に落ち着く。しかしそれは表向きの話で、実質的に幕政を頂点で取り仕切っていたのは家康その人であった。この辺りの事情も、清談を主題に絵を制作した理由かと思われる。

 また江戸幕府の創建から数年が経過し、その間に法整備も緻密に具現化されていく段階で、等伯はネガティブに幕府からの圧迫を感じていたのかもしれない。特に京で暮らす等伯にとって、大坂の豊臣氏が遠からず幕府に反旗を翻し、再び戦火が巻き起こる不安も感じていたようだ。等伯の絵師としての人脈で、顧客の超大物は太閤の豊臣秀吉であったが、秀吉の御用絵師にはなれなかった。また等伯と家康に交流があった史実も殆ど聞こえてこないが、恐らく「松林図屏風」と「竹林七賢図屏風」を徳川家康が鑑賞していた可能性は高い。そして懇意にしていた千利休や古田織部ほどではないにせよ、多少なりとも面識があったのではないか。
 
 そして長谷川等伯が後継者の次男宗宅を伴って、人生の終焉を悟った時期に江戸へ向かったのは、大御所の徳川家康から招かれて面会する為であった。この時、等伯の長谷川派が江戸幕府の御用絵師になるよう推挙された可能性はある。何より駿府で隠居している家康が幕府の本拠地の江戸に出向いた機会に呼び出されたのだから、そう考えるのが自然であろう。ただし等伯は江戸に着いて2日後に病に倒れて死ぬ。この為、等伯と家康が何を話したのか、またそもそも会うことさえ叶わなかったのか、事の次第は結局、謎のままだ。しかし豊臣秀吉よりも徳川家康の方が、等伯の絵を高く評価していたのではないか。
 
 長谷川等伯の「竹林七賢図屏風」は、雪舟の「慧可断碑図」から伝わってくる反骨精神と見事に共振している。絵に描かれた達磨と慧可や七賢人は権威や権力に対し背を向けた人々であり、その意味でこの2つの作品は非常に主張が強い。ところがこれから紹介する雲谷等顔は、長谷川等伯とはまた違う独自の切り口で雪舟を止揚し、その上で完成度の高い絵を残している。等伯も等顔も雪舟を目標としながらも、等伯の絵がその最高峰の頂を越える気概さえ感じさせるのとは逆に、等顔の絵には最高峰の頂に迫れても、そこを踏破する偉業をあえて放棄したような抑制や達観が感じられる。

 等顔は1547年に九州の備前国に生まれた。一方の等伯は1539年に北陸の能登国で生まれており、ほぼ同世代だが等伯が8歳ほど年長である。また等伯が20代から仏画や肖像画を描く絵師の仕事をしていたのとは対照的に、等顔が絵の道に入るのは30代になってからで、契機は1584年に父の原直家が戦死して家門が絶えたことだ。これを転換点として等顔は武士から絵師へと切り替わる。以後、京の狩野派に入門し、三代目の狩野松栄や四代目の狩野永徳に師事しているが、この展覧会で展示された等顔の「山水図襖」は狩野派よりも心眼の域において、遥かに雪舟の絵に近い。

 等顔は絵師としての基礎を狩野派に学んだが、やがてかつての雪舟が歩んだ道を辿るようにして京を離れている。そして周防国を治める毛利家に身を寄せた。この行動もまた雪舟を踏襲しているとしか思えない。雪舟が京から下向した先は大内家であったが、雪舟がこの世を去った後に大内家は陶晴賢の謀反で崩壊する。そして周防国も含めたその広大な領域を、陶晴賢や大内家の残存勢力を滅して治めたのは、毛利元就が率いた毛利家だ。
 
 雲谷等顔の雲谷という姓は、晩年の雪舟が周防国でアトリエにしていた雲谷庵から拝借したもので、等顔の名も雪舟等揚の等の一字から拝借している。しかも雲谷等顔のフルネームは法名であり、元々は原直治という武士の名を1593年に出家して彼は捨てた。ここから雲谷等顔は毛利元就の孫で当主の毛利輝元から雲谷庵を託され、幸運なことにあの「山水長巻」も授けられている。「山水長巻」は毛利家の家宝でもあり、それゆえ等顔と輝元の信頼関係には並々ならぬものがあったようだ。

 等顔が毛利家の前に現れて以降、輝元の後半生は随分と波瀾万丈な展開になった。豊臣政権では徳川家康や前田利家らと共に五大老を任され、太閤の秀吉を支えながら権勢を誇示していたが、秀吉の死に伴い勃発した関ヶ原の戦いで、五奉行の石田三成らにより西軍の総大将に祭り上げられてしまう。ところがたった1日で東軍勝利という決着がついたことから、敗北の責務を負い自業自得の辛酸を舐めている。かつて織田信長と敵対していた頃には、祖父が築いた最大版図を凌駕した局面さえあったはずだが、勝者の徳川家康に120万石から一気に30万石へと減封されてしまうのだ。

 多分、雪舟が大内政弘に献上した曰く付きの「山水長巻」を、毛利家の重要人物たちは悉く鑑賞していたはずである。あの毛利元就は言うに及ばず、その3人の息子の毛利隆元と吉川元春と小早川隆景、それに孫の毛利輝元に、この絵は家宝である以上、丹念に拝されていた。そして毛利輝元は祖父と父の死後、吉川元春と小早川家隆景という有能で優れた叔父2人に支えられ、1578年に織田信長の勢力圏にあった播磨国の上月城を落城させた時点で、偉大な祖父が達成した最大版図の拡大に成功する。ただこれ以降、織田軍との一進一退の攻防の末に、本能寺の変で信長が憤死してからは、後継者を自称する秀吉に翻弄され、いつの間にか関白に就任し天下人になったその秀吉に臣従するはめになった。

「山水長巻」はこの展覧会でも展示されているが、毛利輝元と雲谷東顔はこの絵と向き合った時、似たような感慨を得ていたのかもしれない。滅亡した大内家や、斜陽の毛利家を思い、栄枯盛衰という世の儚さを心に刻むようにして。特に輝元は、祖父の元就の遺訓「われ、天下を競望せず」という言葉を聞いていたのではないか。等顔は輝元からの要請で「山水長巻」を模写しているが、恐らくそれは関ヶ原の敗戦後、卦辞として輝元が出家をして以降のことだと思われる。この任に当たるよう主君に背中を押された時、等顔は迷うことなく得心したであろう。

 そして雲谷等顔の画業はある意味、雪舟の「山水長巻」という唯一無二の遺産を手元に置き、その貴重な原石の魅力を粉骨砕身し抽出し続けたことに尽きる。実際、等顔が描いた全ての絵には、何処かしら何かしら「山水長巻」の空気や匂いが感じられるからだ。この展覧会に展示された等顔の絵は「山水図襖」のみだが、その濃淡や陰影、それに画面構成には雪舟の憑依さえ覚える。無論、絵師は別人であり、線描に関してなら等顔の線は雪舟よりも繊細で丁寧だ。また当時の狩野派のような装飾性も窺え、この辺りは明らかに違うのだが違っている為に、むしろ雪舟の自由自在に宙を這う線が錯覚のようにして滲み出てくる。鑑賞する側からするとこれはもう、雪舟への尊崇の念が生んだ神秘だと讃える他ない。

 雲谷等顔と長谷川等伯はほぼ同じ時代を生きているが、この2人が鬼籍に入って約1世紀を過ぎた頃、伊藤若冲が山城国で生まれている。江戸時代も中期に入り戦国乱世とは無縁の泰平の世で、若冲は長命の齢84年を全うした。生家は卸売業の青物問屋で、彼は長男ゆえに商人として40歳まで家業を営んでいたが、絵を描くことは大変好きで、その制作活動は余暇どころか本業を疎かにするほど旺盛であった。それゆえ40歳で弟へ家督を譲り、以降は隠居して作品の創造に専念する。また子もおらず生涯独身を貫いた。これは雪舟も同様なのだが、画僧は禅宗の僧侶ゆえ妻帯が許されなかった為、強制ではなく本人の自由意志でそうなった若冲と事情は異なる。この辺りは洋の東西こそ違え、ルネサンス期のイタリアで自ら生涯独身を通したレオナルドとミケランジェロとラファエロに若冲は似ている。

 そしてこの展覧会で展示された伊藤若冲の作品で崇高なまでに輝いていたのは「竹梅又鶴図」ではないか。この絵は雪舟の「四季花鳥図屏風」と同じ流れを汲む。勿論「四季花鳥図屏風」も展示されており、2人の絵師が生きた時代には2世紀もの隔たりがあるとはいえ、絵に描かれた鶴の姿を通して生命への畏敬を最大級に伝えている点で、雪舟と若冲は一体化している。一般的に雪舟の絵というと、空と山と水に占有された空間がすんなり頭に浮かぶ人は多いかもしれない。しかし雪舟が生前に残した「風景が全てを教えてくれる」という言葉には、通り一遍では解釈できない深い意味があるようだ。風景には石や土といった無機物だけではなく、人間や動植物も存在する。そして生命と生命を育む環境の全容を視覚的に表現することで、一切の生きとし生けるものは平等だという仏の教えを示している。

 この2つの絵に描かれた鶴は、自然に感謝し生命を謳歌する愛らしい表情や仕草を、鑑賞者に見せてくれるのだが、実はあの長谷川等伯も鶴ではなく可愛い猿を「枯木猿猴図」で描いて、若冲と同様に雪舟と魂の邂逅を果たしている。この展覧会では等伯の絵に猿は登場しないが、展示されている雪舟の絵には脇役ではあっても、猿の姿を見かけた。その表現は少しデフォルメが効いているが、親しみを含んだ表情は、鶴と同様に全ての命は同じく尊いと感じさせる魅力を放っている。そして興味深いことに等伯の描いた猿は、雪舟の描いた猿と瓜二つなほど似ていた。「枯木猿猴図」は京都国立博物館に所蔵されており、今回展示されなかったのは残念だが、この等伯の模写に近い表現から理解できるのは、雪舟の絵に傾倒した絵師たちは、そこに動植物への慈愛を見出していたことだ。

 伊藤若冲の作品にも動植物を主題にした絵が多い。また描く対象への愛情の深さも抜きん出ており、そこがこの絵師の仏性のような特質でもあろう。そしてこれは雪舟を彼固有の姿勢で咀嚼し、見本にしたからこそ生まれたといえる。また雪舟と若冲に心眼の域で通底していたのは、恐らく仏教における草木国土悉皆成仏という概念であろう。これは全ての生命を分け隔てなく慈しむと共に、生命を維持する水や土や空気、つまり環境保全をも重視した思考であり、21世紀の今にも響くメッセージだ。この雪舟伝説を謳った展覧会で、雪舟の魂を、最も強く継承していたのは伊藤若冲ではないか。それは他の絵師たちよりも、絵から感じられる悟りや祈りが深く、泰平の世を生きていても、軍事政権の幕府に統治された現世を理想社会だとは認識せず、絵の創造を通して、仏の教えを示そうとしていたように思えるからだ。しかし仮にたった1つの絵で、雪舟から継承された魂を強く感じるなら、それはこの展覧会では展示されなかった長谷川等伯の「松林図屏風」であろう。そして京都国立博物館を後にした時、今更のようにして、展示された全ての絵の中で雪舟の絵が一際静かであったことに気付いた。

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