想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

インドの「鶴の恩返し」

2023-05-20 20:36:47 | 日記
今回はインドの実話を取り上げたい。今年になって、国内外で報道されていたニュースで知ったのだが、この感動的な事実に目を覚まされた思いだ。下記のアドレスをご覧になると、この童話のような出来事が現実の世界で起きたことをまざまざと確認できる。


https://m.youtube.com/watch?v=xedvSLAQmF4&pp=ygUZ44Kk44Oz44OJIOm2tOOBruaBqei_lOOBlw%3D%3D

https://m.youtube.com/watch?v=CPwyjckwO34


「鶴の恩返し」は日本の昔話として大変有名であるが、そこでは貧しくとも心優しき老夫婦が、助けた鶴に犠牲的な恩返しをされる。一方、この現代インドのオオヅルは脚の怪我を親切に看病して治してくれた男性に対し、無限に近い感謝の念を注ぎ続けている。昔話が実話の可能性は低いが、それでも案外この物語の作者も、現代人と比べれば大自然に触れる機会も多かったゆえ、自明の理として今のインド人の男性のように動物の気高さを承知していたのではないか。

この鳥と人のインド亜大陸での邂逅は、荒ぶる人災の影響で激しく痛みだした地球の未来に希望の光を灯している。鶴を助けた男性は、自身の行為を人間としての義務を果たしただけだと言った。この言葉は尊い。ここで彼が定義した人間の義務とは、自然を破壊するのではなく、人間も自然の中に在り、その構成員であることを自覚して、弱っている他の生物を救助する役割を果たすことであろう。それも人間の優れた資質や能力を活かす形でだ。この鶴を助けた男性のように。そしてもし仮に怪我をした鶴が彼と出会わなければ、傷の状態は悪化して死んでいたと思われる。

自然界における人間以外の生物は、過酷な弱肉強食の世界に身を置いている。しかしこの鶴を見ると、その厳しい運命や宿命を越えるほどの幸福な奇跡が起きたなら、それを拒ばないことが理解できる。つまり人間は人間以外の生物に対して、奇跡的な振る舞いが可能なのだ。これはやはり人類が文明を興せるほど高度で超越的な力を有するからである。ところが人類の歴史を振り返れば、その超越的な力は、残念ながら悪用されてきた罪業も否定できない。特に乱開発による環境破壊や、戦争を想定した核実験など、例を挙げればもうキリが無い程である。

しかしながらこの鶴を助けて救った男性の行動こそ、本来あるべき人間の姿なのではないか。そして人間以外の生物が人間よりもはるかに優れている点は、自制ができるということだ。それゆえ彼らは自然環境を破壊しないし、他の種を絶滅するような暴挙にでることはない。要は弱肉強食をエスカレートさせることが自滅に繋がることを本能で知っているのだ。ここは私たち人類が肝に銘じて、彼らから積極的に学ぶべき点だ。これと比較すると弱肉強食を美化したり、弱者が強者に滅ぼされる構図を肯定して、力こそが正義だと盲信する人間は真に愚かしい。明らかに他の生物よりも劣っており、彼らから学び直す必要がある。特に現在進行形の地球の危機は、自制できずに文明を暴走させ続けてきた人類の責任によるところが非常に大きい。これではまるで人類は自制という、幸福な未来の扉を開ける希少な鍵を自ら捨てているようなものである。

以前にこのブログで紫陽花を取り上げたことがあった。あの時は長寿の愛猫の話がメインになったが、家族として一緒に動物と暮らすと、人間への崇高なまでの信頼感に包まれる。彼らは人間が核兵器でこの地球を何回も滅亡させる力を持ってしまったことなど知る由もないが、人に優しくされた動物たちは、逆にこの地球の惨状を人類が立て直し再生できることを、ただ人を信じることだけで、その直感で認知や理解に到達しているように思われる。

だから私たち人間はもう万物の霊長のように振る舞うのではなく、今こそ自然を破壊せず、むしろ自然に仕える姿勢で臨むべきであろう。そして人間も自然の一部だと再認識し、文明の利器もその方向で役立てていくべきなのだ。このインドの男性が鶴の傷を治す為に使用した薬は動物には作れないものだし、医療の進歩の賜物である。また男性が鶴を治療する姿からは、全ての生物に共通する親が子を守るような慈しみが感じられる。この実話で、鶴が人に恩を返してくれたとしたら、それは私たち人間の地球における存在価値を確りと認めてくれたことだ。特にバイクを運転する男性の後ろから、寄り添うように飛んで後を追う鶴の姿からそれを強く感じる。

残念なことに今、この鶴は男性から離されて動物園に保護されてしまった。ただそれでも男性と再会した様子には歓喜が溢れている。インドの法律ではオオヅルの餌付けが禁止されている為、大空を飛ぶ権利を剥奪された鶴の心情を推し量るなら、空を自由自在に飛ぶこともできた、あの共同生活に戻りたいのは間違いない。また男性も当然それを強く望んでいる。ネットで動画が公開されたことで、彼らの絆に感動し、再び結びつけようとする有志の人々も現れた。1日も早くこの鶴と人との共生の復活を願うばかりである。
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追悼 坂本龍一の映画音楽

2023-04-30 23:57:58 | 日記
前回に大江健三郎さんを偲ぶブログを書いたが、今回は坂本龍一さんである。この場を借りて、衷心よりご冥福をお祈りします。彼の音楽も日本だけではなく、既に世界中で幅広く評価されている為、今更その輝かしい功績を賞賛するまでもないのだが、私個人は日本国内で一世を風靡したYMOに代表されるテクノポップと評された音楽よりも、彼個人が担当した映画音楽に魅了された。特にご本人も俳優として出演された「戦場のメリークリスマス」と「ラストエンペラー」は未だに聴くことが多い。

 この2本の映画は、監督も日本の大島渚とイタリアのベルナルド•ベルトルッチという世界的な巨匠である。特にこの故人2人の映画監督は自国のみならず外国での評価が非常に高かったように思う。そして共通するのは日本とイタリアという第2次世界大戦の敗戦国出身であり、自国の歴史を取材した作品も多く、そこでは戦争を誘発する全体主義への痛烈な批判精神が感じられることだ。特に大島監督の「日本の夜と霧」やベルトルッチ監督の「暗殺の森」などはその最たるものであろう。そしてこうした社会派でもある真摯な映画監督から、是非にと依頼された坂本龍一の創造した音楽はやはり素晴らしかった。

 無論、映画音楽の為、あくまでも映像を補強する為に制作されているのは確かなのだが、それでもサウンドトラックとしてリリースされた音世界を視覚抜きで聴覚体験すると音楽の存在感が歴然と際立ってくる。そしてこの2作品に描かれた時代は第2次世界大戦で重なっていても、物語の舞台は日本列島から遠く離れていた。「戦場のメリークリスマス」ではインドネシアのジャワ島が、そして「ラストエンペラー」では中国大陸が、登場人物たちが生きる映像のメインの風景となる。それゆえその地の民俗的かつ古典的音楽を、当然のこと坂本龍一は意識して吸収し作曲していたようだ。映画音楽の場合、不幸にもこれが映像と調和しないケースもあるが、この人の場合、担当した映画音楽は、その意味では高評価の成功作ばかりである。

 そして坂本龍一固有の音世界は晩年になってから、静かさと広大さを評価する声が増えてくるのだが、これは意外と映画音楽の仕事を始めたことが大きかったのではないか。私たち人間は物事の判断基準の大半を視覚に依存してしまうが、音楽家の人々は世界が目に見えない多種多様な要素も含めて成立していることに鋭敏である。生前の彼の発言を振り返ると、音楽の存在価値や意義に関しても熟知していたことが窺えるし、それゆえに音楽が社会に与える影響さえ加味して、慎重に入念に創作活動を続けていたことはほぼ明白だ。

 特にそれが最も顕著に表れているのは、音楽の力についての持論である。彼は音楽の力が政治に悪用されてしまうことを非常に危惧していた。しかもそれは本来の音楽の姿ではないと明言している。たとえば20世紀のドイツで独裁者ヒトラーに率いられたナチスがワーグナーの音楽を戦意高揚に利用したケースなどは、歴史的事実として大変わかりやすいのだが、政府が国民をプロパガンダで洗脳する局面で、音楽は強力に作用する。これは古今東西、強権的な政府によく見られる傾向であり、坂本龍一さんのように誠実に音楽と向き合ってきた音楽家には実に迷惑な話だ。そして音楽家に限らず、大島渚やベルナルド•ベルトリッチのような映画監督にとってもこれは全く同じ見解であろう。つまり芸術家は安易に政治権力と野合するべきではない。

 また坂本龍一さんは政治的発言も多い文化人であった。自分がこれは悪い、おかしいと感じたことは気負うことなく直言されている。今や遺言になってしまったが、東京都の神宮外苑再開発への反対の意志表明も例外なくそのケースだ。そしてこれは現代日本の東京都だけの問題ではなく、人類が文明化して以降、自然環境を破壊することで暴利を貪るという愚行は、残念ながら世界中で今もなお廃れることがない。しかもこの悪癖のような経済システムで富を享受できるのは、この企みを計画しその実現に邁進する為政者やその取り巻き連中だけである。しかし日本は民主主義の法治国家なので、本来なら為政者の暴走を防げるはずだ。それがいつの間にか、不条理な方向に進んでしまうのは、有権者の選挙への投票率が低かったり、政府が公開している情報のチェックが疎かになっていたり、内実は国民ではなく政府にだけ好都合なプロパガンダを安直に信用してしまう民意にも問題がある。

 「戦場のメリークリスマス」と「ラストエンペラー」における俳優の坂本龍一が演じた人間は、大日本帝国の軍人と政治家という全体主義国家の権力者であった。この2つの映画では日本の敗戦も確りと描かれており、映画の中の坂本龍一は国家の破滅と共に軍人は処刑され、政治家は自殺している。しかし大島監督もベルトリッチ監督も一筋縄ではいかず、第2次世界大戦が終わっても、理想的な世界が訪れてはいないことを映像で表現している。特に「ラストエンペラー」は清朝最後の皇帝溥儀の全生涯を辿っており、終戦後に中華人民共和国で皇帝から平凡な庶民の庭師として生き直す彼は、その境遇に感謝しているにも関わらず、意識改革に導いてくれた大切な恩師が、文化大革命で同胞の人民から罵倒され、国家権力により捕縛される現実を目にして絶望する。

 この2つの映画に共通するのは、時代に翻弄される人間の悲哀である。実際に私が映画を劇場で鑑賞したのは、1980年代なのでもう40年近く昔の記憶になってしまうのだが、今だにはっきりと登場人物の台詞で覚えているのは、「戦場のメリークリスマス」でデヴィッド•ボウイ演じる英国軍捕虜が、収容所の外のジャワ島の風景を見て「ここは美しい」と感嘆して断言した言葉である。清々しい晴天とジャワ島の濃密な密林を目にして、彼は真剣な表情で確信を込めて、同じ捕虜の友人にそう呟いていた。そしてその友人は余裕もなくオウム返しではあっても心からそれに共感している。戦争という人災が世界大戦という最大規模の形で展開されている時代においても、人間に破壊されていない大自然にはまだ平和が満ち溢れているのだ。大島監督はこの映画を、鑑賞者の殆どが捕虜の側、つまり戦争によって自由を奪われ監禁されている人々に感情移入できるように構築している。それゆえこの「ここは美しい」という言葉は、戦争に対する完全な拒絶であり、最強の戦争反対のメッセージである。なぜなら敵と戦い、敵を滅ぼす意志がそこには全くないからだ。全世界が戦時下にあっても、兵士が自然の風景を静かに見つめることで心の中から戦争を消去している。

 大島監督はこの「戦場のメリークリスマス」だけではなく、遺作となった「御法度」でも坂本龍一に映画音楽の制作を依頼した。勿論、坂本龍一は快く承諾し、そのサウンドトラックをリリースしている。そしてベルトルッチ監督も「ラストエンペラー」を含めて東洋3部作とも称された残りの2作品「シェルタリング•スカイ」と「リトル•ブッダ」でも映画音楽に坂本龍一を起用した。どの作品も映画音楽として最高水準の完成度だ。そして最後にハリウッド映画で有名なリドリー•スコット監督の代表作「ブラックレイン」も紹介しておきたい。この映画音楽も坂本龍一が制作しており、エンタテインメント路線のアクション映画である為、とても聴きやすく、坂本龍一の映画音楽をこれから聴く人には、導入としてこの「ブラックレイン」はお薦めかもしれない。
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大江健三郎さんを偲ぶ

2023-03-20 01:28:10 | 日記
大江健三郎さんがこの世を去った。
訃報がメディアで報じられたのは3月13日だが、既に3月3日に老衰で他界されていたということだ。1994年にはノーベル文学賞を受賞されている。また日本人の作家でノーベル文学賞を受賞した人は川端康成と大江健三郎の2人だけである。ノーベル賞作家の作品は、読み応え十分で作品の質も格段に高い。まさに人類の文学的遺産と形容できるほどだ。それゆえ当然のこと、大江作品も日本文学の枠を超えてその域に達している。小説を読み漁っているのに、感動的な作品に中々出会えないと嘆いている人がいたら、世界中のノーベル賞作家を探すと良い。そしてその作家たちが創造した作品に出会い読み終えたなら、まず時間を無駄にして後悔した気分に襲われることはないだろう。

私が最初に読んだ大江作品は、大学時代に図書館で借りた、芥川賞受賞作の「飼育」である。第2次世界大戦中の日本の四国の山村が舞台なのだが、かなりショッキングな内容であった。そして戦争に対する拒否感や嫌悪感が否応なく湧き上がったのを覚えている。また人種差別や異端への排撃といった社会病理や、その悪癖がどうしようもなく大人から子供に感染してしまう現実への悲嘆や絶望も感じた。この作品が発表されたのは1959年だが、今も色褪せてはいない。それどころか大規模なウクライナ戦争が続いている現代において、この小説世界はむしろリアルそのものである。「飼育」は初期作品だが、この小説で大江健三郎という作家を知って以来、作品数も多く全ては未だに読み切れていないが、かなり愛読してきたように思う。

そしてこの読書体験以降、代表作の「個人的体験」も含めて、小説だけではなく「ヒロシマ◦ノート」のような現地を取材した著作も興味深く読んだ。要は社会人になってからも、後を追うようにして読み続けた作家の1人である。つまり私にとって、それだけ目が離せない何かが作品世界に存在していたのだ。ただ文学者としてだけではなく、政治的な立ち位置もはっきりとしており、社会へ向けて積極的に発言し行動する人であり、そこも大きな魅力であった。また私の亡くなった両親とは同世代で、その意味では多分に親近感もあったのかもしれない。この為、私小説形式の物語世界で、登場人物が話す日常会話の中に、父や母の言葉がダブるような雰囲気も感じた。

そして何よりも反戦、反核、護憲を粘り強く真剣に主張し続けた作家であり、こういう人々が日本の言論人にいたからこそ、日本は現在まで70年の時を超えて、ずっと戦争をせずに済む国になっているとしか思えない。仮に日本国憲法に戦争を断固否定する平和主義が明記されていなければ、20世紀にアジアで勃発した朝鮮戦争やベトナム戦争に、日本は自衛隊よりも増強された新しい正規軍を再編成して参戦していた可能性さえある。

政治的発言で明確に記憶に残っているのは、テレビの特集番組で「約束を守りましょう」と語られた姿だ。大江健三郎さんはその時、広島にいた。確か平和記念公園で講演をされていたのだと思う。そしてその約束とは原爆死没者に対してのものである。原爆被爆者慰霊碑の石棺に刻まれた「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という言葉がそれだ。これは戦争で原子爆弾を被爆した郷土で暮らす私たちが未来永劫、肝に銘じて果たすべき約束である。 

そしてこの約束は人類が共通認識できるものだ。実際、東日本大震災に遭遇した時、福島の原発事故のニュースを知った海外の人々から、日本に原子力発電所がある事実が信じられないというコメントもでていた。日本は世界で唯一の被爆国なのだし、ノーベル賞を受賞した科学者も多いのだから、とっくの昔にクリーンなエネルギーで発電する環境が整備されているものと思い込んでいたようだ。正直な話、これこそ古今東西関係なく、極々まともな庶民感覚である。そしてこうした感覚は、専門知識に乏しくとも私たち人間の良心が枯渇していないことを証明しており、それがあるからこそ東日本大震災でも、日本へ世界中から支援の手が差し伸べられたのだ。

きっと大江健三郎さんは、この良心を信じられるがゆえに、反戦、反核、護憲を一貫して主張し続けたといえる。また、自分自身をはっきりと戦後民主主義者だと自認もされていた。ただ大江健三郎さんに限らず、平和を希求して声をあげる戦争体験者の人々に対し、綺麗ごとを言うなとか、良い人ぶるなといった批判も、残念ながら日本社会では多々見受けられるわけだが、そうした批判には未来に対する責任を放棄したような軽薄さを感じる。むしろ戦争に遭遇していない私たちは、彼らの声に素直に耳を傾けるべきであろう。なぜなら現実に戦争を知っている日本人は、いずれ時を経ずしてこの世から去っていくのだから。

特に今、高齢者の方々で戦争に遭遇された方の多くは、その忌まわしい最大級の苦難の時期、非戦闘員で幼少期だったはずだ。もし話す機会があれば、若者は直に話を聞くと良い。またそれだけではなく、彼らが残した言葉の明確な記録を知ることも大切だ。そして大江健三郎さんは、やはり小説の中で、そのフィールドでしか表現できない形で、貴重なメッセージを残している。今回使用した画像の「治療塔」と続編の「治療塔惑星」は、大江作品の中でも珍しいSF小説なのだが、人類が宇宙へ進出した近未来、そこでも現代に通じる極端な格差や、環境破壊は改善されておらず、この為、読者は今の現状認識を真摯に深めざるを得ない内容だ。

しかも私がこの未来世界で最も痛切に感じたのは、人類が必要のない必要をつくりだしていることである。これは「治療塔惑星」で描かれているのだが、人類が環境汚染を防ぐ技術革新を導入できることが可能であるにもかかわらず、それが実現すると既得権益を失う人々が邪魔をしてしまう。ここで人間社会における既得権益を生む構造がいかに不必要かが理解できる。またテロや紛争も発生しており、暴力で問題解決を図ろうとする動きや、戦争で金儲けを企む勢力も見え隠れしている。私がこの小説を読んだのは、確か出版された1990年代であったが、先ほど述べた「飼育」以上に、当時よりも今現在に訴求してくる物語だ。

そしてこの連作SF小説の後に、「燃え上がる緑の木」というライフワークの3部作を完成させて、もう小説は書かないという引退とも断筆ともとれる発言をされた。しかし親友で音楽家の武満徹さんが他界されたのを機に、再び小説を書くことを決意する。そしてその復帰を飾る第1作が「宙返り」であった。実は大江作品の中では、私はこの「宙返り」が1番好きで、それはやはり復活の息吹が感じられる特別の作品だからだ。しかもこの小説では久しぶりに、一人称ではなく三人称で語られる物語になっていたことも大きな魅力であった。

私は現代日本文学の中で、自分にとっての最重要作家はずっと安部公房さんだったのだが、この「宙返り」を読んで、それが大江健三郎さんに切り替わったように思う。そして「宙返り」以降は、遺作となった「晩年様式集」まで、ずっと新作が発表される度に読んでいた。その15年ほどの年月において、転職や両親との死別といった試練もあったが、この人の小説を読むことで随分と勇気も頂いた。この場を借りて深く感謝し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
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武則天の謎

2023-03-12 22:07:31 | 日記
前回のブログで少しばかり武則天のことを書いた。今回は中国史上でこの唯一無二の女帝に関し述べてみたい。そしてかなり憶測を働かせた人物像になってしまうことを予め申し上げておく。それはこの画像をご覧になれば、なんとなく予想できるかもしれない。現在の中華人民共和国の河南省洛陽市にある竜門石窟に彫られた巨大な仏像、実はこれ、武則天その人をモデルにしたのだという説が濃厚だ。

武則天の評価は兎にも角にも酷いものが多い。中国3大悪女の1人としてその悪評もズバ抜けており、それは彼女が崩御して以降の政権には有難味もあったようだ。次代の為政者からすれば、あんな滅茶苦茶な時代に比べれば今は随分と良くなったではないか、という言い訳が成り立つわけである。たとえば日本で例をあげるなら、生類憐れみの令を天下の悪法扱いにされてしまった江戸幕府第5代将軍徳川綱吉や、日本3大悪女のレッテルを貼られた北条政子と日野富子と淀殿あたりは、その死後に長所よりも短所ばかりが強調されてきた。ただこうした人々も現代の格段に情報量が増えた世界では、賛否両論が渦巻き、昔ほど悪人扱いされることは少なくなっている。

しかしながら武則天の場合、その業績がやや見直されてはいても、人間性に対する誤解はまだまだ解けていないようだ。確かに近年、歴史ドラマの主役として描かれてもいるが、どうもそこでも3大悪女のイメージは払拭できていない。むしろ悪女のキャラクターが物語を盛り上げる仕掛けとして効果的に作用する印象さえ受けてしまうほどだ。また異常に嫉妬深く、ライバルたちを残酷に葬ったとか、密告を奨励して拷問の道具の進歩に寄与したとか、キワモノ的なエピソードが社会全般に浸透してしまい、人々の日常生活の場でさえ、悪い人間の見本として古くから語り継がれてきた。

そしてこれは中国が王朝交代を契機に、新しい王朝が旧い王朝の歴史を正史として記録する際、罵倒さえ含んだ低評価になってしまうこともその一因だが、やはりそれ以上に儒教の影響が非常に根深い。つまり男尊女卑の観点から、女性であるが故に必要以上に武則天は貶められている。つまり、女性の皇帝の誕生という事実が理解し難いのではないか。ましてや、その女性が優れた為政者であれば、なおのことその功績を認めるわけにはいかない。こういうことである。

ただ武則天の場合、女性蔑視からくる誤解以上に謎も多い。特にその治世において、農民の反乱が殆ど無かったにもかかわらず、善政であったことが強調されていない。女性の独裁者が国家を統治したから、結局は失敗したという言い草だ。無論これは唐の滅亡後の次の王朝、つまり宋が唐の歴史を記録したことにもよるし、武則天その人以降は、中国大陸を頂点で治めた女性指導者は清の西太后のみで、その意味では武則天を厳しく批判したことが、女性が国のトップになる事態を回避させたのかもしれない。そして西太后が皇帝まで昇り詰めていないことを考えると、武則天は文字通り驚天動地な存在だ。

ではここから武則天の半生を少し駆け足で辿ってみたい。まずその出自は裕福な商家であり、幼少期は恵まれた環境で育っている。また父親が大商人の為、家庭教育で視野がかなり広がった可能性もあり、ひよっとすると少女時代に、彼女自身が将来は世を動かす予感を得ていたかもしれない。だが父親の死で人生は一変する。不遇な境遇へと追いやられてしまうのだ。親族内で異母兄や従兄弟からの圧迫が厳しくなり、王朝の後宮に入れられてしまう。そして皇帝太宗の側室になるのだが、太宗の崩御に伴い出家する。

ところが武則天の生涯は波瀾万丈で、程なくして還俗することになる。それは第3代皇帝高宗の后妃にされる為であった。その後、暫くして武則天は男子を出産し皇后となるのだが、唐はこの高宗が統治した時代に内政では大粛清が始まり、外政では帝国領が最大版図に広がる。この経緯に関し定説になっているのは、武則天が病弱で温和な皇帝を尻に敷き操ったというものだ。しかしこの見方は、武則天の悪評に尤もらしく準じている。それゆえ真実は本当のところ違っていたのではないか。

とりあえず悪評を無視した別の見方をすれば、この皇帝と皇后は二人三脚で政権運営をしていたはずだ。しかも太宗が皇帝だった時代、皇太子と皇帝の側室という間柄であった頃、当時の武則天が皇帝とは疎遠の側室だった事情も加味すると、既に相思相愛だった可能性さえある。また2人は夫婦の絆も強く、皇后が病弱な皇帝を支えつつ同志のように協調して、かなり真面目に政治をやろうとしたのではないか。そう考えると約300年振りに中国大陸を統一した隋が30年も経ずして唐によって滅ぼされた史実や、その隋の第2代皇帝の煬帝が重税で人民を搾取し、大規模な土木工事を敢行したり、海外侵攻を重ねて朝鮮半島の高句麗に3度も遠征したあげく、大失敗に終わった愚策を反面教師にしていたと思われる。

そして唐が高宗の皇帝時代に最大版図を達成できたのは、露骨な対外侵略とは違う、ある歴史的事象を参考にしたせいかもしれない。それはほぼ同時期にアラビア半島からイスラム勢力が、西アジアや北アフリカに至るまでの領域で急速に拡大していた事実だ。この津波のような流れは、イスラム教の始祖ムハンマドの死後に起きる。しかも侵略戦争で領土が広がったのではなく、各地でイスラム教徒が増え続けたことが原因だ。その結果として広大なイスラム圏が現出している。その媒介になったのはイスラム商人であり、彼らは殆ど布教をしていない。商業活動において訪れた場所で正しい情報を伝えていっただけである。神の前では、国も民族も人種も関係なく皆んな平等であり、私たちが暮らしている社会は異教徒も共存できるし、あなたたちが暮らしている社会よりも負担する税がずっと軽い。だから家族も大切にできるし健康に暮らせると。これが決め手になった。つまりイスラム世界における社会的な福利厚生の充実を知らせたに過ぎない。

ムハンマドの後継者たちが構築した国家は、唐では大食と呼ばれていた。そして善政を敷いてその実態を周辺から伝え、ほぼ平和裡に影響範囲が広がり領土も増えていくこのイスラム方式を、高宗と武則天は交易を介して知っていたのではないか。つまり積極的に軍事介入をしない方針だ。実際、高句麗や突厥の滅亡は唐の侵攻よりも国内の内乱が破滅因子であったし、この時期の極東アジアで日本が百済の復興勢力を支援し、唐と新羅の連合軍と戦禍を交えた白村江の戦いでも、高宗に野望があった形跡はなく、日本の敗戦後も遣唐使は中断せず、ましてや唐が日本列島を侵略することもなかった。従来通りに交易を続けたのだから、唐は巨大帝国でありながら勝利に奢ってはいない。これは全方位的にそうした傾向があり、支配下に入った異民族の文化や宗教を尊重し、監督下における自治権も認めている。

また小さな島国の日本が、中国大陸では倭という蔑称に近い国号で呼ばれていたのが、日本という国号に改められたのは、武則天が女帝時代にそれを正式に認めたからだ。そして大粛清も支配層が対象であり、被支配層の人民が大虐殺されたわけではない。今の日本社会に当て嵌めて考えるなら、桁違いに高所得の国会議員や官僚を大量解雇し、極端な減税を実施する政策だと考えれば分かり易い。悪評というベールで包み隠されている為、武則天の人間性の本質は中々見えてこないのだが、弱者への同情心に篤かったであろうことは想像できる。これは仏の慈悲と言い換えても良い。女帝時代に仏教における殺生戒の戒律や、純粋な動物愛護の精神から、殺生禁断の法令を発していることからもそれは明らかだ。

悪評が多いせいで、畜類を殺さず漁猟も禁じた殺生禁断の法令はあまり知られていないが、それ以外にも、皇帝の高宗の治世において、親の喪に服す期間に際し、従来は父親の場合が3年で母親は1年だったのが、父母を亡くしたら同等に3年を喪に服す期間として改められた。これは現代の民主主義社会とも殆ど違和感がないほどに男女同権を指向している。こうした内実を知ると、やはり武則天は高宗を自分勝手に利用したのではなく、むしろ2人は意気投合して改革を実行していたと思われる。つまり同じビジョンを共有できていた。そしてそれは儒教よりも仏教に傾倒した世界観である。

武則天が歩んだ道は、前進してもすぐ打つかる障壁だらけであった。要は女性でありながら類稀な大器ゆえに、ひたすら出る杭になる寸前に回りから叩かれ続けてきたようなものだ。父の死から親族内で疎まれ、宮廷でも太宗皇帝の側室の序列が低かったのは、男性よりも女性の権利が制限された社会で、そうした男尊女卑の概念をひっくり返すようなオーラが彼女には漂っていたからではないか。それは不条理なシステムに組み込まれていても、秩序が保障され現状維持を望む人々が大多数の環境では、当然のこと煙たがられ異端視されてしまう。

そして恐らく高宗は、そんな武則天の最大の理解者であったように思える。なぜなら彼もまた不条理なシステムに閉じ込められていたからだ。実は高宗は自ら望んで皇帝になったわけではない。皇位継承を目的とした権力抗争に巻き込まれた挙句、好戦的で支配欲旺盛な実の兄たちを倒し即位するに至った。この資質も性格も権力者に不向きな皇太子が唐帝国の頂点に立つシナリオを演出したのは、高宗の伯父の長孫無忌である。長孫無忌は隋の滅亡や唐の勃興に際し多大な功績を積み重ねた文武に秀でた人物で、初代皇帝の時代から信任の厚い重臣であった。それは高宗の父の太宗の皇帝時代も続き、やがて彼の妹は皇后となり高宗を産む。そして太宗の臨終において、長孫無忌は唐帝国の行末を高宗の後見人として託されており、外戚ではあっても、唐帝国の屋台骨を組んで支え続けた超大物だ。それゆえ、第3代皇帝の高宗の運命はこの長孫無忌に握られていた。

結局、高宗は長孫無忌にとっては、操り人形であった。巨大帝国の皇帝も謂わば籠の中の鳥と同じで、彼の心には孤独や疎外感、それに虚無感や諦念が棲みついていたはずである。それを象徴するように高宗は政務を臣下に任せることが多かったらしい。多分、その政策立案から決定までを牛耳ったのは長孫無忌であろう。そして唐帝国のグランドデザインを描いた中心人物は、紛れもなくこの長孫無忌であり、その概要は儒教倫理が通底した律令制による法整備で国家を運営することである。

長孫無忌は隋を倒す反乱軍を指揮した勇猛な武人だが、頭脳も明晰で隋の滅亡後に建国する唐の国家システムを用意周到に計画していた。彼が編纂を監修し651年に制定された永徽律令だが、日本の大宝律令などは殆どこれの借り物である。つまり唐の律令制は中国大陸から周辺諸国にも強い影響を与えていたのだ。ただし、先に述べたアラビア半島からイスラム教が広がっていった形とは違い、国家間の公式外交で制度設計を唐から輸入する形である。日本では国策としてこの役目を担ったのは遣唐使であった。律令制そのものの起源は非常に古く、それこそ儒教が古代社会の小国家レベルの共同体に根付きだした頃から中国大陸には存在していた。しかしこの唐帝国で成立した律令制は、紀元前の秦や漢は言うに及ばす、唐に滅ぼされた隋も導入していたその古典的な制度を、相当にパワーアップさせて緻密に明文化したものである。この為、古代ではあっても法が行き渡る範囲において、政府が国民を強固に管理できた。

前回のブログで貧窮問答歌を取り上げたが、あの民衆が重税に苦しむ過酷な現実は、大宝律令が奈良時代の日本で、法律として機能している日常である。そして作者の山上憶良は遣唐使として唐に渡航し帰国後に、貧窮問答歌を創作した。ここから推測できるのは、彼が現地で見た唐の社会の方が、日本の社会よりも律令制が厳しくなかったということである。さらに当時の唐は、国号も周に変わっており、女帝の武則天による武周革命が起きていた頃で、あの長孫無忌も皇帝だった高宗も既に他界していた。

ここで長孫無忌に話を戻す。彼は王や皇帝といった国家の頂点に君臨するタイプではなかったが、王や皇帝を制御し操縦する術、つまり自らが選び望んだ人物を王座に就けるキングメーカーとしての才覚に優れていた。そして古今東西の歴史において、キングメーカーのランキングがあったとすれば余裕でベスト5にランクインするほどの傑物である。ところが彼のビジョンは高宗と武則天とは残念ながら相入れないものだ。

長孫無忌は唐の律令制の構築に最大限の努力を注いだが、それだけではなく国家宗教の導入にも大きな役割を果たした。そして唐が導入したのは、隋が導入した仏教ではなく道教である。ここから少し道教について説明しておきたい。実は道教は老荘思想の老子の教えから派生している。ただし老荘思想の原点からはかなり遊離してしまった。もはや別物である。なぜなら老子が唱えた無為自然の概念は儒教の礼や徳といった人為を、不自然な作為として否定していた。そして無為自然であることでこそ、世界はおさまるという楽天的な発想なのだ。それゆえ大昔から圧政で苦しむ民衆にとって、老子は親しみ易い伝説的な偉人であり、民間信仰の中心でもあった。しかもインド亜大陸から中国大陸へ仏教が伝来した時、仏教の始祖の釈迦の教えは、民衆レベルでは老荘思想と心に響くようにして共有できた。

ところが長孫無忌は老子の教えよりも、民間信仰で崇拝の対象と化した老子その人のオーラを活用したのだ。それも唐帝国の初代皇帝が老子の子孫だと公言することによって。そしてこのアイディアはそもそも道教の成立をヒントにしている。それは道教の創始者が老子だという説だ。しかし道教の教義が祈祷の儀式や呪術や占術を伴い、現生利益も肯定した上で、信者の人々が支持した究極の理由は神仙思想であり、健康長寿という願望が、不老長寿や不老不死にまで至る目標になってしまうことである。しかも仏教や儒教とは異なり、神が存在する多神教の宗教であった。この辺りはインドのヒンズー教や日本の神道に近いともいえる。ただし仮に、紀元前6世紀頃を生きた老子が、彼の死後500年近い時が流れて生まれた道教という宗教を、しかも老子自身を神格化したその形態を知ったとしたら、不可解に感じて首を傾げたのではないか。

そして多分、このような宗教の政治利用に対し、高宗と武則天は懸念を示していたと思われる。それはこの2人の心に同じような空洞が存在し、そこを埋めれるのは救済装置であって、支配層が被支配層を洗脳する道具ではない。ところが長孫無忌には全くこれは理解不能であろう。その意味で彼は典型的な儒教圏の権力者であった。仏教だろうが道教だろうが、民衆に支持される国家宗教の礎には、儒教が根を張っていることが絶対的必要条件なのだ。しかし逆説的に考えると、それゆえに隋帝国は短命で終わってしまったのではないか。そもそも隋は戦乱の時代に仏教を弾圧し敵対する諸国家を仏教の復興をスローガンに薙ぎ倒し、民衆も味方につけて秦や漢以来の中国大陸統一を成し遂げた王朝である。

ここで儒教の創始者、孔子の言葉を思い出す。「下は上を敬い、上は下を慈しむ」という有名な文言だ。儒教の世界観では、社会の身分が固定されていることが大前提であり、従って人と人の関係性で上下尊卑が重んじられる。これは支配層にとっては実に都合が良い考え方だ。この為、中国大陸から朝鮮半島、日本列島や東南アジアその他諸々の儒教の影響が濃密に浸透した地域において、権威や権力を駆使する為政者は慢心に陥り易い。特にその慢心は「下は上を敬い」に取り憑かれ、「上は下を慈しむ」を見えなくさせる。隋の煬帝が仏教徒でありながら、暴政を極めたのも、この儒教のシステムに胡座をかいて、無際限に無辜の民から搾取を続けたからだ。

煬帝に関しては、隋の歴史を唐が書き記した為に悪評も凄まじいのだが、物的証拠が完璧な形で残ってしまった。それは空前絶後の巨大土木工事の末に完成した通済渠という大運河である。これは20世紀に宇宙飛行士が地球を眺望した時に、万里の長城を見失なってさえ、宇宙空間に浮かぶ地球に刻まれている線がはっきりと確認できた人工物だ。これでは煬帝が破格の暴君であった事実を覆しようがない。ただ武則天の場合、何度も述べたように悪評の真偽のほどは謎のままである。そして信憑性も怪しい。特に中国3大悪女の残酷なエピソードは紀元前の漢帝国の初代皇帝の皇后だった呂雉、つまり3大悪女の1人目のエピソードとほぼ同じか、似たような脚色と感じられるものが多いからだ。

高宗が唐の皇帝に就いてからの約10年は、長孫無忌の主導で歴史は動いた。大粛清では、高宗と皇位継承を争った実兄たち一族はほぼ全滅の憂き目を見る。しかし武則天が還俗し、皇帝の高宗の皇妃になった辺りから、このパワーバランスは崩れはじめる。恐らく高宗と武則天は長孫無忌の路線の軌道修正を図ろうとしたのではないか。端的に述べると「下は上を敬い、上は下を慈しむ」の「上は下を慈しむ」にも目を向けようという方向性である。そして皮肉にも、隋が滅ぼせなかった手強い高句麗が自滅に近い形で滅亡し、白村江の戦いで日本が敗北するのは、唐の政権内部で長孫無忌が失脚しはじめた頃と軌を一にしている。

稀代のキングメーカー長孫無忌も、彼の勢力の大粛清の中で、659年に流罪地で自殺しその生を終えた。それから20年以上の時が経過した後、683年に第3代皇帝の高宗は崩御した。彼の治世に唐帝国史上最大版図となった広大な領域は、それ以降さらに広がることはなかった。そして新しい皇帝として高宗と武則天の七男の中宗が即位するが上手くいかず1年を待たずして廃位すると、今度は八男の睿宗が即位するのだが、こちらも6年足らずで廃位し、武則天がとうとう自ら頂点に立つことになるのだ。中国史上初の女帝誕生である。

しかし皇帝の夫の死後に、能力不足でも息子2人を立てている辺り、武則天は儒教の世界観を優先しているように見受けられる。これでは儒教の女子教育における代表的な訓示「女は嫁に行く前は父親に従い、嫁に行くと夫に従い、夫が亡くなったら息子に従うこと」をそのまま実行したようなものだ。母親として当然のこと、息子に成功してほしいから即位を後押しした気持ちゆえであろうが、正直な話、こうしたエピソードを鑑みると、やはり極端な悪評の数々は、大袈裟な脚色や真っ赤な嘘が多かったのではないか。  

武周革命に関しても賛否両論はあったようだが、この時期に中国大陸で大きく社会が変化していたことは間違いない。実際、科挙を整備して出自を問わない人材登用をしたり、動物愛護の法令を出したり、外来宗教の流入を歓迎したりしたことは、少なからずでも硬直した儒教の社会通念に地殻変動を起こした可能性はあった。また先に述べた孔子の言葉「下は上を敬い、上は下を慈しむ」の中で、為政者が忘れがちな「上は下を慈しむ」に重点を置いて政治を行ったように思われる。そしてこの「上は下を慈しむ」は仏教の慈悲の精神とも相通じるものだ。この武則天をモデルにしたらしき仏像も、為政者は民を慈しむべきだと、今にも語りだしそうである。

武則天は何かと負のイメージで語られることの多い歴史上の代表的な人物だが、女性が男性よりも圧倒的に弱い立場の古代中国で女性が皇帝になってしまうことはまず有り得ないことである。それが現実になってしまったのは、恐怖で人を従わせるというような力関係ではなく、彼女の人間性に共感し、協力し応援してくれる人々の助けが無ければ土台無理なのではないだろうか。この最初で最後の女帝がその座を降りるのは、かつて廃帝にした息子の中宗への譲位であった。強靭な武則天も老いと病には勝てず81年の生涯を終えるのだが、彼女の墓は陵墓として、現在の中国の乾県の乾陵に建立されている。この陵墓も女帝の誕生と同様に史上唯一の存在であり、それは2人の皇帝が一緒に葬られているからだ。武則天ともう1人は夫であった高宗その人である。
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山上憶良の「貧窮問答歌」

2023-01-31 23:45:48 | 日記
奈良時代初期を生きた山上憶良が残した「貧窮問答歌」は、昨今の世相にも時空を超えて響く内容だ。この万葉集に収められた詩歌が現代にも相通じるということは、長い年月を経て文明が進歩しても、社会の根本的な問題の多くは解決されていないことを意味する。古代人の山上憶良が遠い未来を千里眼で見抜けていたかどうかは分からないが、当時の社会の現状を誠実に詩で書留めたのであり、恐らく彼の人間性を鑑みる限り、そうぜさるを得なかった。そしてそんな彼は古代律令制が機能している国家の官僚ではあっても、かなり問題意識の強い人物だ。

「貧窮問答歌」は、農民の生活の様子が長歌と短歌で構成された形式で表現されている。この長歌の部分で、かなりリアルに農民の暮らしぶりは伝わってくる。前半には厳寒の地で、冷たい雨に雪が混じって降る夜に、老いと病で心身共に疲れ果てたような男が、酒粕を溶いた湯を啜りながら、薄い衣を幾ら重ねて着ても、身も凍るような寒気から逃れる術はなく、そんな状況下、彼は自分よりもさらに貧しい人々のことに想いを致す。そして厳しい寒さだけではなく、酷い飢えにも遭遇しながらどうやって生きているのですか?と問いかけるのだ。

この前半部分で独白する男は、恐らく山上憶良が農民に憑依したような分身であろう。多分、奈良の都ではなく地方の下級役人であった頃の記憶を蘇らせているのではないか。そして後半では前半よりも貧困のどん底にいる人々が現れる。脆弱な竪穴式住居で暮らすその家族の悲惨極まりない生活描写は真に迫っており、ここでは作者の問題意識が如実に感じられる。地面に藁を敷いただけの狭い空間に、海藻のように裂けたボロボロの布を着た男と両親と妻子が、身を寄せ合い愚痴をこぼしながら固まって暮らしているのだ。釜には蜘蛛の巣が張っており、それは家族が食物を調達し、調理できないほど飢えた状態にあることを示す。これではその日その日を生きるのに精一杯どころではない。しかもそんな惨状をさらにエスカレートさせるが如く、鞭を手にした里長が、怒声を轟かせて税を早く収めろと恫喝してくる。里長とは公権力の僕であり、官が民を徴税という形で搾取する、その象徴として最後に登場してくるわけだ。

この里長の仕事は、まるでカラカラの空雑巾から無理矢理、もう殆ど無い水分をまだ搾り出そうとする愚行に等しい。まさに恐怖支配を背景にした重税という不条理であり、これこそが古今東西、なお続いている搾取の実態であろう。そしてこの長歌の末尾の部分で、私たち読者は過酷な納税義務を課された悲惨な家族に同情を抱かざるを得なくなる。またここで生まれたその同情心から、深い絶望感さえ湧き上がってくるはずだ。作者の山上憶良はきっとそのように読者の心が動くことを期待したと思われる。

ただ「貧窮問答歌」は、勿論この長歌で完結しているわけではない。長歌で発せられた問いかけに、短歌でこう答えて締めくくられている。こんな世界をつらいとも厭わしいとも思うが、鳥のように空へ飛び去って逃げることもできないと。この家族の悲嘆や絶望は深過ぎるが、逃げることはできないと彼らは諦観している。つまりこの家族の逃亡は不可能だが、搾取の酷い社会を決して肯定し受容しているわけではないのだ。ここで読者は痛感しつつ、絶望の世界を希望の世界へと変える意志を持つ。またそれは貧窮の極みにある人々の心に、翼を羽ばたかせて空を飛ぶ、自由の象徴のような鳥を、山上憶良が最終のキーワードに選んだことからも明白だ。彼は読者の心が動いて変化し、読者自身が社会を善処する方向に行動することを望んでいる。

万葉集は和歌の原点であり、旅や恋や死を主題として、自然を賛美しつつも歌い手の感情が社会の問題点と向き合ったものは少ない。その意味で山上憶良は非常に特異な存在だ。彼が古代人であっても、社会派の詩人だと評される所以である。では山上憶良はなぜ他の詩人たちとそのように一線を画していたのか。恐らくそれは、彼の生来の優しい人間性と40代の年齢で遣唐使になって中国大陸へ渡った経験が大きかったと思われる。

実は唐の詩人が詠んだ歌には、社会批判的なものも多い。これは唐の時代だけではなく、遠い昔から中国の漢詩は日本の和歌と比べると、如実に権威や権力に対する反骨心が感じられる。そして興味深いのは、山上憶良が滞在した時期の唐は、正確には国号が唐ではなく周と呼ばれていた時代であった。これは中国史上初の女帝の武則天が国号を唐から周に変えたからだ。しかも武則天が統治した時代は武周革命ともよばれ、賛否両論はあるにせよ、古代中国の律令制において、農民の反乱が殆どなく、また身分を問わない幅広い人材登用も実施されるという善政が敷かれていた。中国の歴史において武則天は、残酷な女傑で悪女という評価も下されているが、これは儒教の男尊女卑の倫理観が強く影響している。

多分、山上憶良は遣唐使として滞在した中国大陸において、儒教や仏教といった思想や宗教の最新形の理解を深めると同時に、それまでの約40年の人生では出会うことのなかった社会変革の気風を感じたのではないか。そして詩に詠まれた言葉の政治への影響力を確信したようにも思える。つまり文学で社会や世界を変えられるという信念を持つに至った。特にこの「貧窮問答歌」から想像できる情景は、私たちが生きる現代の戦争や内戦といった紛争地での悲惨な映像と衝撃的に重なるほどリアルだ。

つまり山上憶良は、彼の同時代の人々だけではなく、私たちを含めた遥か遠い未来の人々も読者として彼の視野に入れていた。またその未来世界が戦乱や搾取に蹂躙されているのなら、彼自身の言葉を読んでほしいと切に願っていたはずである。
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