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豊臣秀吉の辞世の句

2023-10-29 16:45:25 | 日記
 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 これは日本の室町時代末期、戦国の世に織田信長に仕え出世街道を直走り、信長が本能寺の変で憤死して以降は、ライバルの戦国大名たちを薙ぎ倒して、天下人にまで昇り詰めた豊臣秀吉の辞世の句である。

 このブログで以前、頂点を極めた権力者が人生の最期の最期、宗教心に目覚めて終始替えするケースがそこそこ見受けられると述べた。そして彼らが生命の終点で向き合ったその宗教の姿とは、彼ら自身がそれまで狡猾に政治利用してきた宗教ではなく、無辜の人々がささやかな日常で神仏を信仰する次元に近いこと。つまりどん詰まりに来て、やっと支配者が被支配者への共感力や想像力を持つに至ることを、古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世を主題にして書いた。

 豊臣秀吉の場合、墓所が数カ所も存在し、寺院では真言宗の不動院や高野山、それに曹洞宗の国泰寺にあり、なおかつ朝廷から豊国乃大明神の神号を与えられて豊国神社にも祀られている。しかしこの死を受容した辞世の句から判断する限り、詠んだ時の秀吉の心境を推し量るなら自分の墓所のことなど、もうどうでもよかったのではないか。

 コンスタンティヌス1世と豊臣秀吉に共通するのは、晩年に人間不信に陥り親族殺しや残酷な虐殺をしたことだ。特に秀吉の場合、関白職を譲った甥の秀次を秀頼が誕生すると切腹させて、その眷族まで尽く処刑してしまう。これはかつての主君で恐怖支配の織田信長が憑依したような有様だが、対外戦争を仕掛けて朝鮮半島や中国大陸まで侵略するような暴挙を敢行した為政者は、秀吉以前の日本史には登場していない。古代において伝承に近い三韓征伐や、記録に残った白村江の戦いも朝鮮半島周辺の話である。そして秀吉の野望は中国大陸の明帝国の征服に留まらず、その後はインド亜大陸の天竺まで制覇する目的であった。その意味で豊臣秀吉は源頼朝や足利尊氏や徳川家康のように幕府を創建することがなかったにせよ、破格の天下人であった。

 豊臣秀吉が絶対君主のように強力な独裁者になって、ブレーキの効かないダンプカーの如く暴走しだすのは、補佐役で弟の秀長が病没して以降である。またこの兄弟は父親が違うとはいえ、固い絆を保ちながら有能な人材を纏めて政権運営をしていたようだ。しかも秀長が他界するほぼ1年前に日本全国を平定し、文字通りの天下統一を成し遂げており、やはり秀長の貢献は大きかった。

 室町時代末期の戦国の世は、古代の弥生時代に匹敵するほど戦死者の数が膨大であったことが判明している。そして当然のこと、そんな世界では為政者は戦争という選択肢をとることが多い。しかしその人災のせいで、犠牲者が湯水の如く沸き出てしまったわけである。それこそ死の行進の如く。中でも凄まじかったのは戦国大名と一向一揆の殲滅戦だ。特に信長が指揮する織田軍は根切りと称し、敵が降伏した場合も皆殺しにすることが多かった。これは現代にも通じる、戦争が憎悪の連鎖を発生させる典型的なケースであろう。また能力主義を重視してもノルマが異常に厳しかった。正直、こんなブラック企業でやりたい放題するリーダーの下で働いていた光秀や秀吉や家康は相当なストレスを味わっていたはずだ。多分、明智光秀が本能寺の変で決起しなければ、いずれ秀吉か家康がそれをやった可能性はある。

 この為、秀吉は関白に就任した段階で、朝廷の権威を傘に惣無事令を発し、軍事力だけではなく外交努力で敵対する戦国大名を臣従させている。恐らく秀吉や秀長は、逆らう者は滅ぼし、邪魔者は消すという信長のやり方を反面教師にしていたであろう。しかし折角、天下を統一していながら、秀長の死後に実施された刀狩りや太閤検地、それに石高制における収入が、豊臣氏にほぼ独占されてしまったのは馬鹿げている。無論、醍醐の花見などの大々的なパフォーマンスで大盤振る舞いをしてはいるが、それに要した歳出は秀吉の巨大な財布からほんの少しばかり捻出した程度であった。つまり秀吉は天下統一で貪った暴利から最大の恩恵を受けていたのだ。この辺り、秀吉も例外に漏れず搾取体質の権力者であった。

 ここで辞世の句を今一度抜粋させて頂く。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 仮に秀吉が天下統一後に、この辞世の句の心境になれたとしたら、甥の秀次や千利休を切腹させることはなかったし、ましてや海外への軍事侵攻もしなかったのではないか。しかもこの言葉が出てきた背後には、透徹した宗教心さえ垣間見える。天下人が天下人を超える存在を認めているからだ。そしてそれは1人の人間の秀吉を露が滴り落ちるようにして、この世に現出させた存在である。

 秀吉は織田家の重臣であった頃、一向宗の死をも恐れぬ門徒軍団と闘っているし、関白の時代にバテレン追放令を発してキリシタン信徒を弾圧し、天下統一後もこの路線はエスカレートして処刑された信徒数が増えた。しかし大坂の石山本願寺を本拠地とする一向宗は仏教徒でありながら、軍事的に組織化されてもいた。また日本に渡来して宣教師が布教を広めるイエズス会も、ローマ教皇庁に認可されたカトリックの組織だが、スペイン帝国やポルトガル王国の軍事力を後ろ盾にしている。この為、頭脳明晰な秀吉は、宗教全般に対して兼ねてから胡散臭さを感じていたはずだ。しかもその上で利用価値があれば大いに利用するというスタンスであろう。朝廷から神号を得ようと画策した行動はその最たるものといえる。

 ただこの辞世の句を読むと、生前のある事件が少なからず彼に影響を与えた可能性はある。それはバテレン追放令によって、臣下のキリシタン大名の高山右近が神への信仰を捨てずに、追放を受け入れて地位も名誉も領地も本当に放棄してしまったことだ。この大名から乞食同然に成り果てる右近の行動は、当時の秀吉には不可解千万であろうが、ひょっとすると心の片隅に小さ過ぎるほどの小石程度ではあっても、置き捨てにされた状態でずっと残り続けたのかもしれない。つまり目前に死が迫っていた秀吉に、こんな天下人らしからぬ辞世の句を詠ませたのは、やはり地上の権威や権力とは無縁の神様仏様であったように思えてならない。

 中世から近世の狭間を生きて天下人の頂点に立った豊臣秀吉は現代でいうならば、国政を左右できるほどの力を有する超富裕層であろう。今、私たちが生きている世界では悲惨な戦禍が増えつつある。国を動かす為政者で戦争への道を選んでしまう人々が、この秀吉の辞世の句の心境になってくれることを切に願うばかりだ。

 今回の画像は20世紀に画家の安野光雅さんが描いた、豊臣秀吉の出身地でもある愛知県の農村の風景である。辞世の句の、浪速のことはとは、大坂城を築いて巨大な商業都市となった大坂のことであり、夢のまた夢とは、その時代に秀吉が体現した栄耀栄華も夢の中で見た夢のように儚かったと、そう語っているように思える。生まれてきたからには、富める者にも貧しき者にも必ず死は訪れる。秀吉が最期に吐いた言葉には、権力の乱用により葬った屍の山に築かれた栄光など愚かしく虚しいという自戒さえ感じられる。
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森に消えたマヤ

2023-09-28 22:09:47 | 日記
 アメリカ大陸に存在したマヤは、人類の歴史に登場した数多ある文明の中でも非常に個性豊かなことで知られる。その帝国領域は今のメキシコ南東部からグアテマラやベリーズを含めた熱帯雨林が多い中央アメリカで、現在でもこの一帯はマヤ地域と呼ばれるほど、失われた文明としての知名度は抜群だ。またそう認知されるほど高度で進歩的な側面があった。しかも謎が多いのもその特徴と云える。そしてこれは同じアメリカ大陸で農耕民族の帝国を築いたインカやアステカといった他の文明と比較すると、農耕民族ではあってもかなり極端な点も見受けられる。前々回にラテンアメリカとコスタリカを主題にしたが、マヤ文明について触れなかったのは、滅んだ時期が9世紀であり、15世紀の大航海時代にヨーロッパの帝国主義諸国が大西洋を越えて、この新大陸に到達した頃、既に姿を消していたからだ。

 尤も正確には、大航海時代にも生き残っていたマヤ文明の少数派の人々もいるにはいた。それはマヤの帝国が強力な中央集権ではなく、中央に統制された地方分権に近かったことにも起因する。ところが巨大都市を有するその本質的な中央の本体はあっさり滅び去っている。そして天文学を含めた自然科学、それに音楽や美術に代表される芸術の分野でも、興味深く注目されて研究対象になっているのは、やはり地球上の他地域の大文明圏にも匹敵し、独自性も濃厚なマヤ文明の本体であろう。それを象徴するように21世紀以降も、古代のマヤの地、現代のメキシコで巨大建造物のピラミッドが新発見されている。もし仮に大航海時代に、このマヤ文明が最盛期に近い状態で残っていたとすれば、世界史の内容は大きく改変されたかもしれない。

 今の21世紀の現在地点、私たちが生きている現代文明にとって、実はマヤ文明の衰退と滅亡の足跡は、警告や警鐘という意味で非常に参考になるように思える。なぜならマヤの人々はあくまでも人間であって、知的生命体の宇宙人でもなければ超能力者でもなかったからだ。むしろその滅び方は、教訓めいてさえいる。そしてそれを裏付ける要因として、ここ数年で明らかになってきたのは、従来のミステリアスな魅力とポジティブな印象とは乖離した事実である。これは現代文明のテクノロジーの進化の賜物でもあるのだが、未知の部分に光が当てられたことによってマヤ文明の不徳と腐敗も明らかになってきた。

 そしてマヤ文明は長所ばかりが持て囃されてきたわけでもない。むしろ短所としては強権的に行われてきた生贄の儀式と、その膨大な犠牲者の数が挙げられる。これはどう転んでも生命の価値を蔑ろにしており、その意味でマヤも未だに大量殺戮の戦争を止められない現代人と同類であろう。ただしこの生贄はマヤ文明の専売特許ではなく、ましてやマヤの後続のインカやアステカといったアメリカ大陸の農耕文明に固有の社会的現象でもない。当然のこと、ユーラシア大陸やアフリカ大陸、それにその他、地球上の凡ゆる地域で発生してしまったことだ。それも文明化する以前の小規模な社会集団においてさえも見られた愚かな所業である。日本の生贄のケースだと、近世まで人柱が存在していたことが、歴史的事実として確認できる。

 マヤ文明の全盛期は2世紀から9世紀辺りで、600年以上もの長期間に渡り、この時期の壁画や彫刻、それに楽器を含めた工芸品などはその造形や色彩の構成力の完成度が非常に高い。この為、全盛期以前の作品も加えて世界中の美術館でマヤ文明をテーマにした展覧会が開催されるほどである。しかしながら、やはり生贄の儀式を連想すると、そうした優れた作品群からも不穏な空気や恐怖を感じる瞬間と無縁ではいられない。そしてアフリカ大陸でホモサピエンスが出現したのは、今から約20万年前だが、その人類発祥の地から、ほぼ永遠に等しい時間を経てマヤ文明を築く人々の祖先がアメリカ大陸に辿り着くのは紀元前80世紀くらいである。このとてつもない遠距離を長大な世代を連綿と繋ぎながら、その大移動を成し遂げた人間に宿るのは、ひよっとすると驚異的な強靭性や忍耐力なのかもしれない。

 人類の4大文明であるエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明とマヤ文明が大きく異なるのは、農耕の文明ではあっても、水源となる大河が存在しなかったことだ。要するにマヤの人々にとっての水源は湖や川や泉であり、ナイル川やユーフラテス川やインダス川や黄河のような果てしない大河には恵まれていない。この点でマヤ文明の衰退と滅亡を凶作による大規模な飢餓だと断定する説もある。またトウモロコシを主食としていたが、農産物の栄養価が低く疫病が蔓延した際に、なす術もなく急激な人口減に及んだという説もあった。しかし最近になって、かなり信憑性の高い研究が進んできている。多分この研究と分析から得れた真相こそが、マヤ文明の衰退と滅亡の本当の原因であろう。そしてこれは生贄の儀式とも関連している。

 まずマヤ文明において、数字を含めた文字や天文学が相当に進歩していたのは有名な話だが、これは農業に重大な影響を与える天候の予測においても貢献できたことは明らかである。しかし実は他の4大文明と比べると、天文学は純粋に大宇宙の探究に重点を置いていたらしい。ここから推測できるのは、マヤの人々が雨季や乾季が想定通りに訪れず、気候変動によって凶作が発生しても、その対応策や解決手段を平然と準備していたことだ。そしてそれは恐ろしいことに、生贄による人口調節であったのかもしれない。つまり生贄は貯蔵物も含めて国民全体を食で養う余裕がなくなる事態を防ぐ効果もあったのだ。順調に人口を増やす為に、局面によっては人口を間引くという方式である。また巨大なピラミッドのような神殿を舞台にした盛大な儀式によって、世界を創造した神々が天災で人間社会を苦しめないよう、生贄を捧げる有効性を説いて、社会の支配層は被支配層を洗脳していた。マヤの宗教は多神教だが、この神々は人間を創造していながらその失敗作に幻滅し、洪水まで起こして、わざわざ創造した人間を滅ぼしたこともある恐い神様たちである。

 マヤ文明の支配層にとって、この宗教は大いに重宝したことであろう。なぜなら絶対服従の恐怖支配に利用できるからだ。そしてこうした不条理は、大なり小なり人類史で、うんざりするほど見受けられる愚行である。しかもマヤの被支配層の人々は、儀式の生贄だけではなく、兵士として頻発する戦争にも駆り出されていた。このマヤ文明における戦争の多さも、近年の調査研究で判明してきたことだが、呆れ果てるのはここでも生贄による生命軽視の洗脳が機能していることである。これは現存するマヤの壁画に描かれた戦場や生贄の儀式の情景を見るとよく理解できる。色彩表現や造形美も見事で実に完成度も高いのだが、武器を手にして敵兵や生贄の命を奪う戦士たちをヒロイックに描写している為、プロパガンダとして制作されたことが容易に想像可能である。
 
 マヤ文明は古代から中世にかけて、首都だけで10万人近い人口を要していたが、ユーラシア大陸で勃興した他の巨大帝国に比肩し得るこの繁栄においても、やはり生贄や戦争による人口調節は機能していたのかもしれない。そして支配層が贅沢な生活を謳歌していたこともわかってきた。つまり経済を支えていた基盤がかなり強固であり、それは農産物の物流だけではなく、強い兵士に商品価値があり、古代ギリシャの都市国家のように傭兵も国家経済を支えていたのではないか。またマヤ文明は鉄を持たなかったが、車輪技術もなく農作業の労働を人力のみで担っていた為に、鉄製の武器がなくとも兵士はかなり屈強だった可能性がある。

 強力な軍隊にも守られて、冨み栄える支配層は我が世の春を謳歌していたが、やはり終焉はやって来た。そしてマヤ文明の衰退は急激な人口減少が、9世紀の100年足らずの間に起きてしまう。この衰退の流れが滅亡に直結した。人々は消えだし、繁栄した都市は次々と鬱蒼とした森に覆われていく。この結果を齎した原因は水資源の汚染である。以前は天災の疫病説が有力であったが、真説の人災による生活用水の汚染こそが歴史的事実であろう。しかもその人災の全容も解明されてきた。それは神々の権威を利用した支配層の威光を示す為に造られた建造物や、その内部に描かれた壁画に使用された塗料であった。その体制維持に必要不可欠な塗料に有毒な水銀が含まれていたのだ。これが雨や排水で流されて大地にも浸透し、土壌も毒に汚れて水質の悪化を生んでしまった。

 このマヤの帝国支配層の自業自得の結末は、私たち現代人にとっても、洒落にならないモデルケースである。戦争や環境破壊による気候変動は、それに反対の声を上げる人々がいても、政府がプロパガンダで邪魔をして潰してしまう国は多い。またネット社会ではフェイクニュースも飛び交い、民主主義社会においてさえ、個人が自由意志で選択する過程が、客観的には詐欺的に洗脳されていく状況であったりもする。つまり破滅を防ぐ行動を妨害する勢力が存在し、その勢力はどう考えても大多数の人々から搾取して、その恩恵を浴びれる現状を変えたくない少数の人々であろう。しかも破滅が来るまで、酷い格差社会の頂点で贅の限りを尽くしたい腐敗した連中であり、きっとマヤ文明を滅亡に導いた支配層もその例外ではなかったと思われる。

 ここで仮定の話になってしまうが、マヤ文明が滅亡を防げた道を考えてみたい。それはやはり支配層の自制と、その自制心を生かして、利権を優先した政策を放棄する道であろう。つまり水銀の毒に汚染された塗料を使う前の段階で、生贄や戦争という選択肢を捨ててしまうことである。それをやっていたら、巨大な神殿を建造する必要はなかった。また傭兵が商売になっていたということは、暴利を貪る為に、始める必要のない戦争を始めたり、終わる可能性のある戦争をずるずると引き延ばしていたことが考えられる。マヤ帝国の周辺には、マヤよりも強大な国は見当たらなかったし、支配下の衛星国同士を戦争状態になるよう誘発したこともあったのではないか。これではまるで弱い者虐めの金儲けである。だから異なる道を選択していれば、そもそも破滅へ向かうことすら無かった。

 マヤ文明の衰退と滅亡を厳しい教訓として肝に銘じるべきなのは、国を動かす立場にいる為政者の人々であろう。特に生贄のような犠牲を正当化する形で、利他精神を国民に植え付ける愚かしい政策は絶対に取るべきではない。現代の民主主義社会においては、マヤの生贄の儀式は遠い昔の絵空事なのかもしれないが、冷静に思考すれば同じようなシステムにも見えてくる。生贄を神々に捧げれば災厄が防げるという構図は、増税に耐えれば国難が防げるという構図と似ていなくもないからだ。特に昨今の政治家たちの不祥事を見るにつけ、本当に増税が必要なのかどうかという根本的な疑問さえ湧いてくる。つまり政治家たちの非倫理的な行動がその本性を表しているとしたら、国民が納税したお金が正しく使われているかどうかは、甚だ怪しいと感じざるを得ないのだ。これはどの国の政府にも言えることだが、為政者は国民へ自己アピールする前に、まず自らが改心する必要があるのではないか。それをしなければ、マヤ文明の支配層と同じ自滅が待っているのは必定の理りである。
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グランドキャニオン

2023-08-31 12:54:11 | 日記
今回も前回に続いて、アメリカ大陸の話を少し書いてみたい。アメリカ大陸には一度だけ仕事で訪れたことがある。1988年に海外主張で渡米したのだ。季節は冬で約1週間ほどのネバダ州での滞在中、仕事がオフの日に、泊まっているホテルから観光バスに乗ってすぐ隣のアリゾナ州のグランドキャニオン国立公園に行った。そしてそこで遭遇した風景は生涯最高の絶景であった。多分、グランドキャニオンの世界に浸れたのは数時間程度だったと思うが、個人史的には貴重過ぎるほどの経験をさせて頂いた。

グランドキャニオンは1979年に世界遺産に登録されている為、そこへ行く前から期待を裏切ることなどまず有り得ないと確信していたのだが、良い意味でその予想を遥かに超えていた。もう30年以上前の話になってしまうが、意外と今更ながら脳裏に刻まれている場面は多い。当時の日本はバブル経済が本格化していく好景気に沸いており、現地で随分と羽振り良さ気な日本人の姿もよく見かけた。恐らくこの時代は、若い人でも海外旅行が趣味のような日本人さえいたと思われる。

当日は晴天で、宿泊先のラスベガスのホテル周辺にも雪は残っていたが、乗車したバスが国立公園に近づくにつれ、雪景色が自然と増えていく印象であった。そして国立公園に到着してから土産物屋さんで一息ついた後、今度は小型飛行機に乗って、空から鳥瞰する形で大峡谷を眺めた。当然のこと、これまで見たこともない異世界が地上に果てしなく広がっており、それはそれはとてつもないインパクトであった。まるで宇宙船に乗って他の惑星を探索しているような、あるいはタイムマシンに乗って太古の昔にタイムスリップしたような、そんな感覚である。しかし感動はそれだけでは終わらない。この衝撃をさらに凌駕する偉大な風景に出会えるのは、飛行機を降りて絶景となる峡谷の天辺の領域に降り立ったその時だ。

渡米する以前からそれなりの予備知識は備えていたように思う。実際、日本の学校教育の地理の授業で、アメリカ合衆国の話になると、有名な世界遺産でもあるグランドキャニオンは格好の的だし、ハリウッド映画の西部劇でも、大峡谷を背景にした映像が流れたら、グランドキャニオンを連想する人は多いはずだ。また自動車やジーンズ、それに煙草などのCM映像の背景にもグランドキャニオンらしき雄大な峡谷が現れたりする。そしてこうした非常にポジティブなイメージには、商品の購買意欲を高めるような魅力さえあるだろう。グランドキャニオン国立公園を訪れたこの日は、そんな先入観に心が占有されていた気もする。

ところがその先入観は見事に覆されてしまう。そこには異世界と違う、写真や映像の記憶に留めていた構図との相似形があっても、何と西部劇に象徴されるカウボーイの開拓者精神を肯定する要素が微塵も無かったからだ。むしろ人間社会や人類の文明に対して、悠然と沈黙を保っているような神秘性が漂っていた。立っている場所から数歩ほど前進して手摺に付いて見下ろすと、奈落の底のように深い谷が広がっている。そこから視線を少しずつ上げていけば、稀有壮大な崖と対峙することになるわけだが、表面を変幻自在な層で彩られたその崖の全貌が大き過ぎて、通常の遠近感覚の破綻を味わう羽目になる。遠過ぎる所にあるものがあまりにも巨大ゆえに違和感が生じるのだ。その違和感から逃れるように遥か遠方を見渡すと、崖で形成された地平線の上で空と山脈が霞むようにして溶け込んでいる。この視線を下から上へ上げていく眺望の過程で、心が浄化されていくような感覚に見舞われた。

その後はゆっくりと辺りを見回しながら、視界に映る神聖な景色を十二分に堪能していた。そして凍てつくような冷たい寒気にも、そこにしかない清浄な気配が感じられた。正直な話、既成概念を崩壊させてしまう想像もつかない風景が眼前に広がっており、ひょっとするとグランドキャニオンを取材したドキュメンタリー番組を予め視聴する機会があったとしたら、感じ方も多少は違ったのかもしれない。しかしながら1980年代当時の旅行雑誌の写真や、映画とCMの映像にはグランドキャニオンへの脚色が濃厚に施されている事実がこの体験から理解できた。そしてその脚色された偶像には無いものが、現実のグランドキャニオンには確かに存在していたのだ。それは人知を超えた崇高さである。

そもそもグランドキャニオンの歴史は、コロラド川の浸食作用が今から400万年の時を遡って始まった辺りからだ。しかもその浸食によって露わになった地層には、数10億年前の生物の化石も含まれている。つまりこの大峡谷は、人類史が遥か遠く及ばない原始の生命体をも知っているのである。そしてその広大過ぎるほどの聖なる地形に最大級の敬意を払っていたのは、この周辺で生活していたネイティブアメリカンの先住民の人々であった。彼らは文明人ではなかったが、現代社会への啓示となる偉大な知恵を身につけている。

戦争や疫病といった災厄が蔓延する現代において、その多くは環境破壊も含めて人災が原因である。つまり人間がつくった問題によって、地球に暮らす全生命が大変な迷惑を被ってしまった。そして人間とてこの全生命の一員である以上、問題解決に努力するべきなのだ。また問題を起こしてしまったのが人間であるがゆえに、その問題を解決することが人間にできないはずがない。この未曾有の危機の時代に、農耕や遊牧などの文明を築けなかったネイティブアメリカンの人々の知恵は貴重な存在価値を有する。

「私たちが暮らす土地は、過去の先祖から受け継いだものではなく、未来の子孫から借りているものである」

この彼らの精神性から生まれた教訓こそがその知恵である。マヤやインカ、それにアステカといった農耕文明の帝国臣民ではなかった先住民の人々は、文字や貨幣とも無縁であり、土地を切り拓いて開発する術を持たないがゆえに、こうした知恵を持っているのだ。そしてこの知恵から発想すれば、戦争や環境破壊といった忌まわしい人災は、きっと防げるはずである。

グランドキャニオンの静謐は、征服や侵略といった愚行を英雄志向で誤魔化すことを許さない沈黙だ。そこを訪れると決して侵されることのない聖地にいる実感を覚えてしまうが、同時にその崇高な外側の世界にゆったり包まれていると、そのような聖地が内側の心の中にも存在することに気付かされる。そしてこれは個人的な発見になってしまうのだが、グランドキャニオンの風景は、レオナルド•ダ•ヴィンチが描いた最高傑作「モナ•リザ」の女性の肖像の背景に似ていることも最後に一言つけ加えておきたい。
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コスタリカとラテンアメリカ

2023-07-28 23:32:37 | 日記
前回のブログで、少しだけガルシア•マルケスのことを書いた。彼はコロンビアの作家でノーベル文学賞も受賞しているのだが、母国だけではなくラテンアメリカとも称される中南米の激動の歴史を、その独自の幻想的な小説世界に反映させている。そして中南米地域は宗教的にはキリスト教が主流ではあっても、新教のプロテスタントではなく、旧教のカトリックが大多数を占めている国ばかりである。しかもブラジルやカリブ海諸島の一部を除いた国々の公用語はスペイン語の為、アメリカ大陸でポルトガル語が公用語の国はブラジルのみで、カリブ海諸島もフランス語圏や英語圏を除けばあとはスペイン語圏である。

元々の先住民の言語は一見すると、中南米諸国では廃れてしまったようだが、そこは人間もまだまだ捨てたものではない。今回の写真画像は、コスタリカ産の豆を使用したドリップコーヒーである。アキアレスというのは豆を栽培した農園の名前で、興味深いのはこのアキアレスという言葉がスペイン語ではないことだ。「アキアレス」は先住民フエタル族の言葉で「川の間の土地」を意味する。このような先住民の言葉を名前に冠する形式は、意外と世界中で確認できる現象だ。日本でも北海道の地名には、アイヌ語が残っているものが多く、コスタリカを含めた中南米に限らず、アメリカ大陸全体で先住民由来の地名は多い。これはやはり侵略行為に対して、加害者が罪悪感を持っていることの証であり、反省の意味も十二分に込められているのではないか。

このコスタリカのアキアレス農園で栽培されたコーヒー豆の商品、少し割高ではあるものの、私が近畿圏で暮らしている為、ヒロコーヒーという大阪府か兵庫県の店舗に出向いて直に購入している。理由はこの農園の栽培のスキルが非常に高いからだ。ただ個人的にコスタリカのコーヒーは元々好みなので、このブログでも紹介した大阪のスバニョラというカフェで、旬な時期に紹介されている場合、そこで淹れて頂いて飲むコーヒーの方がずっと美味しい。

それはドリップコーヒーは自宅の環境で、自分がセッティングしなければならないから当然だ。要するにその過程では、優れた農園に素晴らしい栽培技術があっても、購入者の段取り次第となる。つまり熱湯の温度とか、注ぐ量や時間も、素人の自分の状況や事情に左右されてしまう。しかしながらそれでも、苦味よりも主張が強いその特徴的な酸味や、後味で感じられる甘味はしつこくなく絶妙なので、コスタリカのコーヒーは飲むことが多い。コーヒーに苦味よりも酸味を求めている人なら、アフリカ大陸のキリマンジャロのコーヒーと、アメリカ大陸のコスタリカのコーヒーを飲み比べると、コーヒーの世界の奥深さや多様性を味わえるだろう。キリマンジャロの酸味はすっきりしていて切れが鋭いが、コスタリカには果実のような甘味が含まれている。

コーヒー豆の発祥の地はアフリカ大陸のエチオピア辺りだが、現代ではもうアメリカ大陸もすっかりコーヒー豆の産地と化してしまった。そのアメリカ大陸も、地球上のその他大多数の地域と同様に、血生臭い愚行の歴史が山積している。15世紀末に大西洋を越えて現れた侵略者たちは、先住民にとっては迷惑至極な疫病神に等しかったが、優れた文明圏とも評されたアステカやインカも農耕を礎とした帝国であり、身分制や貧富の差はやはり厳しかったようだ。また帝国内部で紛争や内戦も起きていた。この為、侵略者たちを圧政からの解放者だと勘違いした被支配層もおり、こうした人々が洗脳されて反体制に転じたこともアステカやインカが崩壊した一因であった。 

そしてこの洗脳の過程で効果を発揮したのが、ローマ教皇庁から派遣された宣教師によるキリスト教の布教である。しかしやはりアステカやインカの滅亡の致命的な原因は、数では劣る侵略者側に、戦争の大陸と恐れられたヨーロッパで製造した銃に代表される強力な軍事技術が存在したからであろう。また余りにも遠く離れた場所に住んでいた人間が移動して接近してきた為、感染症による死者数も免疫がない分、甚大であったと思われる。つまり侵略者は武器や宗教だけではなく病気まで運んできたわけだ。

このようにして中南米は旧来の帝国による圧政から、もっと過酷な侵略者に支配された新しい圧政に取って代わられてしまう。しかも16世紀から17世紀にかけて、アメリカ大陸におけるスペイン語圏は、中南米のみならず北米の中西部辺りにまで広がっていく。またポルトガル語圏は広大なアマゾンの森林地帯を占有していった。そして侵略者たちは数世代に渡り植民地を開拓し暴利を貪りながら運営を続けていくのだが、所詮は植民地であり、ヨーロッパのスペイン帝国やポルトガル王国への上納を義務とする傀儡政権であった。

つまり新大陸に君臨した権威や権力の側にも、旧大陸の権威や権力に対するフラストレーションが溜まっていたといえる。ここから明確に把握できるのは、先住民や疲弊したその先住民の人口が減って、アフリカ大陸から奴隷貿易で連れて来られた黒人たち被支配層は、人権無視の状態で酷い重労働を強いられ、搾取の限りを尽くされる絶望的な境遇にあったことだ。つまり悲しいことに、いつの世も最大のフラストレーションは、最底辺で這いつくばっている民衆が溜め込んでいるのが現実である。

こうしたフラストレーションの蓄積が植民地からの独立戦争という形で爆発するのは、18世紀に北米の独立戦争でアメリカ合衆国が誕生したことと、その動きと連動するようにしてヨーロッパで起きたフランス革命が大きな契機になった。またこの頃になるとアメリカ大陸の植民地の支配者たちも、現地で出生した2世や3世以降が増えてきており、要はこうした人々が自然な流れで、独立戦争を主導していく展開になるのだ。アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ•ワシントンも母方の曾祖父がイングランドから入植してきた4代目である。

中南米の植民地の独立は19世紀になってからのことだが、最初の独立は領土の広いブラジルでもメキシコでもなく、黒人奴隷の反乱から拡大したハイチで起きた。ハイチはカリブ海に浮かんだ島だが、スペインやポルトガルと違ってフランスの植民地であった。ある意味でこの独立劇は近代以降の中南米の歴史を象徴している。それは国外の巨大勢力に翻弄されて国内が混乱しまくるというパターンだ。ハイチに限らず、中南米でフランス革命が実質的に大きな影響を及ぼしたのは、革命初期の自由と博愛と平等の精神を掲げた理念よりも、その理念を広げて啓蒙することを名目にして実利を狙ったナポレオン戦争である。軍事的天才ナポレオンが指揮した巨大な戦争で、ポルトガル王国は国土をフランスに征服されて王室が植民地のブラジルに避難し、スペイン帝国も大規模な侵攻を受けて強引な内政干渉さえされている。要はナポレオンのせいで中南米の植民地の親玉たちが弱体化し、独立の機運が高まったのだ。

ハイチの場合、植民地の親玉のフランス王室が革命で倒され、人権宣言まで出した革命政府の力で奴隷解放が実現するかと思いきや、フランス議会が植民地の奴隷制の廃止を宣言するのは、フランス革命が勃発した4年後のことである。そして革命の理念を掲げて、国王が居座るヨーロッパ諸国に大々的な戦争を仕掛けていたナポレオンの治世に、裏切りに遭う形で奴隷制が復活してしまう。結局、紆余曲折を経たハイチの独立は、皇帝に即位し独裁者となったナポレオンのフランス軍に対し反乱軍が勝利することで達成された。近代史において初の黒人の共和国誕生であり、ハイチ革命とよばれ、この偉業はその後にアメリカ合衆国の奴隷解放の見本にもなった。しかしこの新しい共和国政府は残念なことに、建国の父であるジャック1世がナポレオンに似た独裁者へと変貌し、建国2年後に暗殺されて国家は内戦状態に陥ってしまうのだ。

ハイチの独立から数年後、1810年代になるとベネズエラ、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、コロンビアがスペインから独立する。1820年代にはポルトガル王室が、ナポレオン戦争の終息したイベリア半島で国家再建を目指しヨーロッパへ舞い戻るとブラジルも独立した。それとほぼ同時期にメキシコ、ペルー、エクアドル、ボリビア、ウルグアイがスペインから独立しているが、興味深いのはグアテマラのスペイン総督府もスペインから独立を宣言し、その2年後に中央連邦アメリカ共和国という形で建国したことである。そしてこの共和国を構成していたのがグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカだ。

大西洋の彼方で暴走したナポレオン戦争の煽りを受けるような荒波にもまれながらも、中南米の植民地の国々は独立解放戦線に勝利していくわけだが、共和制国家として独立した後も、教会や地主の勢力が強く貧富の差は解消されなかった。また残念ながら産業の発展も遅れていた為、経済的な窮状を利用して人々を扇動するクーデターが発生したり、独裁政権が誕生するなどして、政情不安の国々が増えていく。つまりまだまだ民主主義への道のりは遠く険しかったといえる。特に北米の南北戦争のような大規模な内戦は無くとも、長期化する悪癖のような内戦に蝕まれていた国も多く、これはやはり海外から遠隔操作される植民地時代が3世紀も続いたことで、旧態依然としたヨーロッパ世界を復元していくような圧政に慣れてしまい、民主主義への移行を阻む傾向が、政治や文化も含めた社会構造に根付いてしまったのではないか。

中南米の近現代史で最も有名な出来事は、米ソ冷戦期における1959年のキューバ革命であろう。このフィデル•カストロやチェ•ゲバラが主導した革命は、アメリカ合衆国の裏庭でもあるカリブ海諸島で勃発した為、世界史的にも衝撃が大きかった。しかも革命の3年後には、ソ連の協力で核兵器の配備さえも計画して実現寸前までいくキューバ危機が発生する。この激動の3年間で、キューバは稀有な存在感を露出して中南米の主役に躍り出たようなものだが、キューバに限らず、中南米諸国は大半がスペイン語圏ではあっても、大なり小なり個々に固有の性質があるようにも思える。それは多分、地理的条件もあろうが、先住民の文化とヨーロッパの文化とアフリカの文化という3つの大きな要素に、その他のオセアニアやアジア、それに大西洋も太平洋も含めた海洋文化が混合して構成されたバランスが、それぞれの国で微妙に違う印象を受けるからだ。

ここからはコスタリカの話に絞っていきたい。コスタリカ共和国はアメリカ大陸のほぼ中央に位置し、赤道を挟んだコーヒーベルトの範囲に収まる地域である。要はコーヒーを栽培するには非常に適しているのだ。国土の面積は日本列島でいうと九州と四国を併せた程度であり、スペイン帝国に侵略されるまでは、先住民のアステカ帝国領であった。そして古代の紀元前9世紀頃の遺跡も発見されており、アステカ帝国に属する13世紀までは、神官などの支配層に統治された農耕社会であることがわかっている。こうした歴史的変遷は旧大陸と切り離れてはいても、人類の古代から中世にかけての農耕文明の基本的な道程をコスタリカも歩んでいたようだ。

そして大航海時代以降の中南米で暮らす人々の運命は、侵略者側の意向に大きく左右されていく。スペイン帝国政府におけるアメリカ大陸での最大の欲望の対象は農産物よりも金と銀であり、この頃に金銀を産出しなかった山間盆地のコスタリカは、気候が良く農業に適してはいても余り魅力がなかったらしい。それゆえに帝国主義の強大な権力からの介入は少なかったし、またそもそも中米地域を統括するグアテマラのスペイン総督府からの距離も遠かった。つまり多少なりとも、マシな圧政ではあったのかもしれない。

19世紀に入ると、先に述べた中央連邦アメリカ共和国を構成するコスタリカ州として、その一員になるのだが、この共和国はアメリカ合衆国をモデルにしている。つまり構成員のコスタリカもグアテマラもエルサルバドルもニカラグアもホンジュラスも州として共和国を構成していながら、州そのものの自律性が非常に高く、共和国の国家主権を共有しながらも独立した主体であり、私たちが暮らす日本の都道府県の実態と比べたら、州とはいえ独立した国と定義した方がわかりやすい。

そしてこの中央連邦アメリカ共和国も構成する5つの州が仲良く共存していれば良かったのだが、国家成立の1年後に早々と内戦が発生してしまう。この内戦の構図は、教会や地主の利権を保持したいグアテマラに多かった保守主義勢力と、利権を没収して改革したいエルサルバドルやホンジュラスの自由主義勢力との対立であった。初代大統領は自由主義派で改革路線を進めたのだが、そんな政府に対して保守主義派が猛烈に反発する。この内戦は20年近くも続き、その荒んだ様相は他の中南米諸国の内戦との相似形を感じさせるが、中央連邦アメリカ共和国が崩壊して内戦がやっとこさ終わった後、1848年にコスタリカは独立することになる。

ただ漸く独立に漕ぎ着けたコスタリカ共和国の歴史も、小国ながら苦難の連続であった。まず1850年代に隣国ニカラグアに奴隷制を復活させた好戦的な大統領が登場し、新しい帝国建設の野望さえ抱いて軍拡路線を進めた為、コスタリカを含めた周辺国の連合軍と戦争状態になってしまう。この戦争自体は2年足らずで終焉を迎えたが、人的資源の劣化や経済的損失の爪痕は大きく、回復には3年近くを要した。

その後1860年代にはアメリカ合衆国で南北戦争という暴力的大爆発があった。60万人を超える戦死者を出したこの内戦は北軍が勝利し、アメリカ合衆国政府が南部の巨大資本を呑み込んで、強固で統一的な国内市場の基盤を構築する。そしてその影響は、経済進出という形で中南米諸国にも波及しだすのだ。重工業化が一層促進されて、中南米からの原料や食糧の輸入は増加の一途を辿り、貿易のライバルである他の帝国主義諸国を圧倒していく。

コスタリカでは1870年代にはクーデターで新しい政権が誕生するのだが、皮肉なことにコーヒー産業が発展するのはこの時期からである。そして経済成長と共に新興富裕層が生まれ、彼らが少数で政府を牛耳るほどの力を持ってしまう。そんな非民主的な政権で1890年代にはコスタリカからの輸出の80%をコーヒーが占めるまでになった。このタイミングは注目すべきターニングポイントである。なぜなら時を同じくしてコーヒーの大量生産がアメリカ合衆国で始まっているからだ。これは世界初の成功例で、強力に工業化を進め、真空パックの技術や流通網を発達させて、一般家庭にもコーヒーを普及する道を開いた。アメリカンとよばれる濃さより薄さが特徴のコーヒーの登場である。恐らくアメリカンのコーヒー用に、コスタリカを含めた中南米諸国で産出されたコーヒー豆を、同じアメリカ大陸であることから流通コストも安くて済むアメリカ合衆国が、吸い込むように輸入していたことが容易に想像できる。

20世紀に入ると人類は2度の世界大戦を経験して凄惨な地獄を見たが、アメリカ大陸は世界大戦の戦場には殆どならなかった。しかし世界大戦の戦禍から遠く離れてはいても、また植民地時代から決別した独立国家の時代になってはいても、政権を掌握しているのは大地主や資本家、それに軍人たちであり、国民が民主主義社会に生きていたとは言い難い。そしてアメリカ合衆国の国益の拡大に寄与することで利権を手にする独裁的な軍事政権が増えていく。この為、革命思想に活路を見出す勢力も生まれて、戦後の米ソが露骨に東西対立した冷戦時代になるとキューバのように革命を実現したケースも出てきた。しかし概ね、中南米諸国は米ソという2つの超大国に翻弄されて疲弊するのが現実であり、この流れで国内も右派と左派に分断して抗争し、内戦状態になってしまうわけだが、コスタリカの場合は少し事情が違っていた。

コスタリカも第2次世界大戦が終わるまでは、他の中南米諸国と同様に、クーデターによる政権交代や隣国パナマとの戦争、さらに世界恐慌でコーヒー価格も低落し経済不況に陥ると、ファシズムに傾倒した右派政権が誕生したかと思えば、その数年後には左派の社会民主主義政権が誕生するという、かなり慌ただしく混乱した時代が続いた。しかし1948年の内戦を転機にして大きく社会が変化する。これは小国の歴史の1ページではあっても、人類の歴史において端倪すべからざる出来事であったかもしれない。

1948年は第2次世界大戦が終わってから3年の月日が経過している。そして広島と長崎に原子爆弾を投下された敗戦国の日本で、日本国憲法が成立し公布されたのが終戦翌年の1946年、さらにその翌年1947年に日本国憲法は施行される。ここで日本国憲法を取り上げたのは、実はコスタリカの憲法が、平和を希求するコンセプトにおいて、日本国憲法と十二分に共有できる内容だからだ。

1948年にコスタリカでは大統領選挙があった。結果は野党の候補が勝利したのだが、これに対して与党が選挙結果に無効の判断を下し、軍隊まで動員して反対勢力を鎮圧しようとした。これで内戦が勃発する。この内戦は6週間で野党側の反政府軍が勝利して終結するのだが、数千人規模の戦死者を出したことから、その悲惨な結果に対し、国民全体に真摯な反戦意識が生まれた。また第2次世界大戦後から数年しか経過しておらず、世界中の殆ど全ての人間に、もう戦争は沢山だ、真平御免だという反戦感情が脈々と息衝いていたはずである。そしてコスタリカの人々は、20世紀の記憶だけではなく、大航海時代以降に戦乱や搾取に塗れた数世紀に渡る悲しい歴史を踏まえた上で、今そこにある内戦の惨禍を直視し、戦争反対の意志と永久平和への願いを抱かざるを得なかった。 

「恒常的制度としての軍隊を禁止する。公共秩序の監視と維持のためには必要な警察隊を置く」

これはコスタリカ憲法の第12条に明記されている文言で、内戦の翌年1949年に制定された。日本国憲法の第9条と殆ど同じ内容である。

この平和憲法を携えてからの、日本とコスタリカの国際政治における、政府の対応にはかなりの差があったようだ。特にコスタリカの場合、日本よりも切迫して戦争に巻き込まれる危険と背中合わせだったにもかかわらず、平和憲法の理念を盾にして危機を乗り切った。海外派兵をしないことを明確に宣言しているし、30年も続いた中米紛争の渦中においても、1980年代にアメリカ合衆国大統領ロナルド•レーガンから再軍備を要請されてさえ「積極的•永世•非武装中立」の宣言を出して断っている。しかも2001年には12月1日が「軍隊廃止デー」に定められた。コスタリカは戦争が問題解決の手段だと信じている国々に囲まれた状態でも、断固として戦争に参加せずに紛争を解決する姿勢を貫いているのだ。また軍隊が廃止されたことで、軍事予算を社会福祉に充てている。

日本は世界で唯一の被爆国なのだし、本来ならば、人類の命運を握る世界中の政治家たちに対し、反戦や軍縮といった真摯なメッセージを最大級に届けることができるはずである。今年のG7が被爆地の広島で開催されたことは画期的ではあったが、要人たちを広島や長崎に招くまでもなく、国際外交の場で国防において軍備が本当に必要なのかどうかを問いかけるべきであろう。なぜなら第2次世界大戦で敗北した大日本帝国は軍備に依存し、国民生活を犠牲にしてまで軍拡を続けた軍事大国であった。また日本は被害者としての歴史的事実だけではなく、それと同時に加害者としての歴史的事実も潔く、明確に表明して伝えることが必要だ。それが無ければやはり説得力も弱い。

ここで少し切り口を変えて、日本とコスタリカの比較をしてみたい。国連機関に持続可能性開発ソリューションネットワークというものが存在するのだが、この機関では世界幸福度調査を実施して、その結果から世界各国の幸福度がランキングで表されている。幸福度は目には見えないものだが、アンケート形式により回答者から、自分自身の幸福度が0から10までの数値のどの段階にあるのかを答えてもらう形式で、そこで明らかになった数値に、GDP、社会保障、健康寿命、人生の選択における自由度、他者への寛容さ、国への信頼度の6つの項目を加味して判断する。

今年公開された最新のランキングでは、コスタリカは23位で中南米諸国の中では最上位である。一方、日本はというと47位でG7の参加国の中では最下位である。対照的な結果といえるが、アンケートの対象国が137カ国なので、それを踏まえると日本が幸福な国なのかどうかは怪しいところだ。この際、日本政府はコスタリカを見習って、軍事予算を削減してその分を社会福祉に充当してみてはどうか。コスタリカのコーヒーを飲みながら、ふとそんなことを希望観測的に考えてみた。
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村上春樹の「街とその不確かな壁」を読んで

2023-06-30 23:21:46 | 日記
今回の村上春樹の新作は、1冊で600ページ以上の大作である。そしてこの作品からは、コロナ禍とウクライナ戦争に触発されたことが微妙に察知できる。多分そうした影響が無ければ、やはりこの物語は生まれなかったのではないか。尤も作者自身は、20世紀に文学誌に発表した短編で、かつて出版されなかったものを焼き直したのだと述べている。しかもこのお蔵入りした当時の小説は、1985年にベストセラーになった「世界の終わりとハードボイルド•ワンダーランド」の原型でもあった。

ただそれでも40年ほどの時が経過し、ここ数年で大きな天災と人災に遭遇した人類の一員としての真摯な問いかけが、作家独自の視点から現代を映す鏡のようにして感じられた。既にメディアでの書評も含めて賛否両論が渦巻いているが、正直、個人的には数多い村上作品における最高峰だと申し上げたいくらいである。特に私自身「世界の終わりとハードボイルド•ワンダーランド」が、この作家の作品を多く読むきっかけになったこともあり、「街とその不確かな壁」の物語世界へはすんなりと没入できた。また「世界の終わりとハードボイルド•ワンダーランド」は、「世界の終わり」と「ハードボイルド•ワンダーランド」という2つの物語が並走して成立しているパラレルワールドであり、「街とその不確かな壁」は「世界の終わり」のその後が丹念に描かれている。

物語は3部構成になっており、主人公は語り手の「私」で、年齢は40代と思しき男性だ。第1部と第3部の彼が暮らす街には巨大な壁が歴然と佇立しているが、第2部では壁は主人公の記憶の中に在る。この辺り、実に村上春樹らしい異界なのだが、興味深いのは壁が人間社会において、漠然とではあっても、圧力の象徴になっている点だ。つまり外在的には組織に属する個人が、巨大な壁によって移動を制限され、選別されてしまう実態は、自由を奪い国民を支配する全体主義国家を想起させる。特に巨大な壁に囲まれてそこで暮らす第1部と第3部に登場する人々と特殊な家畜のような単角獣たちは、壁に対し従順であり、壁への不信が無い。ただし主人公を除いては。それゆえ私たち読者は、このような壁の存在に得体の知れない不条理な圧力を感じざるを得ない。また私たちが今現在、生きている地球上においてさえ、民主的な国家よりも非民主的な国家の方が多いことを鑑みると、空恐ろしくもなる。

そして第2部、巨大な壁の無い街では内在的に、登場人物たちの心に潜む壁に関し、読者は考察を余儀なくされる。そこでは当然のこと壁に対する見方は複合的であり複雑怪奇になってくる。たとえば人間社会におけるコミュニケーションにおいて、心の壁の影響力たるや計り知れないものだ。意識的であれ、無意識的であれ、心を閉ざすという状況が訪れた場合、そこには壁が立ちはだかっている。特に危険なのは国政を担う為政者が心に壁を作ってしまうと、そこからの意志決定は恐慌的な人災に及ぶ可能性さえあるからだ。実際、アメリカ合衆国大統領在任中にメキシコとの国境に壁を建設しだしたドナルド•トランプの心には、それを実行に移す前に移民への偏見が壁となって存在していたと思われる。またそもそも戦争を引き起こす為政者の心には、他者を排他的に削除する壁が堅固に聳えているといえるだろう。

物語の全編に渡りその背景となる舞台は、第1部、第2部、第3部を通して、自然が美しい日本の地方都市のようだが、この作家の作品に親しんでいる読者にとって、そこは懐かしかったり、居心地が良かったりする土地であり、安心してその情景を味わうことができる。そして第2部に主人公の前に現れるカフェを営む女性は、超越的な記憶力を有する博識者症候群の少年と共に、この2人は最重要人物であるのかもしれない。主人公には思春期からずっと心に決めて想い慕い続けている女性が存在し、彼女は謂わば物語のヒロインなのだが、同時に幻影か空想のような印象の人でもある。しかもこのヒロインを含めた他の人々が、幽霊のように希薄な佇まいで主人公と関わりながら、自然体で誠実に話を交わしている。また本物の幽霊までも現れて、主人公に良き助言をしてくる辺り、実に村上春樹らしい小説空間だ。

このカフェの店主の女性と、博識者症候群の少年の存在感は、そうした背景に溶け込んでいるような人々よりも、かなり輪郭がはっきりしている。そして彼女はガルシア•マルケスの小説の愛読者で、現実と幻想が混在し共生したようなその世界に惹かれると言う。ここでほんの少しガルシア•マルケスに関して述べておきたい。マルケスはコロンビアの作家で、20世紀に中南米文学が世界的に評価された頃に、その代表的な作家として注目され、1982年にノーベル文学賞を受賞している。しかしながらマルケス個人は、中南米という地域性や魔術的リアリズムとも評される表現だけでは解釈できないほど文学的才能が豊かだ。私はマルケスがノーベル文学賞を受賞して以降に、彼の存在を知った口だが、図書館で借りて読んだ「百年の孤独」にはいたく感動させられた。特に心に残った印象的シーンは、死んだ後も故郷の木に繋がれた状態で、家族の行末を案じる老爺に、生きている妻の老婆が悲嘆にくれ、亡き夫に縋りついている姿である。この老婆にとって幽霊の夫は、時空を超えて存在しており、彼女が絶望に直面した時に、妻の傍に寄り添うことで最大級の慰めになっている。そして妻の絶望は、立身出世を遂げた息子が内戦で虐殺を指揮した権力者になってしまったことによる。

このシーンに限らず、マルケスの小説には、幽霊が登場することが多い。村上春樹の新作の第2部でカフェを営む女性が指摘するのは「百年の孤独」ではなく「コレラ時代の愛」だが、この「コレラ時代の愛」にも幽霊は現れる。多分、彼女がマルケスの創造した物語に肯定的なのは、そこに理想を切り捨てられない優しさが残っているからだ。これは彼女の言葉尻や仕草から何となく伝わってくる。この第2部は巨大な壁が無い世界であり、私たちが身近に感じられる日本の地方都市なのだが、その分リアルに日本社会の問題点も浮き彫りになっている。そこでは彼女は少数派の異端者である為、疎外感や孤独を感じざるを得ない。

そしてこれは第2部から登場する謎の少年、人の生年月日から瞬時に、その人が何曜日に生まれたのかを答えられる博識者症候群の彼もまた同様であろう。ただこの少年が、カフェ店主の女性と明確に違うのは、今そこにある環境から決別し、別次元の環境への飛躍を目指しているところだ。不登校となり図書館に通って読んだ本を一言一句漏らさず、自分の記憶に貯蔵できるがゆえに、彼はその異能さから学校はおろか家庭でも孤立している。主人公はこの謎めいた少年との接点を持つことになるが、それは第1部と第3部の世界、つまり巨大な壁に囲まれた街の地図であった。ここで意外なのは、この少年が壁の佇立する別世界への逃亡を願っていることだ。その理由は、そこには本ではなく、夢を読める不可思議な図書館が存在するからである。

ただ主人公との会話の中で、少年は彼なりに壁の存在する街が理想郷ではないことを感知しており、民主主義的社会の第2部の世界から、全体主義的社会の第3部へ、ある特別な方法で移動することで、全体主義的社会を変革させる強い意志を持っているように思える。それは彼が主人公へ、信じることの大切さを訴えていることから理解できる。またこの謎の少年の姿には、現実に私たちが遭遇している悪化した世界情勢に対してノーを突きつけだした若者たちに共感し共鳴するイメージもあるようだ。そして現在の気候変動や疫病それに戦争といった重大な諸問題を、人類が解決し克服できることを信じようという作家からのメッセージのようにも私は感じた。冒頭でも述べたが、この「街とその不確かな壁」は、ひよっとすると村上春樹の最高峰なのかもしれない。大変お薦めの作品である。
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