日々是好日

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あれこれ雑記

蘭学事始

2018-01-31 13:51:50 | 日記

以前杉田玄白先生の耄耋独語と題してブログを書きました。以来蘭学事始を読んでみようと思ってはいました。昨日図書館の科学関係の棚に「すらすら読める蘭学事始 酒井シヅ先生著」がありました。思いがけない見つけものでした。すらすら読めるが大事です。開いてみますと、活字は大きく、しかも下段には懇切な現代語訳あります。使い古しの頭脳には全く重宝でした。
さて、タ―ヘル・アナトミアにある五臓六腑の腑分けが始まります。老輩はこれらの経緯が詳述されであろうことが幾分本書を敬遠していた理由でした。
近ごろのテレビドラマには、刑事物・病院物が多いく、しかもリアルな影像化は臆病者の老輩には不向きです。それはさて置き、江戸時代の本格的医術の再出発と外来語探求が実学に併せて始まったのは、よかったのではなかろうかと思いました。

ふれあい文化センター

2018-01-29 13:43:24 | 日記

市内国府に「ふれあい文化センタ―」があります。「まほろばバス」で行けば、行けるのですが、老輩には多少躊躇するのですが、時には伺います。バスの回数が増えれば、と思うのですが、利便な自家用車が今後とも増えれば望めないでしょう。
昨年末ごろ筑紫美術協会展がありました。日和もよしと出かけました。朝堂先生の本物と見紛うばかりの木彫目刺しを拝見しました。そして市制施行30周年記念の「太宰府人物史」の購入しました。執筆は、重松先生外各々の分野で健筆が振るっておられます。
筑紫大宰栗隅王に始まり、西高辻信貞宮司迠(全て敬称は略させて戴きます)の略歴と功績が述べられています。
面白いのは、昭和30年3 月に大宰府町と水城村が合併によって成立した当時の経緯です。合併以降町の首長は当該地域内の出身が選出されていますが、合併直後の町長森田久だけは異色の経歴を有しています。森田は朝倉郡夜須村篠隈の旧家の出身、以下の経歴は省略します。往時を知る人の話によれば、水城村・大宰府町の一方から町長が選出されることとなれば、両地区間に軋轢が生じることが懸念され、外部から人物が町長になったらしいのです。森田は二期八年に亘り町政に当たり昭和三八年に町町を退いておられます。
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土竜三十三年

2018-01-25 20:51:36 | 日記

「トンネルネットワーク―おもしろモグラ学手塚甫先生著」という本ががあります。実は「奇談雑史宮負定雄著」を読んでいたら、モグラのような地下生活三十三年という半日閑話を基にした話が有るのを知りました。
信州浅間ケ嶽辺に住むお百姓、自宅の井戸を掘ったが、二丈以上も掘ったけれど水は出ず屋根瓦の二,三枚出てきたのみ。更に二丈余り深く掘ったけれども水は出ません。このように地下に瓦があるのは奇っ怪です。更に掘り進みますと、屋根に掘り当てました。その屋根を崩して見れば、奥の居間は暗くよくは見え難い。しかし洞穴のようで、なかには人影があります。松明の灯りよくよく見れば、歳ころ五,六拾の人が二人がいました。
出会った二人に子細を聞きますと「先年浅間焼けの災難に土蔵を住居としました。六人一同が山崩れで出ることが出られません。そこで四人はそれぞれ横穴を開けなどしました。しかしなかなかに力及ばず、遂には亡くなりました。
私ら二人は蔵に積置いた米三千俵、酒三千樽を飲み干して、その上で天命を待うと思っておりました。今日貴方各々にお合いしたのは、生涯の大慶です。数えてみれば、三十三年に当たります。
そこで上へ上げようとしますが、直ぐにも上がれば風に当たり死ぬやも知れぬと言う。そこでまずは穴を大きくし、食物をあてがい置くが善かろうと言う事になりました。
処の代官を知らない、或いは風説であったかも知れませんね。これは多分大田南畝の意見でしょう。


源氏物語

2018-01-24 13:38:41 | 日記

何処の本屋さんも店頭近くには文庫本が処狭しと売れ口を待って居ます。ところが大手の出版社の社長さんは図書館が文庫本を買い入れないでくれと、妙な苦情を口外されています。需要と供給に些か反した口舌ですね。
岩波書店ばかりか角川も筑摩も同様、以前だったら苦学生の手には届かない書籍が文庫本で容易に手にはいります。勿論高価な専門書があるのは自明です。
源氏物語をいつかは読んで見ようと柄にも無く思っていました。先日岩波の文庫本の棚に「原文で読む千年の物語」として有りました。そこで、レジで並びました。物語は、索引を含めて九冊有ります。帰りの電車で一冊目を拾い読みしましたが、これはちょっと分量が難儀だなと思いました。
近くのスーパーの出入り口のあたりに本屋さんが有ります。
二・三日後文庫本の棚に「源氏物語を知っていますか 阿刀田高先生著」が有りました。これこれです。今更根を詰めることもあるまい、しかも阿刀田先生はお話の捌きが上手だしと、現在はそれに乗り換え読んでおります。

沙弥満生

2018-01-21 15:03:38 | 日記
沙弥満生
福岡からの道路は、特に休祭は自動車が連なっています。昨日は薄曇りの日和でしたが、暖かいせいか戒壇院・観世音寺へのお詣りのかたを多く見られました。
戒壇院の境内に、沙弥満生の歌碑があります。 
 不知火の筑紫の綿は身につけて
 いまだは着ねど暖かに見ゆ
在俗の時は、笠朝臣麿呂従五位下、美濃守として良吏の聞こえがあり、和銅七年の木曽路開通の功によって封戸七〇戸、田六町を賜わりました。元明天皇の御不浄に際して、上皇のために僧満誓となりました。養老七年に大宰府に観世音寺を造る長官となります。天平初年まで筑紫にいたそうです(万葉集事典)。
  ぬばたまの黒髪変り白髪ても
  痛き恋には遭ふ時ありけり
痛き恋にはを、古今東西変わらぬものだ、との飛び上がった思い違いをしていました。
しかし、都に帰っての大納言大伴卿返歌は
 ここにありて筑紫や何処
 白雲のたなびく山の方にしあるらし
と一層の郷愁誘うのみでした。
沙弥満生では、海辺に住んだ者として次の一首が好きですね。
 世間を何に譬へむ朝びらき
 漕ぎ去にし船の跡なきがごと