尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

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「天保七・八年一揆・打ちこわし」 はじまりの予感

2016-11-17 13:35:16 | 

 前回(11/10)は、天保四年(一八三三)の「巳年のけかち」と呼ばれる大凶作を原因とする「天保四・五年一揆・打ちこわし」の二つの政治史的意義を学びました。一つは一揆・打ちこわしによる全く正当な低価格米要求が、諸藩の穀留政策やこれに便乗した米商人によって米穀流通における停滞現象を招き、回り回って全国的な米価の暴騰を招いたことでした。二つは米価暴騰の全国的波及の主因が諸藩の殖産政策にあったことを明らかにしたことです。これによって他の諸物価をもつり上げ、いくつかの藩では殖産政策が撤廃に追い込まれました。私は、天保四・五年の一揆・打ちこわしが、諸藩ばかりか幕府の政治改革をうながす運動であったことをその政治史的意義だと受け取りました。

 さて、今回は天保前半期の一揆・打ちこわしの、残りの一半を構成する「天保七・八年一揆・打ちこわし」の政治史的意義を学びます。以下の引用は、天保五年夏の作付けの話からはじまります。この年はこれまで見てきた「天保四・五年の一揆・打ちこわし」の話と重なるのではと思われるかもしれませんが、この場合は天保五年の二月までに起きた一揆・打ちこわしについて論じていましたので、天保五年は重なりません。一揆・打ちこわしが、その年の凶作に淵源をもっていることもあるでしょうが、大抵は翌年にかけて一揆・打ちこわしが発生し、全国的に波及する場合にもタイムラグを考慮しなければならないようです。今回はポイントとなる年表記に下線を引き、混同を防ぎたいと思います。

 

天保七・八年一揆・打ちこわしの政治史的意義

 天保五年(一八三四)の夏は、平年並に近い気象に戻った。しかし、飢饉と領主の対応の不備から生まれた被害は甚大で、とくに、農業生産をはじめその他の諸産業に多大な影響を及ぼすこととなった。そのため、能登七尾町近郊の中挟村百姓が、この年に『久宝元年』(浅香年木『北陸の風土と歴史』)という私年号をつけ、豊作を祈願したにもかかわらず、実際は各地で「去巳(去る巳年)の凶作にて、悪食の上、着物薄く寒気引込候ゆえ、去暮(天保四年暮)より疫癘(エキレイ:疫病)流行」(『大町念仏講帳』)という、粗食などによる流行病からの病死者増大による労働力不足が、「手入れ行届き、こやし入候田は豊作に候得共、夫は十が一もこれなき程の儀、実に残念之事に候」(同)といわれるほど農耕に大打撃を与え、「自然人勢弱まり、田畑耕耘(コウウン:耘は雑草除去の意)届かざる者多し」(『飢饉懐覚録』)とみすみす不作にしてしまったというのが、各地の状況であった。そして、食糧を得るのにせいいっぱいであった百姓には、質入れしていた田畑を質流れにせざるをえなくなった者が続出していたので、世相は依然、深刻であった。そのうえ、翌天保六年から七年にかけて、奥羽・関東両地方を中心にふたたび異常気象に見舞われ、「七年出来(デキ)秋もまたずして」凶作は歴然たるものになった。この「巳年のけかち」に劣らない凶作の連続は、政情をさらに深刻なものにした。

 しかし今度は、「秋田候ハ此前ノ凶作ニコリテ春コロヨリ夏ヘカケ大ニ米ヲカヒコミタリ。ソレユエ国サワガズ」(『三川雑記』)とか、「米沢ハ巳年ノ凶作(巳年のけかち:天保四年)ヨリ毎年米タクハヘテ、今年ニテハ大ニ蓄アリ。タトヒ今年明年トモ皆無ニテモ人ヲコロサヌトゾ」(同)といわれたように、奥羽の諸藩は、「巳年のけかち」の教訓から早くより凶作に備え、とくに積極的な穀留(米穀確保)を推進した。このような迅速な対応策を打ち出した主な理由は、諸藩内において、一揆・打ちこわしが続発する危険性を、ともかく抑えることにあったのはいうまでもない。しかし実際は、秋田や米沢などのいくつかの藩以外はすぐさま「ソノ外ハ油断シテ蓄(タクワエ)ナケレバ必今年は又々死人アルベシ」(同)という状況におちいったので、各地で一揆・打ちこわしが激発するにいたった。そして各地で、「乱の萌(キザシ)あるべき勢」とか「一揆ナドサハゲバ」といわれる状況が醸成されるや、豊作であった九州・四国の諸藩にまで「世間の様子を聞きて、他邦へ米を出す事はなく、その国々にてことごとく津留(ツドメ:領内港での移出入禁止措置)する由なれば」(『浮世の有様』)と穀留現象が波及し、ついには「穀物は、日本国中大津留なり」(『野田家日記』)という状態に立ちいたった。

 この結果は、ほかでもなく、これらの地帯からの廻米などの流出米に消費量の大半を依存していた江戸・大坂の町民に多大な影響を与えただけでなく、その江戸・大坂を通して食糧を確保していた周辺の在方町や宿場の住民にも多大な影響を与えずにはおかなかった。とくに、幕府が面子にかけて江戸・大坂での打ちこわしを阻止するために命じた強力な穀留による都市内人民の食糧を確保策が実施されるや、周辺諸都市は、たとえば「市中続きの在領福島・北野・曾根崎新地・難波新地などの在丁等は、市中よりは売らず、在々よりは出さる事ゆえ、何(イズ)れも米の手当難しく」(『浮世の有様』)と苦境に立たされた。そして、さらに両都市に近い宿場町、また他領米の購入に多くを頼っていた特産物の生産地帯は、天保四年(一八三三:巳年のけかち)のときにもまして、米価の暴騰と特産物需要の減退による生産停滞から生ずる収入減という二重の圧迫の下で呻吟(シンギン)することになった。たとえば、上州桐生の周辺では、「桐生近辺機織渡世ノ者大半休ミ、織女十一月三十日ニ暇ヲ出ス、絹類不捌織工別シテ困ム」(『赤城神社神官年代記』)という状況があり、武州八王子周辺でも、「諸色高直(値)也、蚕一流半毛織もの至て下直(値)に相成、織ちん弐三百位也、誠に人々難渋に暮し候」(『八王子市史』附編)と、とくに製糸・織物などの農村工業地域の農民層の生活を圧迫したのであった。

 そして、この停滞現象が長引くと、今度は都市住民の生活を圧迫することになった。つまり、江戸では「諸色直(値)段ノボリテ酒ハ一升五百文、油ハ五百八十文となる。炭モアガリ一切上ラザルハナシ。麦モ四合百文也。今ニテ第一ヤスキハ米也」(『三川雑記』)と諸物価高騰現象となってはねかえってきたので、結局、ふたたび住民生活を圧迫したのであった。しかも、この冬まで米価暴騰のために江戸を離れ、「イズレモ田舎ヘ引コムベシ。サレバ江戸ノ人減ズベキナリ」(同)といった現象が、「第一ヤスキハ米也」となると、今度は「近年ハヲビタダシク田舎ヨリ江ヘ出カクル也」(同)と人口の逆流現象となって流入人口が増したのであった。かれらは「江戸人ニテサエ世ワタリ辛キ時節ナルニ新ニ田舎ヨリ来テハ口ヲヤシナフ事デキガタク、ソレユヘ、イロイロノヒガ事(ヒガゴト:心得ちがい)ヲシテ富ノ世話シ、或ハ御ハナシトリ次ナドシテ正直ノ世ワタリハセヌ也」(同)というきびしい状況下に置かれたので、社会不安を醸成する原因となり、都市生活者全体を圧迫したのであった。≫(青木美智男『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九 二四〇~三頁)

 

 「天保四・五年の一揆・打ちこわし」が政治史的にどんな意義があろうとも、凶作によって米価が高騰することの根本矛盾を解決しないことには、同じことは凶作が続く限り発生します。しかし、困窮する百姓や都市民に米を安く提供するには、ともかく米を確保しなければなりません。互いに米を確保する行動に出れば、流通における停滞現象が起き長引くと米価だけでなく他の生活必需品の価格も暴騰するという矛盾は、気候的に良好な年にも発生するという事実が衝撃的です。前年の凶作が多くの労働力をも破壊することによって、良好な気候的条件を満たすことが出来ない事態が天保五年の夏以降に起きたことがわかります。

 衝撃はこれにとどまりません。幕府が面子にかけて江戸・大坂における打ちこわしを未然に防ごうとして、江戸・大坂という大都市の困窮住民に対する救援のための米確保策は、大都市を通して米を買っていたその周辺の在方町や宿場の住民にも多大な影響を与えずにはおかなかったのです。なぜならば、もちろん米は村方からは入ってこないし、大都市住民ではないゆえに幕府の恩恵にもあずかれない事態になっていたからです。米ばかりではなく他品種の価格が暴騰し困窮に陥る事態は、職種を超えてより広範に拡がってゆくだろうという予感がやってきました。


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