尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

ハラのものがたり 『かもめ食堂』

2013-02-08 08:37:05 | 

 「ちむぐりさ(肝苦りさ)」をネットで調べていたら、最近メジャーデビューした上間綾乃さん(沖縄出身)の動画がありました。昔懐かしいフォーククルセダーズの「悲しくてやりきれない」を沖縄の言葉で唄っていたのです。その歌詞のさびというのでしょうか、「悲しくて 悲しくて とてもやりきれない・・・・」とあるところで、「ちむぐりさ ちむぐりさ・・・・」と唄う、その言葉が強く心に残りました。というのも、「ちむぐりさ」と聴いて即座にハラにある感情を思い起こすことのできる人にとっては、ずっとよい言葉にちがいありません。が、それを知ったばかりの私にとっても、わかりやすい「悲しくて」という標準語より、その「自分にだけ通じればいい」という内臓的・沈黙的な性格が伝わってきて印象が深かったからだと思います。

 言葉を換えてみれば、「ハラ(内臓)の言葉」は意味が通じなくてもなぜか伝わってしまう、という小さな驚きです。そこで思い出したことがあります、ずっと若い頃この歌を口ずさむとき、「悲しくて悲しくて」という言葉には感情が込めにくくて抵抗があったことです。これに比べ出だしの「胸にしみる 空のかがやき」はとても気に入っていました。「胸にしみる」という言葉が気分、いやハラに合っていたんです。もう一つ思い出したのは、荻上直子監督の映画『かもめ食堂』(2004)です。

 初めて映画『かもめ食堂』は見たときは、あとに何とも言えない心地よさが残りました。そのあと続けて二回ほど見たのは、「心地よさ」の秘密が気になっていたからだと思えます。その秘密とは、この映画がハラ(広義の腹)をめぐる物語であったことです。今回はその気づきについて綴ってみます。

 主人公のサチエ(小林聡美)は、おにぎりをメインメニューとした食堂をフィンランドのヘルシンキに開店します。そこに地元の友だちのいない日本オタクの青年、日本で何か悲しい出来事があったと思われるミドリ(片桐はいり)、両親の介護に20年携わったマサコ(もたいまさこ)、夫に家出され飲んだくれになったフィンランド婦人、そして以前「かもめ食堂」の場所にカフェを開いていたフィンランド男性、彼も妻と娘に去られたようです。つまりこの作品は全体としていうならば、なんらかの社会的・家庭的な場で躓き・うまくいっていない・それだけに内面的な人間が「かもめ食堂」にやってきて、ごく当たり前の出来事をへて癒しあるいは自己修復を得てゆく物語だということが出来ます。自己修復の物語といっても、大きなものではなく誰でもが思い当たるような暮らしの一コマに関わりながら、以前よりも少し違った自分に変わってゆく、そういう小さな物語だといえます。ですから、ぼんやり眺めていてもそれなりの心地よさが得られる作品ですが、物語の進行に添って「なんで?」とこだわってみると、いくつも謎が出てきて謎ときに興味の尽きない作品になっています。そこで謎ときのキィワードは何かと問われれば、それは「ハラ」なのだと考えたいのです。いいかえれば、さまざまに傷ついた人間たちの修復物語が大きな一つの山となって表現されているのでなく、物語自体が準平原のようななだらかな山なのです。それだけにのぼりやすく清々しいイメージをのこす魅力的な作品になっています。

 謎の一つは、かもめ食堂そのもです。映画は、ヘルシンキの港のカモメのいる風景をバックに、主人公のサチエの独白から始まってゆきます。───ヘルシンキのカモメはころころと太っていますが、これは日本で両親と暮らしていたときの飼い猫に似ています。ころころと太った存在が美味しそうにごはんを食べるのを見るのが好きだというので、「かもめ食堂」です。でも、店は開店して1ヶ月にもなるのにだれも客がきません。ときおり外側から覗くのはフィンランドの太ったおばさんたちだけです。そんなサチエは閉店後でしょうかプールにかよっています。そこは天井が高い教会のような内部になっていて、まるで胎内(ハラ)のようなのです。ここでのんびり泳いでいる姿は胎児のようです。でもサチエの心(ハラ)では「カーネーション」(作詞・作曲 井上陽水)が口ずさまれています。カーネーションは子供が母に贈る代表的な花です。「カーネーション お花の中では カーネーション いちばん好きな花」という歌詞は、好きで始めた店だけど客がさっぱり来ないので「なんとかならないかしら」といった程度の願いのように聞こえます。教会に似た胎内のようなプールであれば、亡くなった母への祈りの舞台としては申し分ないというところでしょう。

 でもついに客がやってきます。アニメに関心のある日本オタクの青年・トンミです。日本語のできる彼は「ガッチャマン」の歌詞を教えてくれといいます。全部唄えなかったサチエは、書店に出かけますが、手がかりになるような本はみつかりません。そこで出会うのがミドリです。彼女はすらすらと歌詞を書いてくれます。ミドリはなぜフィンランドにきたのか。どこか遠くに行ってやろうと思い、出鱈目に地図を指さしたらそこがフィンランドだったといいます。印象的なのは「行ってやらなきゃ(フィンランドが)かわいそうでしょ」というセリフです。教えてもらった御礼にサチエは特に予定のないミドリを自分のアパートに泊まるように提案します。そこで出されたサチエの作った食事のごはんを口にしたとたんに彼女は涙ぐんでしまうのです。この映画の終わり近くでも「おにぎり」の話の最中でもう一回ミドリが涙ぐんでしまう場面があるのですが、ミドリは社会的にはバリバリ仕事をしてきた女性のようですが、どんな悲しいことがあったかは作品で語られておらず、私にもまだ解けてはいません。ただ、サチエの作るごはんやおにぎりに反応しているところみると、サチエを母のように見ているのではないかとも思えます。(あーあ、ダメですね。また、だらだらと書いてしまいそうです。情報が多いときはポイントを絞って書かなければならないのに・・・・明日出直します。続)

 

 


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