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「漢口紀行」 山田勝治 (『飲江三種』より)

2020年08月30日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

   

 第一輯 禹域鴻爪錄 (紀行詩紀通信) 〔下は、その一部〕

 漢口紀行 〔下は、その一部〕

 明治卅五年十二月廿六日、漢口の遊を試みぬ。〔以下省略〕 
 四日〔明治三十六年一月四日〕 武昌に遊ぶ。武昌は春秋楚の地、秦の南郡なり。隋には江夏郡を廢し卾州を置く。唐初武昌軍節度使を置き、牛僧孺をして帥たらしめ、呉の故趾により城を築く。元の武昌路湖廣行省治たり。明には武昌府と云ひ、湖廣布政使治たり。現今湖廣總督、同巡撫、並に此に治す。山に依り湖を阻て、江漢を扼束し、呉楚を襟帶にす。所謂呉楚の交、南北の會たり。蛇山、本名を黄鶴山と云ふ。府の中央を縱斷し、其の江に突出する所を黄鶴樓の遺趾となす。此日小舟を漢水の滸に雇ひ、江を渡りて黄鶴樓下に至りて舟を棄て、漢陽門の内側より右折し、石階を登りて進めば、樓宇半は廢滅、半は荒壊に委し、飛仙雲鶴は因より尋ぬべくもなく、唐宋名賢の詩賦、只能く人心を嚮往せしむるのみ。樓を下り江に沿ひて遡れば即ち紡績場にして、黒煙天を突き、一見其盛を知る。麻布局、織布局、操糸局あり。〔中略〕 
 銅錢局を出で、蛇山の麓一場の空地を過ぐれば、即ち農務学堂有り。張之洞請聘の本邦文武教官の舎宅數棟此に設けらる。構造は張の用意により、日本流を模擬せしものにして、屋壁等は悉く支那臭味を脱する能はざる所、日本障子を鎖せるは亦一興なりき。教官吉田〔※吉田永二郎〕氏を訪ふ。學堂は休業中にて之を見ずして止みぬ。只学堂の内幕を聞くに、支那官吏の横着なる、學堂の經費を中 し、甚しきは生徒を定額より減少し、其支給の官費を私するなど、言語に絶するの行を爲し、學堂の成績甚だ擧らずと云ふ。豈に驚かざる可けんや。兎に角武昌は張之洞の治下にて、教育は頗る盛なり。武備學堂、將辦學堂、農務學堂、師範學堂、兩湖書院、自強學堂等、其主なる者なり。武備學堂には獨逸教官を聘し、餘は本邦人を聘用す。農務學堂は今年七月第一回卒業生を出すと云ふ。

第二輯 詩 〔下は、その一部〕

     湖北閲操有感三首
 練武森嚴士馬精。堂堂豼虎擁蜺旌。邊塵不動海波肅。端賴神威草木兵。
 灝気天高牧馬肥。荊南喜見壯兵威。王師神武容民道。勿使鄰封脱範圍。
 連合難除秦勢惡。自強誰策九州同。山河寸土皆洪璧。偏在神兵守護中。
 
 上の写真と文・詩は、大正六年十月三十日再版 の『飲江三種』 飲江 山田勝治遺稿 江陵義塾 にあるもの。 
 なお、その 例言八則 によれば、文は「著者遊支の始め出身縣下の新聞に寄書せるものを輯錄」したもの、詩は「著者在支中に新聞又は雜誌等に登載した」ものであるという。

 ※吉田永二郎 

近代日中関係研究会 編集 日中問題重要関係資料集 第三巻 『近代日中関係史料 第Ⅱ集』 龍渓書舎 の 史料1 中国政府傭聘日本人人名表(一九〇三~一九一二)より其名がわかる。



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