蔵書目録

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『故汪榮寶先生追悼誌』 (1933)

2019年12月12日 | 清国・民国留日学生 2 著作、出版物、劇

 

 前中華民国駐日公使
  故汪榮寶先生追悼誌

〔口絵写真〕

    

 ・追悼会式場
 ・追悼晩餐会 発起人 床次竹二郎氏追悼の辞を述ぶ
 ・追悼晩餐会 令嗣汪延熙先生謝辞
 ・追悼晩餐会 中華民国公使蒋作賓先生挨拶並に謝辞

 前中華民国駐日公使
  故汪榮寶先生追悼会


 昭和八年七月前中華民国駐日公使故汪榮寶先生北平にありて突如病没せられたるの報に接し、故人の人格其両国々交に尽されたる功績を想ひ、転た哀悼の念切なるものあり、九月に入り有志協議を重ね、東京丸の内日本工業倶楽部を会場とし追悼会をも催ふす事となり、故人生前縁故浅からざる諸氏に発起人としての賛同を求め十月十八日を其の期日と定めたり。
 当日は来賓として令嗣現駐伊中華民国公使汪延熙氏の遥々北平より、来会せられたるあり、在京留学中の遺族親戚及駐日公使蒋作賓氏並に公使館員一同も来会せられたり。
 会場は工業倶楽部三階の全部を之に充て向って左側の一室には鯨幕を張り廻して正面に壇をしつらへ故人の近影を安置し。其両側に花を供へ香を焚き別に中国公使、留日学生監督署、永井拓相、其他有志より贈られたる花輪供物を飾り、又別室には故人の友人知己より持ち寄られたる遺墨を陳列して、其の学徳を偲ぶよすがとなせり。
 斯くて定刻前より来会者参集順次焼香をなせるが廣田外相。永井拓相、安達国同総裁の諸氏は支障ありて晩餐会には出席されざりしも、親しく焼香拝礼の上遺族諸氏と慇懃に挨拶を交され退席せられたり。
 午後六時より晩餐の卓は開かれデザートに入るや司会者白岩龍平氏起ちて北平より来会せられたる令嗣汪延熙氏、在京留学中の四男汪績熙氏五男汪重熙氏次女汪至熙嬢女婿鄭壽恩氏始め、諸氏を順次に紹介し将来永く遺族に厚誼を與へられん事を懇嘱し又恰も旅行中にて当日出席不可能なりし、在京都の清浦伯爵よりの追悼電信を披露し終りて、発起人総代として、床次竹二郎氏追悼の辞を述べ、次で令嗣汪延熙氏遺族を代表して懇篤なる謝辞あり令息汪績熙氏之を流暢なる日本語に通訳し、次に正木直彦氏起ちて美術上より故人に関する追憶談あり、続て中国公使蒋作賓氏の懇篤なる追悼及謝辞あり、参事官丁紹伋氏之を通訳し、最後に白岩氏閉会の挨拶を述べて食卓を閉ぢ、一同別室にて遺族及公使館側来賓と追憶談を交へ、九時過散会せり、卓上の演述は別記の通りにして、此夕の会合は一同をして髣髴として故人の謦咳に接せしめ、其風標を慕はしむるに足るものありたり。

 故汪榮寶先生略歴

 汪榮寶先生、字は袞父、太玄と号す、江蘇省呉県(蘇州)の人、天資聡明にして九歳経書を読み文辞に巧なり、十五歳邑校に入り嶄然頭角を顕はし、後南菁書院に転じ大儒黄元同に師事し章句訓詁の学及主として公羊春秋及三家詩を治め文は好んで楊子雲を誦し法言を読みて箋記を作る。
 光緒二十三年(我明治三十年)呉県の抜貢生に挙げられ、翌年朝考を経て七品小京官となる、二十七年(我明治三十四年)日本に来り早稲田大学及慶應義塾に学び、政治法律及史学を修め、帰国後京師大学堂教習となり、次いで巡警部主事に転じ更に民生部参事となり、清廷の官制草案多く先生の手に成る、光緒三十四年(我明治四十一年)民政部右参議となり、宣統二年資政院の開設に当り議員に勅選せらる、同三年(我明治四十四年)武英殿に於て憲法を起草し、未だ畢らざるに革命起る、民国元年(我大正元年)臨時参議院議員に選挙せられ三年春特命全権公使に任じ、白耳義駐箚を命ぜられ、七年瑞西に転じ、公務の余暇を以て音韻及文字の学を研究し、著述あり、発明する所多し、十一年日本に転じ、東京に駐箚すること十年の久しきに至る、其の間日華両国の邦交親善に尽力尠からざるのみならず、博く学者文人と交り、又書画を嗜み、日華聯合展覧会開催を斡旋し、斯界に貢献多く、名声籍甚たること往年君の叔父汪鳳藻君在京当時の如く、文化の連絡と国民の融合に裨益すること亦頗る大なり。
 二十年(我昭和六年)秋帰国の後官を辞し、北平に寓居し、力を読書著作に専らにし、曩に作る所の法言疏を補訂して法言新疏を作り、本年六月三十日に至り漸く完成す、七月二日俄に疾作り、北平協和医院に入り、十八日嗑焉として逝く、享年五十有六、君才学兼備詩文音韻訓詁の学を以て声誉一時に馳せ、余技は書及篆刻に渉り兼ねて日仏両国語を善くし訳者を用ひずして樽俎の間に折衝す。

 挨拶並に追悼の辞 発起人総代 床次竹二郎 〔下は、その一部〕

私共が故人に関して最も深い印象の存しまするのは、先生が我国に於て博く学者、文人と交り、書画を嗜み、美術を愛し、屡々日華聯合展覧会の開催等に斡旋せられて單 ひと り両国の文化的聯繋に盡瘁せられたのみならず、実に東洋文化の発揚に向って多大の貢献を致されて居るのであります。是は故人が学者の家に生れ、少年時代既に経書を読破し、進んで東洋学の蘊奥を究めて、学者として夙に大儒の位地に在られたと同時に、其の明朗なる人格、典雅なる趣味極めて人好きのする性格と円満なる社交等が、深く我国各界の人士に愛好され親しむべき印象を残されて居るのであると、信ずるのであります。

 遺族謝辞 令嗣(現駐伊代理公使)汪延熙先生

 追悼の辞 正木直彦氏 〔下は、その一部〕

 汪公使は豫て両国の親交は、美術の窓からして相通ずるものであると云ふやうな考を持って居られ此ことに付ては大に努力すると云ふことでありました。それで我国に於きましては清浦伯を会長に汪公使を名誉会長と致しまして、民国の大家諸先生と我国の美術家を会員として、東邦絵画協会と云ふものを組織致しました。故人は此ことに就きましては大層御尽力になりまして、御援助下されたのでありますが、御援助と申すよりも寧ろ御自身の本務がこれである。此の事柄は自分の仕事の最も重大なものであると云ふやうに御考へになって居るかの如くに見受けられたのであります。其のお世話の行届きましたことは実に感激に堪へなかった所であります。此の東邦絵画協会の創立に就きまして両国の間に御尽力を下さいました為に誠に万事円滑に此の仕事が運びました。さうして日本から中国に参りまして聯合の展覧会を開き、又中国からして日本へ名品を齎して日華展覧会を開いたと云ふことが度々ありましたが、日本で開きました時には民国の古美術なり、又新しき美術の実に豊富であると云ふこと、又優秀なる名品に富んで居ると云ふやうなことを直接に我国の人に示されたことに依りまして、油然として民国に対して尊敬の念を起したことは事実であると思ひます。而してこの互ひの交際の裡に相手方を尊敬すると云ふことが一番大切なことである。又日本で展覧会を開きました時、我が日本にありまするものと、民国より古来伝来致しました所の古美術を同時に陳列すると云ふやうなことがござりました。其の時には民国のお方が之を御覧になって、自分の国の美術を日本の人々が愛好することが、斯く迄にあるかと云ふので余程感ぜられたと云ふ話を直接に伺ったことがありました。是等のことが此の両国の親交の上にどれ程の効果を齎して居るかと云ふことは、互ひに尊敬の念を起しまして、両国民互に尊敬し合って交際をするといふ温かい、麗はしいことに導くと云ふことに就て大いに効果があったことゝ信ずるのであります。是は全く汪公使が御斡旋下され、本心より我事の如くに御盡力を下さった結果であると感じたのであります。 

 追悼及感謝の辞 駐日公使 蒋作賓先生

 閉会の挨拶 白岩龍平氏 

 故 汪榮寶先生追悼会出席者 〔遺族、親戚、来賓、主人側別の名簿〕

〔蔵書目録注〕

 下の三枚の写真は、汪榮寶の履歴である。
 左から1枚目、二枚目:『改訂 現代支那人名鑑』  外務省情報部編纂 東亜同文会調査編纂部発行 昭和三年十月十五日
        三枚目:『現代中華民国満州国人名鑑』外務省情報部編纂 東亜同文会調査編纂部発行 昭和七年十二月二十二日

      



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