本書は、いじめ問題を通じて、現在の学校や教育のあり方を批判しています。
子どもによる子ども殺人事件である「神戸事件」について書かれた章で、「このj件の発生をみたあと、いまわたしが恐れているのは、彼(作者注:犯人の少年)を「異常」なものとして子どもたちの世界から遮断して、彼を生みだした環境(学校、地域、家庭、つまり社会)が教訓を汲み取らないことである」(28頁)とあるが、残念ながら、鎌田さんが恐れていたとおりになっていると思う。これはオウム真理教の事件とも同様である。だから、程度の差はあれ、同じようなことが繰り返される可能性は低いとは言えない。
また、鎌田さんは、いじめで自殺した子どもの12遺族をまわって、次のことに気付いたそうです。遺族が「いじめの被害者であるはずなのに、地域では同情されているよりは、むしろ孤立させられていること」(199頁)で、その理由は、いじめによる自殺によって社会的な注目が集まることで、地域の人間が迷惑するからだという。いじめによる自殺が起きることを「迷惑」だと考えるのが一般的でな傾向であるならば、現在の日本の社会が「いじめられて命を断つまで苦しめられた子どもやその親の悲しみを想いやる心づかい」を失っているからだろう。
結局、大人社会の生き辛さが子ども社会にも反映しているのだから、大人の方が変わらないと、いじめ問題は解決できない。
子どもによる子ども殺人事件である「神戸事件」について書かれた章で、「このj件の発生をみたあと、いまわたしが恐れているのは、彼(作者注:犯人の少年)を「異常」なものとして子どもたちの世界から遮断して、彼を生みだした環境(学校、地域、家庭、つまり社会)が教訓を汲み取らないことである」(28頁)とあるが、残念ながら、鎌田さんが恐れていたとおりになっていると思う。これはオウム真理教の事件とも同様である。だから、程度の差はあれ、同じようなことが繰り返される可能性は低いとは言えない。
また、鎌田さんは、いじめで自殺した子どもの12遺族をまわって、次のことに気付いたそうです。遺族が「いじめの被害者であるはずなのに、地域では同情されているよりは、むしろ孤立させられていること」(199頁)で、その理由は、いじめによる自殺によって社会的な注目が集まることで、地域の人間が迷惑するからだという。いじめによる自殺が起きることを「迷惑」だと考えるのが一般的でな傾向であるならば、現在の日本の社会が「いじめられて命を断つまで苦しめられた子どもやその親の悲しみを想いやる心づかい」を失っているからだろう。
結局、大人社会の生き辛さが子ども社会にも反映しているのだから、大人の方が変わらないと、いじめ問題は解決できない。