新緑の季節この季節は一年で一番好きです。
ちょっとだけご報告。
先日闘病中の父が亡くなりました。
最後の最後まで病気と向き合い、遺される家族のことを想い、優しい父でしたが力強さも残してくれました。
父の病気の告知を受けた時は本当に信じがたい厳しい病気であるとの説明を受けました。
余命2年の砂時計が落ち始めましたと。
今まで何度も何度も、あと3カ月。ここからは早い、夏は越せない、年を越せない、あと2週間・・・。あと数日…。
などなど何回も何回も主治医より「お父さんには言えないから・・。とこっそり私とか、妹や姉だけに受診に行くといわれていました。
コブクロのライブも馬場さんのライブもニュースペーパーのライブも何カ月も先の予約をすることは「このころどうなっているかなあ」と不安もありましたが、行けるといいなという希望も込めてチケットを予約させてもらっていました。
おかげさまで、行けなくなったライブは一回もありませんでした。
コブクロはとても無理だけど、馬場さんや、ニュースペーパーは「行きたい発作」が出るとその日の当日券で参加させてもらったライブもいくつかあります。
最初に告知を受けてから2年数カ月、いろいろなことが重なりました。
母の病気のこと、子供の学校のこと、受験のこと・・・。
よくまあ乗り越えてこられたなあとつくづく思います。
父は次男の高校が決まった時すごく喜んでくれて、自分もそこの近くに下宿したことがあるし、そこの高校で授業を何回か受けたことがある。話してくれました。
次男が学校に行きづらい時期があったことは両親には一切内緒にしていました。
闘病だけでも大変だったのに、さらに心配をかけたくなかったのです。
臨終の日、自分で、今日はしんどいから、家族に早めに来てくれるように連絡をしてほしいということで早朝病院から電話がありました。
まだ意識のあるうちに家族、子供、孫にほぼ全員が会えました。
なくなる一時間前に優しかった主治医の先生が回診に来られ、目があきました。「ありがとうございます」
とお礼を言っていました。
落ち付いているからいったん姉と母に付き添いをお願いをして帰ろうと思って、病院の駐車場で先に実家に戻り家の片づけをしていた妹と電話で話をしているときに姉からのキャッチが入り、「急変したから、戻ってきて」と連絡が入りました。
妹と電話をせずに車を走らせていたら、絶対に間に合いませんでした。
看護師さんが「もう一人の娘さんにも連絡してあげて。」と言われ、電話をして病室に戻ると、その看護師さんの機転で呼ばれた主治医も来られていました。
妹に電話して数分後、まるで火が消えるように父は天国に旅立ちました。
最後の最後まで燃料を使い切ったランプのように・・・。
かねてから主治医から相談を受けていた通り、家族もいたことから、心臓マッサージなどの延命処置は一切行われませんでした。
頚動脈でも脈が拾えなくなり、心電図のモニターも一直線になり、先生のポケットからペンライトが出され、対光反射がないことを確認されました。
そして。若い先生らしく、死亡時刻の告知は白衣のポケットから出されたピッチの時刻でした。
「この時計で行くと・・」とすまなそうに言われていました。
優しい顔をしていました。
本当に眠っているようでした。頑張ったなあ。お父さん・・。
寝台車に乗せられ、病院を後にしました。
私は姉の車を運転して実家に一緒に帰りました。
そして何と、こちらに戻ってくるときは帰り路が途中まで同じだったので寝台車に乗せてもらい帰ってきました。
ずっと運転手さんとお話をして帰りました。
深夜だったのに、お世話になった主治医の先生方、看護師さんがお見送りをしてくださいました。
今までずっとお世話になったから今回もここの病院に入院したいとずっと父が言っていた通り、少し遠かったけどこの病院で最期まで過ごさせてあげてよかったと思いました。動けるうちにできるだけ好きなことをさせてあげてくださいと先生から言われて、父はぎりぎりまでいろんなことをして、いろんな場所にも出かけて行きました。
最後の受診の時は私がずっと車いすを押しましたが、診察室に入る前には車いすに乗りたがらず歩いて入っていました。
帰りにうどん屋さんに行こうといい、みんなで入りました。
父はみんなの5倍くらい時間がかかったけど全部食べました。
それから二日後、もう家ではつらいと自分でいい、最後の入院をしました。
お葬式の日は暑いくらいの晴天で火葬場に立ち上る白い煙は5月の青い空に昇って行きました。
なくなる2日前まで書かれた日記にはいつもと同じ最低限の記録が残されていました。
自宅と入院していた岡山市の気温、天気、お見舞いに来てくれた人、回診に来られた先生のお名前など・・。
コブクロの「ボクノイバショ」という曲を思い出しました。
離れた場所に住む人の地域の天気予報を見てその人のことを思うんですよね。
空に昇る煙を見て「遠くで」と「さよなら ありがとう 天の風」をおもいだしました。
そして5月の空を見て「蕾」を。
小渕さん、実際に伝えることはなかなかできないですが、本当にいい曲を作られています。ありがとうございます。
そして「おくりびと」をみていたから、「また会おうね。おとうさん」と心から想うことができました。
何度も覚悟をしていたから、涙もとめどなく延々と流れはしませんでしたが、街に出て、ふっと父が滞在したことのあるホテルの横をとった時、ここのロビーで帰ろうとする私に慣れない手つきでセルフサービスのコーヒーを入れてくれて一緒に飲んだ時のこと、ふっと思い出し、涙が流れるのです。コーヒーは普段飲まないのに。
優しい笑顔だけ残っているんですよね。
次男は「僕はおじいちゃんに嘘をついたままで悪いことをした。おじいちゃんはもっと勉強したかったのに、僕は中学の時学校を休んだ」と号泣しました。
心配をかけないように嘘をついていたんだからいいんだよ。おじいちゃんの分まで勉強しようなあ」と一緒に泣きました。
お休みしても忌引きになるのですが、学校を休み授業が遅れてまた次男が学校に行かないと言い出したらどうしようと、ずっと心配をしていましたが、日程的に一日も学校を休まなくていい日にお葬式がありました。
なくなり天国に行く父が次男のことを知り、日程を組んでくれたようなそんな気がしました。
祭壇に飾られていた花もあと一輪になりました。
病室の冷蔵庫に入れていたプリンも賞味期限が切れる前に食べました。
ついこの間・・。と思ってもどんどん時は過ぎていくものですね。
私も父のように日記を続けよう・・。と思ってもやはり3日も続かないだめな私でした。
父のことを読んでくださってありがとうございました。
実家の祭壇の前の座布団に可愛がっていた猫がよく座ったり寝たりしているようです。
猫も寂しく思っているのかな?
病室で片づけをしながら、姉が「夜爪を切ったら親の死に目に会えないというから、お姉さんは爪は夜切らんかった。だから死に目に会えたんじゃなあ」と言っていました。本当にそうかもなあ・。
遺影母はが選んだ、父のとても優しい楽しそうな写真にしました。
大好きな人たちの前でお話をしているところを遠くからとった一枚をでした。
どんなに絶望の中にも小さな光を探し、力強く生き抜いた父でした。
心配をしてくださった方ありがとうございました。
乗りたかった九州新幹線の写真と最新の時刻表も棺に入れてあげました。亡くなる前日、岡山駅の通路、在来線の写真、新幹線桜の写真をすぐに印刷をして父に見せてあげることができました。(福本ヒデさんのブログの九州新幹線の写真を見て思いつきました。)
今頃自由にいろんなところに行っているんでしょうね。
今回の入院で緩和チームが入ってくれました。(終末医療専門)
何回か回診してくださった先生もとても優しい方でした。
父の言うことを「なるほどなるほど」とすべて受け入れてくださりずいぶん父は心が楽になったとおもいます。
あの時点で否定されたり、強く言われたりすると、かなりの精神的ダメージを受けたと思います。
ありがとうございました。
追記
父は亡くなる2日前まではちゃんと新聞も読んでいました。
だから棺の中に大好きな朝日新聞の朝刊も入れてあげました。
それとお茶が大好きで、今年の新茶も注文していました。
そのお茶がお葬式の日に届いたそうです。
毎日母が朝お茶を入れてお供えをして、夜寝る前にいただいてい寝ているそうです。
ちょっとだけご報告。
先日闘病中の父が亡くなりました。
最後の最後まで病気と向き合い、遺される家族のことを想い、優しい父でしたが力強さも残してくれました。
父の病気の告知を受けた時は本当に信じがたい厳しい病気であるとの説明を受けました。
余命2年の砂時計が落ち始めましたと。
今まで何度も何度も、あと3カ月。ここからは早い、夏は越せない、年を越せない、あと2週間・・・。あと数日…。
などなど何回も何回も主治医より「お父さんには言えないから・・。とこっそり私とか、妹や姉だけに受診に行くといわれていました。
コブクロのライブも馬場さんのライブもニュースペーパーのライブも何カ月も先の予約をすることは「このころどうなっているかなあ」と不安もありましたが、行けるといいなという希望も込めてチケットを予約させてもらっていました。
おかげさまで、行けなくなったライブは一回もありませんでした。
コブクロはとても無理だけど、馬場さんや、ニュースペーパーは「行きたい発作」が出るとその日の当日券で参加させてもらったライブもいくつかあります。
最初に告知を受けてから2年数カ月、いろいろなことが重なりました。
母の病気のこと、子供の学校のこと、受験のこと・・・。
よくまあ乗り越えてこられたなあとつくづく思います。
父は次男の高校が決まった時すごく喜んでくれて、自分もそこの近くに下宿したことがあるし、そこの高校で授業を何回か受けたことがある。話してくれました。
次男が学校に行きづらい時期があったことは両親には一切内緒にしていました。
闘病だけでも大変だったのに、さらに心配をかけたくなかったのです。
臨終の日、自分で、今日はしんどいから、家族に早めに来てくれるように連絡をしてほしいということで早朝病院から電話がありました。
まだ意識のあるうちに家族、子供、孫にほぼ全員が会えました。
なくなる一時間前に優しかった主治医の先生が回診に来られ、目があきました。「ありがとうございます」
とお礼を言っていました。
落ち付いているからいったん姉と母に付き添いをお願いをして帰ろうと思って、病院の駐車場で先に実家に戻り家の片づけをしていた妹と電話で話をしているときに姉からのキャッチが入り、「急変したから、戻ってきて」と連絡が入りました。
妹と電話をせずに車を走らせていたら、絶対に間に合いませんでした。
看護師さんが「もう一人の娘さんにも連絡してあげて。」と言われ、電話をして病室に戻ると、その看護師さんの機転で呼ばれた主治医も来られていました。
妹に電話して数分後、まるで火が消えるように父は天国に旅立ちました。
最後の最後まで燃料を使い切ったランプのように・・・。
かねてから主治医から相談を受けていた通り、家族もいたことから、心臓マッサージなどの延命処置は一切行われませんでした。
頚動脈でも脈が拾えなくなり、心電図のモニターも一直線になり、先生のポケットからペンライトが出され、対光反射がないことを確認されました。
そして。若い先生らしく、死亡時刻の告知は白衣のポケットから出されたピッチの時刻でした。
「この時計で行くと・・」とすまなそうに言われていました。
優しい顔をしていました。
本当に眠っているようでした。頑張ったなあ。お父さん・・。
寝台車に乗せられ、病院を後にしました。
私は姉の車を運転して実家に一緒に帰りました。
そして何と、こちらに戻ってくるときは帰り路が途中まで同じだったので寝台車に乗せてもらい帰ってきました。
ずっと運転手さんとお話をして帰りました。
深夜だったのに、お世話になった主治医の先生方、看護師さんがお見送りをしてくださいました。
今までずっとお世話になったから今回もここの病院に入院したいとずっと父が言っていた通り、少し遠かったけどこの病院で最期まで過ごさせてあげてよかったと思いました。動けるうちにできるだけ好きなことをさせてあげてくださいと先生から言われて、父はぎりぎりまでいろんなことをして、いろんな場所にも出かけて行きました。
最後の受診の時は私がずっと車いすを押しましたが、診察室に入る前には車いすに乗りたがらず歩いて入っていました。
帰りにうどん屋さんに行こうといい、みんなで入りました。
父はみんなの5倍くらい時間がかかったけど全部食べました。
それから二日後、もう家ではつらいと自分でいい、最後の入院をしました。
お葬式の日は暑いくらいの晴天で火葬場に立ち上る白い煙は5月の青い空に昇って行きました。
なくなる2日前まで書かれた日記にはいつもと同じ最低限の記録が残されていました。
自宅と入院していた岡山市の気温、天気、お見舞いに来てくれた人、回診に来られた先生のお名前など・・。
コブクロの「ボクノイバショ」という曲を思い出しました。
離れた場所に住む人の地域の天気予報を見てその人のことを思うんですよね。
空に昇る煙を見て「遠くで」と「さよなら ありがとう 天の風」をおもいだしました。
そして5月の空を見て「蕾」を。
小渕さん、実際に伝えることはなかなかできないですが、本当にいい曲を作られています。ありがとうございます。
そして「おくりびと」をみていたから、「また会おうね。おとうさん」と心から想うことができました。
何度も覚悟をしていたから、涙もとめどなく延々と流れはしませんでしたが、街に出て、ふっと父が滞在したことのあるホテルの横をとった時、ここのロビーで帰ろうとする私に慣れない手つきでセルフサービスのコーヒーを入れてくれて一緒に飲んだ時のこと、ふっと思い出し、涙が流れるのです。コーヒーは普段飲まないのに。
優しい笑顔だけ残っているんですよね。
次男は「僕はおじいちゃんに嘘をついたままで悪いことをした。おじいちゃんはもっと勉強したかったのに、僕は中学の時学校を休んだ」と号泣しました。
心配をかけないように嘘をついていたんだからいいんだよ。おじいちゃんの分まで勉強しようなあ」と一緒に泣きました。
お休みしても忌引きになるのですが、学校を休み授業が遅れてまた次男が学校に行かないと言い出したらどうしようと、ずっと心配をしていましたが、日程的に一日も学校を休まなくていい日にお葬式がありました。
なくなり天国に行く父が次男のことを知り、日程を組んでくれたようなそんな気がしました。
祭壇に飾られていた花もあと一輪になりました。
病室の冷蔵庫に入れていたプリンも賞味期限が切れる前に食べました。
ついこの間・・。と思ってもどんどん時は過ぎていくものですね。
私も父のように日記を続けよう・・。と思ってもやはり3日も続かないだめな私でした。
父のことを読んでくださってありがとうございました。
実家の祭壇の前の座布団に可愛がっていた猫がよく座ったり寝たりしているようです。
猫も寂しく思っているのかな?
病室で片づけをしながら、姉が「夜爪を切ったら親の死に目に会えないというから、お姉さんは爪は夜切らんかった。だから死に目に会えたんじゃなあ」と言っていました。本当にそうかもなあ・。
遺影母はが選んだ、父のとても優しい楽しそうな写真にしました。
大好きな人たちの前でお話をしているところを遠くからとった一枚をでした。
どんなに絶望の中にも小さな光を探し、力強く生き抜いた父でした。
心配をしてくださった方ありがとうございました。
乗りたかった九州新幹線の写真と最新の時刻表も棺に入れてあげました。亡くなる前日、岡山駅の通路、在来線の写真、新幹線桜の写真をすぐに印刷をして父に見せてあげることができました。(福本ヒデさんのブログの九州新幹線の写真を見て思いつきました。)
今頃自由にいろんなところに行っているんでしょうね。
今回の入院で緩和チームが入ってくれました。(終末医療専門)
何回か回診してくださった先生もとても優しい方でした。
父の言うことを「なるほどなるほど」とすべて受け入れてくださりずいぶん父は心が楽になったとおもいます。
あの時点で否定されたり、強く言われたりすると、かなりの精神的ダメージを受けたと思います。
ありがとうございました。
追記
父は亡くなる2日前まではちゃんと新聞も読んでいました。
だから棺の中に大好きな朝日新聞の朝刊も入れてあげました。
それとお茶が大好きで、今年の新茶も注文していました。
そのお茶がお葬式の日に届いたそうです。
毎日母が朝お茶を入れてお供えをして、夜寝る前にいただいてい寝ているそうです。
お父様亡くなられたんですね。
知らなくてごめんなさい。
心からご冥福をお祈りいたします。
次男さん、逆に心配をかけず立派におじいちゃん孝行をされたと思います。
お父様はよく、畑の物を持ってきょうちゃん宅を訪れていた記憶が私の中にあるのですが穏やかなイメージがありました。
今後はお母様を皆さんで見守って一致団結する時ですね。
きょうちゃんもお身体を大事にしてね。
お父様、おつかれさまでした。
どうぞ安らかに、、、。
天国のお父さんに心配かけないよう
栄養管理をね(*≧∇≦)b
るっぺさん、ありがとうございます。
私もお父さんがいなくなっちゃいました。
母を大切にしてあげたいと思います。
心さんへ
ありがとうございます。
次男の高校入学も報告できたので本当によかったです。
アルけんさんへ
ありがとうございます。
栄養管理(笑)頑張りますね。
次男クン、えらいねぇ! なんか、私まで、涙が・・・
お父様、最後まで、しっかりされてたんですね! 天国で、毎日、美味しいお茶、飲みながら、朝日新聞、読んでらっしゃることでしょうね! そして、お母様や、きょうちゃん達のこと、ずっと、見守ってくださることでしょう☆ きょうちゃん、お疲れ様でした。
きっと天国で楽しくしていると思います。ありがとうございました。