1985年8月12日午後6時56分羽田空港初大阪行きの日航ジャンボ機123便が群馬県の御巣鷹山中に墜落しまいた。
亡くなった方520人。生存者4名。
航空史上最悪の大惨事となりました。
あれからもう21年だそうです。
墜落現場はその日のうちにははっきりしなかったそうです。
長野県なのか群馬県なのかはっきりしたのは翌朝のことだったそうです。
私は数年前その時に遺体の検死作業の責任者(高崎署刑事官)をされていた飯塚 訓さんの「墜落遺体」という本を読んだことがあります。
墜落現場は登山道もない険しい山の斜面だったそうです。
現場に着いた自衛隊や警察官の方の目にはそれはひどい地獄絵図が飛び込んできたそうです。
遺体安置所になった体育館には次から次へとご遺体が運んでこられたそうです。
始めのうちは完全な体だったご遺体も途中からはほとんどが欠損遺体といって指一本しかないものもあり、ほかの方と一緒にならないように大事に棺に納められたそうです。その数千全体にも及んだそうです。
日赤の看護婦さんや看護学生さん。歯科医、レントゲン技師、法医学医師など多くの医療従事者がその過酷な任務にあたられたそうです。
外からのマスコミの取材から守るめクーラーのない体育館に暗幕を引き、蒸し暑い上、はげしい臭い、あちこちで泣き叫ぶ声、苛立ちの大声の飛び交う中ながい間(127日間)その作業はつづいたそうです。
強度の睡眠不足、緊張感、疲労、激しいご遺体に毎日接して精神状態のまいるスタッフもあったようです。それはまさにそこにいた人しかわからない想像を絶するものだったそうです。
はげしい衝撃のため膝にのせていた子供の骨がお母さんの骨に入り込むような方もいらっしゃったそうです。
看護婦さんたちは土や油の付いた髪を丁寧に洗い、くしでとかし、欠損した部分は脱脂綿や包帯でつくり少しでも完全な体に見えるようにされたそうです。
何日も身元のわからない頭部だけになった女の子を同じ年頃の女の子を持つ看護婦さんはさみしくないように抱っこしてあげたりしたそうです。
いまほど科学技術も発達していなかったでしょう。
気の遠くなるような作業を続けられた当時の関係者の方に敬意をはらいたいと思います。
その影には、家族の方の協力、地元の方の協力もあったそうです。
電車に乗ると、あまりにも体にしみこんだひどいにおいのため乗客にくさいといわれのれ乗れなくなったそうです。
それでもずっと何もいわず「お疲れ様でした」と暖かく出迎え、お風呂と食事の準備をされた警察官の奥様。一度も嫌な顔はされなかったそうです。
地元のラーメン屋さんもお客さんも日航機の検死作業をされている方とわかっているので黙ってお店に入れてくれていたそうです。
あまりにもひどい環境の体育館を時々抜け出してリフレッシュするには運動場に出て外の空気を胸いっぱい吸って夜空を見上げることだったそうです。
ふと星空をみていると
見上げてごらん夜の星をが聴こえて来た気がしたそうです。ちょうどその時間に
坂本 九さんが確認されたという話も載っていました。
墜落途中に乗客が撮られた写真には座席上から酸素マスクがおりるなか当時の乗務員の女性が乗客を励ましている姿が写っていました。
公開されたボイスレコーダーには最後まで機首をあげようと努力するパイロットの声が残されていました。
メモ用紙に家族の名前を書き、遺書を書くかたもありました。
このような世界最大の大惨事の中4人もの生存者がおられたことはまさに奇跡でした。
最近のニュースは繰り返しおこる、子供の事件、警察の捜査ミス、人災、本当ならこれから楽しい人生をおくれるはずだった命が消えて行きます。
毎年このニュースが流れるたび涙がながれます。
今日も慰霊登山がおこなわれたそうです。
二度とこんな事故がおこりませんように。
事故から21年。取り上げられることもこの命日だけになってきました。
ご遺族達も高齢な方が多く、登山も今年で最後かなといわれるご老人もありました。慰霊登山の費用打ち切りという案もあると聞きました。
あまり表には出たことのないスタッフの方のことも少し知っていただきたくて
むごい内容になりましたが紹介させていただきました。
御巣鷹山にたっている慰霊碑の所にある観音像のモデルは当時宝塚歌劇団の黒木瞳さんのご親友のかたのお顔ををモデルにしてあるという話をきいたことがあります。
黒木さんは亡くなった親友の分まで生きようと
決心されているそうです。
読んでいただいてありがとうございました。
左のブックマークのところに、ジャンボ機のボイスレコーダーを紹介しているサイトを見つけたので追加しました。
最後まで自分の任務を守られていた乗員の方の最後の勇姿です。
亡くなった方520人。生存者4名。
航空史上最悪の大惨事となりました。
あれからもう21年だそうです。
墜落現場はその日のうちにははっきりしなかったそうです。
長野県なのか群馬県なのかはっきりしたのは翌朝のことだったそうです。
私は数年前その時に遺体の検死作業の責任者(高崎署刑事官)をされていた飯塚 訓さんの「墜落遺体」という本を読んだことがあります。
墜落現場は登山道もない険しい山の斜面だったそうです。
現場に着いた自衛隊や警察官の方の目にはそれはひどい地獄絵図が飛び込んできたそうです。
遺体安置所になった体育館には次から次へとご遺体が運んでこられたそうです。
始めのうちは完全な体だったご遺体も途中からはほとんどが欠損遺体といって指一本しかないものもあり、ほかの方と一緒にならないように大事に棺に納められたそうです。その数千全体にも及んだそうです。
日赤の看護婦さんや看護学生さん。歯科医、レントゲン技師、法医学医師など多くの医療従事者がその過酷な任務にあたられたそうです。
外からのマスコミの取材から守るめクーラーのない体育館に暗幕を引き、蒸し暑い上、はげしい臭い、あちこちで泣き叫ぶ声、苛立ちの大声の飛び交う中ながい間(127日間)その作業はつづいたそうです。
強度の睡眠不足、緊張感、疲労、激しいご遺体に毎日接して精神状態のまいるスタッフもあったようです。それはまさにそこにいた人しかわからない想像を絶するものだったそうです。
はげしい衝撃のため膝にのせていた子供の骨がお母さんの骨に入り込むような方もいらっしゃったそうです。
看護婦さんたちは土や油の付いた髪を丁寧に洗い、くしでとかし、欠損した部分は脱脂綿や包帯でつくり少しでも完全な体に見えるようにされたそうです。
何日も身元のわからない頭部だけになった女の子を同じ年頃の女の子を持つ看護婦さんはさみしくないように抱っこしてあげたりしたそうです。
いまほど科学技術も発達していなかったでしょう。
気の遠くなるような作業を続けられた当時の関係者の方に敬意をはらいたいと思います。
その影には、家族の方の協力、地元の方の協力もあったそうです。
電車に乗ると、あまりにも体にしみこんだひどいにおいのため乗客にくさいといわれのれ乗れなくなったそうです。
それでもずっと何もいわず「お疲れ様でした」と暖かく出迎え、お風呂と食事の準備をされた警察官の奥様。一度も嫌な顔はされなかったそうです。
地元のラーメン屋さんもお客さんも日航機の検死作業をされている方とわかっているので黙ってお店に入れてくれていたそうです。
あまりにもひどい環境の体育館を時々抜け出してリフレッシュするには運動場に出て外の空気を胸いっぱい吸って夜空を見上げることだったそうです。
ふと星空をみていると
見上げてごらん夜の星をが聴こえて来た気がしたそうです。ちょうどその時間に
坂本 九さんが確認されたという話も載っていました。
墜落途中に乗客が撮られた写真には座席上から酸素マスクがおりるなか当時の乗務員の女性が乗客を励ましている姿が写っていました。
公開されたボイスレコーダーには最後まで機首をあげようと努力するパイロットの声が残されていました。
メモ用紙に家族の名前を書き、遺書を書くかたもありました。
このような世界最大の大惨事の中4人もの生存者がおられたことはまさに奇跡でした。
最近のニュースは繰り返しおこる、子供の事件、警察の捜査ミス、人災、本当ならこれから楽しい人生をおくれるはずだった命が消えて行きます。
毎年このニュースが流れるたび涙がながれます。
今日も慰霊登山がおこなわれたそうです。
二度とこんな事故がおこりませんように。
事故から21年。取り上げられることもこの命日だけになってきました。
ご遺族達も高齢な方が多く、登山も今年で最後かなといわれるご老人もありました。慰霊登山の費用打ち切りという案もあると聞きました。
あまり表には出たことのないスタッフの方のことも少し知っていただきたくて
むごい内容になりましたが紹介させていただきました。
御巣鷹山にたっている慰霊碑の所にある観音像のモデルは当時宝塚歌劇団の黒木瞳さんのご親友のかたのお顔ををモデルにしてあるという話をきいたことがあります。
黒木さんは亡くなった親友の分まで生きようと
決心されているそうです。
読んでいただいてありがとうございました。
左のブックマークのところに、ジャンボ機のボイスレコーダーを紹介しているサイトを見つけたので追加しました。
最後まで自分の任務を守られていた乗員の方の最後の勇姿です。
そのことを含めてブログをはじめました。よかったら友達になってもらいたいと思って送信しました。よろしくお願いしますm(_ _)m
あの日、私は運転免許をとりに市内まで出掛けていました。無事とれて、最寄り駅まで迎えに来てくれていた父の第一声が「日航機が墜落した」でした。思わず「えっ?、うそ‥」と言ってしまいましたが、カーラジオから繰り返し流れるニュースが事故のことを伝えていました。
今でも、免許証に記された 昭和60年8月12日 の文字を見ると、テレビに映し出されたあの時の惨状が目に浮かびます。
最近ではJR福知山線の脱線事故など、ニュース映像で見てても目を覆いたくなるような惨状の中、救助、捜索にあたられた方たちには頭が下がる思いです。
本当にこんな事故は二度とおこってほしくないです。
こないだのコメント、携帯から投稿させてもらったんだけど
泣く顔文字の記号がどうも携帯から使ったり、読む時も
切れちゃうみたいで…半端な投稿になってしまいました…
墜落事故のニュース、テレビで見ました。
「何があったん?」と聞いて、母からいつだったか
教えてもらった記憶があります。毎年ニュースを見て、
同じ事を思うんです。私がこの世にやってきた年に、
こんな大きな事故があったんだなぁって。恐らく…
起きるはず無かったであろう事故。坂本九さんの代表\曲は
私でも口ずさめるし、まだまだ聴いてみたかったって思います♪
この記事を読んで思い出した事があるんで書かせて下さいね。
約5年程前から、心の病を持つようになった私…。
お正月だったかなぁ?友達とカラオケにいったとき
母が選んでこの曲を唄い出しました。その曲とは
坂本九さんの「上を向いて歩こう」でした(^-^)
父もマイク持って唄ってたっけな…?
♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように・・・♪
私が時間かかってもいいから、「上を向いて歩けるように」と
願い、この曲を唄ったと言いました。その時も、
目頭を熱くしたような気がします(ρ_;)ふと想うと
歌声が頭の中に響いています…☆♪不思議だね~◎
「生きる」・「生きている」=「生かされている」ことに
感謝して、亡くなった方の分も楽しく・・・
生きて行けるといいよなぁなんて、想う私でした(*^-^*)
私はあのとき高校野球を見るためにひとりで甲子園に向かっていた‘美谷島 健’くんという男の子の名前がどうしても忘れられません。『初めてのひとり旅をどんなに楽しみにしていただろう』とか、『親御さんは何故ひとりで乗せてしまったのだろう、と自分を責めてしまったのではないだろうか』など、自分には何もできないのにいろいろな思いが駆け巡りました。
私も“21年”と聞いて驚きました。生存者がヘリコプターで救出される様子や‘遺書’となってしまったメモを報じていたのがついこの間のように思えるのに。。
どんなに年月が流れても決して忘れてはいけないできごとですね。
もうあれから21年経つのですね…。
うちにとってあの事故は凄い悲しみでした
宝塚が好きで黒木さんの友人、北原さんが好きでした…。
いつかは御巣鷹山に行きたいと思ってます。
最近は悲しい事件が多いですよね…。
無くなることを願うのみです…。
文章が纏まらずすみません
私も「あれから○年か…」と人ごとの様に思うだけだけれど、遺族にとっては何年経っても同じ。大切な人は帰って来ないんですよね。
ブックマークからジャンボ機紹介サイトで、事故が起きた飛行機が飛び立って行く映像を見てきました。
偶然録っていた映像だろうけど、遺族が見るには辛いものがあるでしょうね。
大切な人を乗せた飛行機が遠く消えて行くのですから…。
この間、TVで慰霊祭をしたという映像を見ていた時、6歳の甥っ子が言いました。
「『上を向いて歩こう』って、坂本九ちゃんが歌ってたんでしょ?」と。「そうだよ。飛行機が落ちて死んじゃったんだよ…。」と答えました。
この歌は、こんな事故を予言して作られたり歌ったりした歌じゃないのに…と思うと、心が痛いです。
当時私が通っていた大学の教授が、事故調査委員会に参加していたので、私はまた別の観点からこの事故と向き合うことになりました。
事故の原因は、今でも色々と取り沙汰されていますね。真実が解明されなければ、今後の事故防止には繋がらないのに、とても残念です。
あの日、夜7時過ぎにニュース速報のテロップが流れ、胸騒ぎをした事を今でもよく覚えています。もう二度と、あんな事故はイヤですね。
勉強頑張ってくださいね。これからもまた遊びに来て見てくださいね。
徳島のじゅんこさん。尼崎の事故も
一部のJRの職員がその場を立ち去ったことで問題になりましたが、近所の方のすばらしい援助が心に残っています。皆さんほとんど、阪神淡路大震災にあわれた方のなで、経験が役立ったらしいですね。
ちびまりこさん。ありがとうございます。九ちゃんの唄一緒にいたっていたんですね。
ゆーさん。よく覚えていますね。
そのこのこともこの本に書かれていました。
甲子園を見ることなく亡くなって悲しいですね。
ちゃぁぶーさんありがとうございます。
北原さんのことが好きだったんですね。
きれいな方だったんでしょうね。
レインボーさんありがとうございます。
遺族の方はいつまでたっても悲しみはいえることがないのでしょうね。
向日葵さん、ありがとうございます。
そんなんですか。大学の教授が事故調査委員会に属されていたんですか。
もう二度とこんな事故はおきてほしくないです。
そういう事故があったことは、なんとなくは知ってたけど、詳しくは知らなくって、詳しく知るきっかけとなったのは、「沈まぬ太陽」という本です。
とても長い本ですが(5巻ぐらいあったかな)学生の時に読み、全部読んだ後も、事故のことについていろいろ資料とか読んでみました。
「沈まぬ太陽」は、目を覆いたくなるような現実が描写されている内容もあり、読みながらつらくなってくるけど、ぜひいろんな人に読んで欲しい本ですね。
ありがとうございます。まだ当時は5歳だったんですね。
「沈まぬ太陽」読んでみたいです。
先日はクライマーズハイの再放送を見ました。
事故当時の地元の新聞社のドラマです。