それは形の無い物を捉えようとしていく中で、芸術性に触れた事の喜びが爆発しているからです。
そこに便利や合理性はありません。
『こうしたら面白かった』があるだけです。
臨書してみる。
お手本と同じ様に書けた。
お手本裏にして記憶で書いてみる。
書き続けていると、自分の書きたい様な線が現れ始める。
おや、ちょっと面白いぞ、となる。
さらに進める。
自分の書きたい形も見え始める。
どんどん面白くなって、とうとうお手本とは全く違う縄文土器の様な創造物が出来上がる。
自己満足?
それで良いでしょう。
縄文土器は作り手の自己満足を認めてくれた集団があって発展したのでしょう。
彼らにだってお手本はあったはずです。
それは間違いなく、自然界に存在する見える物や見えない物、つまり森羅万象です。
象形文字の持つ魅力はそこにあります。
森羅万象を形にしようとした。
その形を通して仲間と得ていた共通認識を記録しようとした。
縄文土器には形に見えない感じることしかできない何かを捉えて形にしようとした情熱ある魂を感じるのです。
それを神と言っても良いかもしれません。
形に表そうとしたモノも『神』なら、表そうとした精神も『神』でしょう。
縄文土器は縄文人にとっての森羅万象を司る『神』だったのかもしれませんね。