故意にしろ過失にしろ、人がしでかした事で死人が出たと聞くと、どうしても感情的になってしまうのが人情です。「どうして?! こんなひどいことに・・・」「何てことだ! 許せない・・・」声に出すか出さないかは別にして、普通の人の第一声は、まぁこんなところでしょうか?
ところが常日頃の気の持ちようで、人によってはまったく異なる反応をする人もいるのだと思い知らされたことがあります。感情的とは正反対の、冷静で醒めた反応の仕方をする人のことです。気の持ちようとは、ものごとの見方や考え方の違いのことで、ずばり理系的な考え方のことです。
私が痛く感じ入ったエピソードをご紹介します。まだ記憶に新しいと思いますが、昨年11月13日にパリ同時多発テロ事件がありました。お復習いのため、事件の概要をお示しします。
「パリ同時多発テロ事件とは、2015年11月13日にフランスのパリ市街と郊外のサン・ドニ地区の商業施設において同時多発的に発生したテロ事件である。ISIL(イスラム国またはIS)の戦闘員と見られる複数のテロリストグループによる銃撃および爆発で、死者130名、負傷者300名以上となった。」
この事件の6日後、スコットランド在住の日本人女性がブログに投稿した記事があります。記事の内容は、事件をどう受け止めたのかについて、彼女が彼女の夫・英国人と交わした会話がメインでした。私は彼女の夫が事件について語った、醒めた受け止め方に痛く感じ入ったのです。感情的になっていた著者を窘(たしな)めるように、彼の語った言葉とはこういうものでした。
「僕は今、まず自分自身に心の中でこう言うことにしているんです。『世界で1日に交通事故で命を落とす人は約3千人。テロで命を落とすよりも交通事故で命を落とす確率の方が世界全体ではまだまだ高い』・・・今回のテロを起こした人たちが目指したのは、世界を動揺させ、憤らせ、感情的に行動させることだ、と僕は考えているんです。だから僕はあえて動揺すまい、憤るまい、感情的になるまい、と決めているんです。」
(「スコットランドひきこもり日記」より)
製薬会社に在職中だった頃の私にも、かつて同じように窘められた経験がありました。1996(平成8)年7月13日に発生したO157集団食中毒事件絡みの話です。もう20年も前の昔の話ですが、これについても事件の概要をお示ししておきます。
「O157集団食中毒事件とは、1996年7月13日に大阪府堺市で発生した学校給食による学童の集団感染。患者数7996名、死者3名。疫学調査により原因食材として、カイワレ大根が疑われると厚生省(現厚生労働省)が発表し、大きな風評被害をもたらした。当時の厚生大臣 菅直人は記者会見でカイワレサラダを食べることで、安全性をアピールし、沈静化を図った。」
会社では当時、元国立循環器病センターの研究所長をしていた方に顧問をしてもらっていました。どういう経緯か忘れましたが、その方にセンセーショナルに報道されていたO157集団食中毒事件を話題にしたのです。すると・・・
「マスコミは変に煽り過ぎるんです。考えてもみなさい。平成7年の年間の交通事故死は約1万人、一日当たり30人弱だよ。どっちが重大な問題か客観的に見れば分かるのに・・・。感染症対策は交通事故対策より具体的に立てやすい・・・」
私はこれを聞いて、頬っぺたを張られたような気がしました。理系の人の考え方とはこういう醒めたものかと初めて思い知りました。ブログの記事を読んで、ほぼ20年ぶりに元研究所長の言葉が鮮やかに蘇ってきたのです。昔こんな話があったので、英国人の知的で醒めた考え方に痛く感じ入ったのだと思います。(どちらも客観的な指標として共に交通事故死者数を比較対照に挙げていたのは面白いですネ。)
事実の記述が曖昧で幾様にも解釈できる場合、よく “文学的表現” という言葉で揶揄することがあります。科学技術の領域では自戒すべきこととしてよく知られている言葉です。私は文学部出です。この言葉を聞くと自分が貶されているように思え、かつてはとても不愉快でした。
話しことばでは、「私は血圧が高くて・・・」などと使うことがよくあります。何気なく使われるのですが、よく考えてみると実際どの程度の血圧なのか聞き手には皆目見当つきません。ただ雰囲気で分かった振りをし、同情するだけだと思います。今の高血圧の定義は140 / 90 mmHg以上です。実際の血圧が140 / 90 mmHgちょうどでも、あるいは200 / 110 mmHgでも、いずれの場合も「血圧が高い」は間違いではありません。このように幾様にも解釈できる場合を “文学的表現” と言います。
この場合、相手に正確な情報を伝えるためには、血圧の数値そのものを明かす必要がありますし、正常血圧を知らない人が相手の場合には正常値についても触れなければなりません。これらの情報に触れずに「私は血圧が高くて・・・」などと言ったら、故意に事実を伏せて誤魔化していると受け取られかねません。誤解を生まないためには、客観的な指標となる情報を添えて相手に伝えなければなりません。
客観的であることが心掛けとして大切ということでは、相手に伝える場合に限らず、受け手が自分である場合にも当てはまります。むしろ受け手の方により重要な意味を持ちます。相手の言葉を自分なりに勝手に解釈したり、足りない部分を想像で補ったりして納得するのは危険です。“思い込み” はこういうところから生まれるのだと思います。客観的ということを常に忘れないように心掛けていさえいれば、こんなことも避けられるのですが・・・。
かつては楽しみで飲んでいた酒ですが、いつしか依存症に陥るまでになったことの要因には自己中心的(自分本位)なものの見方・考え方があったと考えています。偏ったものの見方であり、ともすれば “思い込み” にまでなりがちな考え方のことです。“思い込み” は偏ったものの見方の延長線上にある考え方です。この対極にあるものが客観的なものの見方・考え方なのだろうと思います。上記のエピソードに触発されて、客観的なものの見方・考え方について、次のように整理してみました。
ものの見方・考え方というのは、ものごとを評価したり判断したりすることそのものです。受け手にとって死活問題にもなり得るので特に重要です。評価や判断を、より客観的なものに近づけようとするなら、偏りを出来る限り小さくすればよいだけの話になります。
ものごとの評価や判断は、脳の記憶情報同士を比較する機能が働いた結果です。偏りを小さくし、客観性を担保する基本は、比較に用いる情報範囲の拡大と質だと考えました。情報範囲の拡大とは、対象と同じ領域内ばかりでなく、対照とすべき情報範囲をその領域の枠を越えてどこまで拡げられるかのことです。範囲を拡げることによって活用できる情報の数量が格段に増加します。情報の質については、動かしようのない数字絡みの情報の方が質が上と考えてみました。
上記二つのエピソードでは、対照とすべき情報範囲を無差別テロや感染性食中毒といった非日常的な領域に限定せず、いずれも交通事故という日常的な領域に拡げています。さらに、死者数という数字絡みの情報でもあるという点で共通しています。
残る問題は比較可能とする情報範囲をどこまで許容するかです。恐らくそれを決めるのは個々人の資質次第なのかもしれませんし、それ以上にどれだけ場数を踏んだか、つまり経験の積重ね具合によるのだろうと思います。
経験を生かすも殺すも個人の資質如何によりますから、賢さだの愚かさだのと個々人の資質問題へと再び堂々巡りになりかねません。これ以上踏み込むことは控えます。ただ、知識や情報源は多いに越したことはありませんが、知識や情報源が乏しいからといってめげることもないと思っています。見た目に少ない情報でも、活用次第で絶大な威力を発揮する事例は故事・ことわざにいくらでもあります。
繰り返しになりますが、評価や判断を適切に下すには比較対照が不可欠です。対照とすべき情報が足りない場合は、関連する知識を自分で新たに習得するか、あるいは相手に間髪入れず問質すかです。とは言ってみても、知識の習得ひとつとっても、どう頑張っても限界があります。間髪入れず即座に相手に問質すなど、私には文字通り至難の業です。対照とすべきものの品揃えが要と理屈では分っていても、それらを完備するなど現実には不可能です。出来るものなら苦労しません。それが出来なかったから、今までも痛い思いや、苦い思い、悔しい思い・・・辛い経験を度々して来たのです。
今からでも心掛けで出来ることと言えば、事あらば何はともあれ「ちょっと待てよ・・・」と間合いをはかり、記憶の間口を拡げるための時間稼ぎぐらいかなと思っています。心掛けですからこれなら出来そうです。
痛い思い、苦い思い、悔しい思いなど恐れずに、これからも進んで事に当たり、経験を積むことも出来ると思います。痛い思いをしなければ身には付かない、こう腹をくくるしかないと醒めた頭は言っています。
一つひとつ経験を積むことも、知識の習得ということでは他と何ら変わりありません。唱えるべきお呪いは・・・
“一歩引いて 一息ついて 一歩引いて”
今回は半年前のエピソードを題材にしました。私の脳は今リハビリ中で、記憶を自分なりに整理し、きちんとたたんで所定の引き出しに収納するまで半年ががりなのです。悪しからず。
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ところが常日頃の気の持ちようで、人によってはまったく異なる反応をする人もいるのだと思い知らされたことがあります。感情的とは正反対の、冷静で醒めた反応の仕方をする人のことです。気の持ちようとは、ものごとの見方や考え方の違いのことで、ずばり理系的な考え方のことです。
私が痛く感じ入ったエピソードをご紹介します。まだ記憶に新しいと思いますが、昨年11月13日にパリ同時多発テロ事件がありました。お復習いのため、事件の概要をお示しします。
「パリ同時多発テロ事件とは、2015年11月13日にフランスのパリ市街と郊外のサン・ドニ地区の商業施設において同時多発的に発生したテロ事件である。ISIL(イスラム国またはIS)の戦闘員と見られる複数のテロリストグループによる銃撃および爆発で、死者130名、負傷者300名以上となった。」
この事件の6日後、スコットランド在住の日本人女性がブログに投稿した記事があります。記事の内容は、事件をどう受け止めたのかについて、彼女が彼女の夫・英国人と交わした会話がメインでした。私は彼女の夫が事件について語った、醒めた受け止め方に痛く感じ入ったのです。感情的になっていた著者を窘(たしな)めるように、彼の語った言葉とはこういうものでした。
「僕は今、まず自分自身に心の中でこう言うことにしているんです。『世界で1日に交通事故で命を落とす人は約3千人。テロで命を落とすよりも交通事故で命を落とす確率の方が世界全体ではまだまだ高い』・・・今回のテロを起こした人たちが目指したのは、世界を動揺させ、憤らせ、感情的に行動させることだ、と僕は考えているんです。だから僕はあえて動揺すまい、憤るまい、感情的になるまい、と決めているんです。」
(「スコットランドひきこもり日記」より)
製薬会社に在職中だった頃の私にも、かつて同じように窘められた経験がありました。1996(平成8)年7月13日に発生したO157集団食中毒事件絡みの話です。もう20年も前の昔の話ですが、これについても事件の概要をお示ししておきます。
「O157集団食中毒事件とは、1996年7月13日に大阪府堺市で発生した学校給食による学童の集団感染。患者数7996名、死者3名。疫学調査により原因食材として、カイワレ大根が疑われると厚生省(現厚生労働省)が発表し、大きな風評被害をもたらした。当時の厚生大臣 菅直人は記者会見でカイワレサラダを食べることで、安全性をアピールし、沈静化を図った。」
会社では当時、元国立循環器病センターの研究所長をしていた方に顧問をしてもらっていました。どういう経緯か忘れましたが、その方にセンセーショナルに報道されていたO157集団食中毒事件を話題にしたのです。すると・・・
「マスコミは変に煽り過ぎるんです。考えてもみなさい。平成7年の年間の交通事故死は約1万人、一日当たり30人弱だよ。どっちが重大な問題か客観的に見れば分かるのに・・・。感染症対策は交通事故対策より具体的に立てやすい・・・」
私はこれを聞いて、頬っぺたを張られたような気がしました。理系の人の考え方とはこういう醒めたものかと初めて思い知りました。ブログの記事を読んで、ほぼ20年ぶりに元研究所長の言葉が鮮やかに蘇ってきたのです。昔こんな話があったので、英国人の知的で醒めた考え方に痛く感じ入ったのだと思います。(どちらも客観的な指標として共に交通事故死者数を比較対照に挙げていたのは面白いですネ。)
事実の記述が曖昧で幾様にも解釈できる場合、よく “文学的表現” という言葉で揶揄することがあります。科学技術の領域では自戒すべきこととしてよく知られている言葉です。私は文学部出です。この言葉を聞くと自分が貶されているように思え、かつてはとても不愉快でした。
話しことばでは、「私は血圧が高くて・・・」などと使うことがよくあります。何気なく使われるのですが、よく考えてみると実際どの程度の血圧なのか聞き手には皆目見当つきません。ただ雰囲気で分かった振りをし、同情するだけだと思います。今の高血圧の定義は140 / 90 mmHg以上です。実際の血圧が140 / 90 mmHgちょうどでも、あるいは200 / 110 mmHgでも、いずれの場合も「血圧が高い」は間違いではありません。このように幾様にも解釈できる場合を “文学的表現” と言います。
この場合、相手に正確な情報を伝えるためには、血圧の数値そのものを明かす必要がありますし、正常血圧を知らない人が相手の場合には正常値についても触れなければなりません。これらの情報に触れずに「私は血圧が高くて・・・」などと言ったら、故意に事実を伏せて誤魔化していると受け取られかねません。誤解を生まないためには、客観的な指標となる情報を添えて相手に伝えなければなりません。
客観的であることが心掛けとして大切ということでは、相手に伝える場合に限らず、受け手が自分である場合にも当てはまります。むしろ受け手の方により重要な意味を持ちます。相手の言葉を自分なりに勝手に解釈したり、足りない部分を想像で補ったりして納得するのは危険です。“思い込み” はこういうところから生まれるのだと思います。客観的ということを常に忘れないように心掛けていさえいれば、こんなことも避けられるのですが・・・。
かつては楽しみで飲んでいた酒ですが、いつしか依存症に陥るまでになったことの要因には自己中心的(自分本位)なものの見方・考え方があったと考えています。偏ったものの見方であり、ともすれば “思い込み” にまでなりがちな考え方のことです。“思い込み” は偏ったものの見方の延長線上にある考え方です。この対極にあるものが客観的なものの見方・考え方なのだろうと思います。上記のエピソードに触発されて、客観的なものの見方・考え方について、次のように整理してみました。
ものの見方・考え方というのは、ものごとを評価したり判断したりすることそのものです。受け手にとって死活問題にもなり得るので特に重要です。評価や判断を、より客観的なものに近づけようとするなら、偏りを出来る限り小さくすればよいだけの話になります。
ものごとの評価や判断は、脳の記憶情報同士を比較する機能が働いた結果です。偏りを小さくし、客観性を担保する基本は、比較に用いる情報範囲の拡大と質だと考えました。情報範囲の拡大とは、対象と同じ領域内ばかりでなく、対照とすべき情報範囲をその領域の枠を越えてどこまで拡げられるかのことです。範囲を拡げることによって活用できる情報の数量が格段に増加します。情報の質については、動かしようのない数字絡みの情報の方が質が上と考えてみました。
上記二つのエピソードでは、対照とすべき情報範囲を無差別テロや感染性食中毒といった非日常的な領域に限定せず、いずれも交通事故という日常的な領域に拡げています。さらに、死者数という数字絡みの情報でもあるという点で共通しています。
残る問題は比較可能とする情報範囲をどこまで許容するかです。恐らくそれを決めるのは個々人の資質次第なのかもしれませんし、それ以上にどれだけ場数を踏んだか、つまり経験の積重ね具合によるのだろうと思います。
経験を生かすも殺すも個人の資質如何によりますから、賢さだの愚かさだのと個々人の資質問題へと再び堂々巡りになりかねません。これ以上踏み込むことは控えます。ただ、知識や情報源は多いに越したことはありませんが、知識や情報源が乏しいからといってめげることもないと思っています。見た目に少ない情報でも、活用次第で絶大な威力を発揮する事例は故事・ことわざにいくらでもあります。
繰り返しになりますが、評価や判断を適切に下すには比較対照が不可欠です。対照とすべき情報が足りない場合は、関連する知識を自分で新たに習得するか、あるいは相手に間髪入れず問質すかです。とは言ってみても、知識の習得ひとつとっても、どう頑張っても限界があります。間髪入れず即座に相手に問質すなど、私には文字通り至難の業です。対照とすべきものの品揃えが要と理屈では分っていても、それらを完備するなど現実には不可能です。出来るものなら苦労しません。それが出来なかったから、今までも痛い思いや、苦い思い、悔しい思い・・・辛い経験を度々して来たのです。
今からでも心掛けで出来ることと言えば、事あらば何はともあれ「ちょっと待てよ・・・」と間合いをはかり、記憶の間口を拡げるための時間稼ぎぐらいかなと思っています。心掛けですからこれなら出来そうです。
痛い思い、苦い思い、悔しい思いなど恐れずに、これからも進んで事に当たり、経験を積むことも出来ると思います。痛い思いをしなければ身には付かない、こう腹をくくるしかないと醒めた頭は言っています。
一つひとつ経験を積むことも、知識の習得ということでは他と何ら変わりありません。唱えるべきお呪いは・・・
“
今回は半年前のエピソードを題材にしました。私の脳は今リハビリ中で、記憶を自分なりに整理し、きちんとたたんで所定の引き出しに収納するまで半年ががりなのです。悪しからず。
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投稿時に数字を一桁間違えました。謹んで訂正いたします。