ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

飲まないでいる方が楽 ― これが新しい生き方?!

2016-04-15 07:33:17 | 病状
 「(酒を)飲まないでいる方が楽ですね・・・」断酒歴が長い人ほど体験談でよく口にする言葉です。
楽(?)酒を断って間もないころは、聞いてもピンと来なかったのですが、断酒歴2年半となって私にも実感できるようになりました。“肩の荷が降りた” とでも言うのでしょうか、文字通り楽になりました。そう実感できていることを挙げてみます。


  ○ 頭がすっきりし、清々しい気分でいられることが圧倒的に多く
    なった。
  ○ ごく自然に屈託なく笑えるようになった。
  ○ 思い立ったら、ためらわずにすぐ行動に移せるようになった。
  ○ 腹を立てたり、イライラしたりすることがほとんどなくなった。
  ○ 「(断酒など)~しなければならない」という囚われから自由に
    なった。
  ○ 署名を求められても、緊張して固まることがなくなった。
  ○ 周囲がよく見渡せ、自分自身をも突き離して見ることができるよう
    になった。


 アルコール毒性の悪影響を長く受け続ける器官は間違いなく脳だと実感しています。しかも、脳への悪影響は断酒後も思いの外なが~く続くようなのです。私の場合、悪影響と思われるはっきりした自覚症状として、大きいもので二つありました。

 ひとつは妄想と言ってもいいもので、“憑きモノ” か “物の怪” とでも呼びたくなるような面妖なものでした。ここでは “憑きモノ” と呼ぶことにします。振り返ってみると、“憑きモノ” は習慣的飲酒が始まって以来ずっと纏わりついていたようです。

 精神的に重大なピンチに見舞われたときなど特に、そのピンチが強いストレスとなり、決まって性的衝動を駆り立てるような妄想(?)に化けて膨らんだものです。が、普段はぼんやりと大人しくしていました。好みのモノ(?)には即座にハマルように仕向け、好みに合わなければ自動的に悉く等閑視する、こんな病的とも言える偏屈さに、“憑きモノ” が仕向けていたようなのです。

 私自身、特定の好みに変に執着しがちなので、何かに囚われているようだと薄々気付いてはいましたが、なぜピンチのときに限ってやみくも(一途?)に突き進んでしまうのかは分かりませんでした。一事が万事、モノの見方も相当偏っていたのだと思います。

 もう一つは、脳にいつも薄物のヴェールを被っているような感覚です。薄物のヴェールを被った感覚と一緒に、いつも頭が重くどんよりとしていました。脳のシビレた感じと表現した人もいます。手や足の指先がシビレた感覚は、アルコール依存症者に共通して見られる症状で、ビタミンB1欠乏性の抹消神経障害として知られています。これと同じようなシビレを脳に感じていたのです。手足のシビレは断酒とビタミンB1の点滴補充のお蔭で消えましたが、脳のシビレ感は断酒後も残ったままでした。

 これら二つの症状は、断酒を始めて10ヵ月後ほぼ同時にすっかり消えてなくなりました。例えて言えば、溜まりに貯まった重い澱が弾け去り、頭がすっきりと澄んだ感じでしょうか。まさしく “憑きモノ” が落ちたという表現がピッタリの神秘的で奇妙な体験でした。

 あるいは、囚われから解放されたという意味でこんなふうにも表現できます。それまでは、狭くて暗い洞穴の中に一人でいて、小さな穴の口から外の世界を覗いていたような窮屈な感覚であったものが、急に外の世界の真っ只中で、周りを自由に見渡せているという感覚です。意外なことに、同時にアルコール絡みの強迫観念も消えていました。

 ですから、アルコール絡みの強迫観念も含めたこれら三つの症状は、皆同根の病理由来のものだろうと気が付いたのです。依存症に導いた総元締とでもいう意味です。これでやっと囚われの身から解放された、というのが実感でした。

 このことがきっかけとなり、自分自身を突き放し、少し離れて冷静に振り返って見ることができるようになりました。

 断酒3ヵ月後ぐらいから、ハシャギ過ぎや胸にザワザワ感などが時たま出るようになり、おかしな症状だと薄々気付いてはいたのですが、誰にも言わず黙っていました。身体が快方に向かっていることばかりに気を取られ、おかしな症状は回復に伴う一過性のものにちがいないと思い込んでいたので、具体的に何をどう相談したらよいかも分からなかったのです。

 “憑きモノ” が落ちた後は、その神秘的で奇妙な体験そのものも含め、諸々のおかしな症状について、気軽に医師に相談できるようになりました。AV動画に夢中になったこと、その挙句の果てに場面の展開を叙述したことまでも話ました。

 それを聞いて医師は、“憑きモノ” が落ちたのは著述作業による “言語化” の成果だろうと説明してくれました。モノごとを書くという作業が、認知行動療法の一つの “言語化” に当たるということを初めて知りました。

 今ではときどき、一方的にしかモノを見ていないことにハッとするときがあります。偏った見方だと、ふと気付くことがあるのです。穴倉から外を覗いているような窮屈な見方だった飲酒時代に比べたら、逆説的ながら、むしろ視野が拡がった証だろうとみています。

 今でもまだ見方が偏っていると思えてならないのですから、“憑きモノ” に囚われていた頃は、どんなにひどかったのか自分でも想像つきません。面白くないことがあると気持ちをぐっと押し殺し、重苦しい気分をいつも酒で紛らわしていたのでしょう。大なり小なり、それが繰り返される悪循環の毎日だったのだと思います。

 感情を司っているのも脳です。その脳がこんな状態でしたから、感情の現れ方もどこかぎごちなかったのだろうと思っています。「自然な感情が戻ったように思える」これも体験談でよく聞かれる言葉です。怒りやイライラはストレートに出て来ても、それ以外の感情の出方が「不自然だったように思う」というのです。その代表的な感情が、恐らく笑いではなかったかと察しています。

 固まった重い心では笑いなどあり得ません。ほぐれた心であっての笑いです。私も、落語を生で聴きに行ったとき以外、腹から笑えたことなどなかったように思います。体験談を聴いていると、今では思わず笑ってしまうことがよくあります。話し手が深刻に話しているにもかかわらず・・・です。適当な距離を置いて聞けているからだと思います。笑い声を耳にすると、話し手の方もほぐれた表情になるのが不思議です。

 これからも、まだまだアルコールの後遺症(?)は続くものと思っています。意図した言葉がなかなか出て来ず、回転の鈍すぎる頭との我慢比べが続いています。心理的ストレスの受け止め方も、まだまだ敏感すぎるような気がしてなりません。

 少しぐらいのストレスなら、柳に風と受け流すようでありたいと思っています。イライラや落ち込みなど大ブレすることなく、しなやかに復元できる心、すなわち平常心です。いつも平常心でいられるための手がかりは次の新3Kです。


  空気を読む(状況を把握する)
  風を読む(未来を推測する)
  心を読む(心理を分析する)

                  (ひきたよしあき氏のFB記事より)

 上の二つの「・・・を読む」を、人によっては周りに迎合する意と解釈するかもしれませんが、私はそうは読みません。「察知できるように予め備えよ」という趣旨と理解しています。ものごとを適正に評価し的確に判断するためには、比較対照すべき知識が多ければ多いほどよいと考えています。

 心掛けとしては上の新3Kがうってつけです。老いた今からでも遅くはない、より強いストレスに備えて、できるだけ多くの知識の習得に努めようと思います。それがリハビリとしても有効だろうと思うのです。

 さて最後に、断酒後には「新しい生き方が必要になる」とよく言われます。ともすれば、「新しい生き方をしなければならない」と思いがちですが、私はそうは思いません。無理に意識しなくても、「新しい生き方に自然になれる」と思えるようになりました。“肩の荷が降りた” のですから、自然に周りがよく見えているはずです。それを一層広く見るよう努めさえすればよいだけの話だと思っています。
 “事実を事実としてありのままに受け止め容れる”


こちらの記事もご参照ください。
アルコール依存症の回復イメージ
回復へ ― アル中の前頭葉を醒まさせる
 

ランキングに参加中。クリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 アルコール依存症
    ↓    ↓