「三つ子の魂 百まで」「雀百まで踊り忘れぬ」 幼いころの性格は歳をとっても変わらない。よく知られた譬えです。
「なぜ、酒が必要だったか?」この問いを辿ると、幼年期に抱いた“負い目”を大人になっても“引け目”として知らずに引き摺っていたことに思い当たりました。虚弱体質だったことが幼年期の私の負い目でした。それがどうしたものか見事に飲酒習慣へと繋がってしまったようなのです。無論、“風が吹けば桶屋が儲かる”式の込み入った話ではありません。それにしても、昔の人が残した言葉は苦い経験に裏打ちされた言葉だと、心底サスガだと感心します。
アルコール依存症専門クリニックで行われる教育プログラムの一つにテーマミーティングがあります。プログラムの冒頭にテーマが提示され、患者各人が心当たりのある思い出を順に発言します。発言者以外の者は質問も、意見も、感想も、コメントすること一切が許されず、ただひたすら聞き役に徹します。自助会でのルールと同じです。
自助会AAなら、最初に司会を務めるメンバーがテーマに沿った自分の体験談を提示することから始まりますが、専門クリニックでは相談員と呼ばれるソーシャルワーカーがヒントをいくつか挙げて始まります。テーマはいつも具体的な質問形式です。ブッツケ本番の、3~4分の短い語りとなるのが普通です。短い時間ですが、私などは内容に脈絡がなくなることも間々あります。気持ちが入り過ぎてのことか、断酒後に特有の記憶障害の所為か・・・。
ある日のテーマが冒頭に示した「なぜ、酒が必要だったか?」でした。この類の問いに対し、私は現役時代の日帰り出張で定番であった、あるエピソードを話すことにしていました。飲酒が習慣化した根っこにある一番手の理由が、出張帰りの定番であったこのクセだと考えていたからです。
定番のクセとは、帰りの電車の車中ではお決まりの、座席に着くなり即ビールとなっていたことです。自分の話す番になると、「仕事(新薬の臨床開発)の件で医師と面談し、何とか無難に済ますことができた。ほっとしたものの、昂ぶったままの神経を鎮めるため、止むに止まれず飲んだ。・・・」このように答えていました。
なぜ、医師との面談にこれほどの昂ぶりを感じたのか? 元を辿ると、幼少期に虚弱だった体質と、受験競争時代の偏差値至上主義が大いに影響していることに思い至りました。
慢性扁桃腺炎だったことは大きくなって後で判ったことですが、幼年期から扁桃腺が弱く発熱を繰り返していました。風邪を引きやすく、しょっちゅうこじらせては肺炎となり、入退院の繰り返しから小学1~2年は学校を全休、3年になっても病欠がちでした。ちょっと無理をしたら直ぐに熱が上がり、体温計の水銀が42℃の上限まで行ったことが何度もあります。それで外での遊びを控え、室(屋)内でひとり本や雑誌を読んでいることが多かったのです。
必然的に、大勢の子供と一緒に外で遊ぶ機会が極端に少なく、同年代の子との社交(?)に疎い環境で育ちました。会話能力を鍛える機会が決定的に不足し、引っ込み思案な子供になっていました。
久々に遊びに加わっても、話題に付いていけないのです。そんな会話の際、物語に書いてあったセリフしか浮かんで来ないこともあり、どこかズレた話し方をしてしまったことがよくありました。変に唐突で理屈っぽいのです。堅苦しくぎこちない話し方に気付き、会話中に固まってしまったこともありました。
日本人の話す英会話が、ネイティブには候文(そうろうぶん)のような“書きことば”に聞こえるとよく言われるそうです。それと同様の違和感があるのではないかと、今でも臨機応変の機転のなさを引け目に思っています。病弱で遊び仲間とオシャベリを交わした経験の乏しいことが祟って、大人になっても相変わらずの会話下手です。それを引け目として引き摺ってきました。現役当時も今も、依然として過去のコンプレックスに囚われたままなのです。
もうひとつ後生大事に引き摺っている過去があります。
先日、幼稚園児の孫の運動会を見に行きました。跳び箱演技では、4~6段の跳び箱でも難なく飛べる子もいれば、尻込みしてしまい1段でも飛べない子もいて、中には上体だけ前のめりになって顔からゆっくりマットの上に崩れ落ちる子さえいました。跳び箱の直前で気持ちが引け、身体自体がブレーキになっているのです。その跳び箱演技を見ていて思い出したのです。(大げさに聞こえるかもしれませんが、)予断を持ったがゆえの思い切りの悪さ、新薬の臨床開発をしていた現役時代の私の姿がそこに見えました。
偏差値の格差を、そのまま人の能力の差とみる。この考えが身に染み着いていたのが受験時代です。医師とみるや、かつて圧倒的に偏差値で差をつけられ、足元にも及ばない存在だった過去に引け目を感じていました。仕事で面談相手の医師を前にして、この人も高い偏差値だったのだろうという思いが拭いきれず、その幻影に怖気づいていたのです。
面談相手は単に医師という職業人なのです。これまで生きてきた背景は異なっても、新しい薬を開発しようとする土俵は同じです。過去のゴチャゴチャしたことに予断をもたずに、お互い職業人として率直に話し合える接点を見出せれば良いだけなのですが・・・。そんなトラウマを抱えて医師と面談していました。
担当するプロジェクトが基礎研究段階にあったため、刺激の少ない内勤業務ばかりで出張などほとんどない一時期が5年間ほどありました。それが一転して30歳代半ばに、新薬プロジェクトの専任リーダーとなって、医師との面談が主の外勤業務へと一変したのです。医師と具体的に治験絡みの話をするのは実に久し振りのことでした。
開発リーダーの職責は重く、常に突撃隊長としての緊張を強いられます。凄まじいばかりの重圧と緊張感は、やった者にしか分からないだろうと思います。
治験を受けてくれる医療機関を開拓するのが仕事ですから、面談相手は必然的に初対面の医師ばかりとなります。アシスタント時代にも医師と単独で面談したことが数多くありました。しかし、上司の面談の場に同席し、その後を引き継ぐ形で面談したわけで、その頃の気楽な面談経験と開発リーダーとして臨む面談とは比べものになりません。
誰であろうと初対面の相手には緊張が付き物です。そこに幼年期から続く会話下手の意識に加え、高い偏差値を誇っていた医師に対するコンプレックスがさらに加わって、面談時の神経の昂ぶりは予想以上のものでした。
出張時の移動中は目付け役のいない単独行動が基本です。無難に面談を済ませ、緊張から解放されても、まだ神経が昂ぶったままでした。目付け役がいないことをいいことに、帰りの車中では即ビールが定番となってしまいました。そのまま直帰のときは、まだ陽が高い時間だろろうが一向に躊躇しませんでした。
場数を多く踏むということは実に面白いものです。度胸もつけば、悪癖もつく。初対面の相手が大物医師でも、緊張感が薄れて面談を無難にこなせるようになった一方で、出張帰りの車中での定番はそのままに残りました。
一旦身に着いたものはクセになり容易に習慣化します。自宅でビール大瓶1本の晩酌で済ませていたところに、出張帰りの習慣が当たり前のように付け加わりました。こうなると自宅での晩酌も、ビール大瓶1本では済まなくなります。1本が2本になり・・・。結局、晩酌の量は大幅に増え、それが新定番となったのです。
以上が、“習慣飲酒”が悪化してアルコール依存症へ一本道となった一番手のキッカケでした。
振り返ってみると、出張帰りの定番を引き継き、仕事がらみでの同様のキッカケが4番手まで後に控えていたわけです。想像通り耐性が立派に成立し、現役を終える頃には半端な飲み方では済まないツワモノの呑み助になっていました。
トラウマを引き摺ってばかりでは仕事になりません。当時、私の採った対策をお話ししておきます。
医師との面談では独特の間合いが不可欠です。前の機会から時間が空いた場合には、面談前にその勘を取り戻しておくことがとても大切です。リーダーとなってまもなく、気軽に相談できそうなベテラン医師を見出し、用事を作っては頻繁に訪ねて親しくなるように努めました。
そのベテラン医師は会社から歩いてでも行ける病院の勤務医でした。その内、世間話に毛の生えたような用事であっても、快く付き合ってもらえるまでになりました。初対面の大物医師との面談前には、リハーサル代わりにこのベテラン医師を必ず訪ねるようにしました。そのお蔭で初対面の大物医師にも無難に臨めるようになったのです。
難しい選択を迫られる問題の場合には、他に中堅医師2人にも相談に乗ってもらい、意見を聞くようにしていました。つまり、いつでも相談に乗ってもらえる医師を常に3人確保していたものです。
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「なぜ、酒が必要だったか?」この問いを辿ると、幼年期に抱いた“負い目”を大人になっても“引け目”として知らずに引き摺っていたことに思い当たりました。虚弱体質だったことが幼年期の私の負い目でした。それがどうしたものか見事に飲酒習慣へと繋がってしまったようなのです。無論、“風が吹けば桶屋が儲かる”式の込み入った話ではありません。それにしても、昔の人が残した言葉は苦い経験に裏打ちされた言葉だと、心底サスガだと感心します。
アルコール依存症専門クリニックで行われる教育プログラムの一つにテーマミーティングがあります。プログラムの冒頭にテーマが提示され、患者各人が心当たりのある思い出を順に発言します。発言者以外の者は質問も、意見も、感想も、コメントすること一切が許されず、ただひたすら聞き役に徹します。自助会でのルールと同じです。
自助会AAなら、最初に司会を務めるメンバーがテーマに沿った自分の体験談を提示することから始まりますが、専門クリニックでは相談員と呼ばれるソーシャルワーカーがヒントをいくつか挙げて始まります。テーマはいつも具体的な質問形式です。ブッツケ本番の、3~4分の短い語りとなるのが普通です。短い時間ですが、私などは内容に脈絡がなくなることも間々あります。気持ちが入り過ぎてのことか、断酒後に特有の記憶障害の所為か・・・。
ある日のテーマが冒頭に示した「なぜ、酒が必要だったか?」でした。この類の問いに対し、私は現役時代の日帰り出張で定番であった、あるエピソードを話すことにしていました。飲酒が習慣化した根っこにある一番手の理由が、出張帰りの定番であったこのクセだと考えていたからです。
定番のクセとは、帰りの電車の車中ではお決まりの、座席に着くなり即ビールとなっていたことです。自分の話す番になると、「仕事(新薬の臨床開発)の件で医師と面談し、何とか無難に済ますことができた。ほっとしたものの、昂ぶったままの神経を鎮めるため、止むに止まれず飲んだ。・・・」このように答えていました。
なぜ、医師との面談にこれほどの昂ぶりを感じたのか? 元を辿ると、幼少期に虚弱だった体質と、受験競争時代の偏差値至上主義が大いに影響していることに思い至りました。
慢性扁桃腺炎だったことは大きくなって後で判ったことですが、幼年期から扁桃腺が弱く発熱を繰り返していました。風邪を引きやすく、しょっちゅうこじらせては肺炎となり、入退院の繰り返しから小学1~2年は学校を全休、3年になっても病欠がちでした。ちょっと無理をしたら直ぐに熱が上がり、体温計の水銀が42℃の上限まで行ったことが何度もあります。それで外での遊びを控え、室(屋)内でひとり本や雑誌を読んでいることが多かったのです。
必然的に、大勢の子供と一緒に外で遊ぶ機会が極端に少なく、同年代の子との社交(?)に疎い環境で育ちました。会話能力を鍛える機会が決定的に不足し、引っ込み思案な子供になっていました。
久々に遊びに加わっても、話題に付いていけないのです。そんな会話の際、物語に書いてあったセリフしか浮かんで来ないこともあり、どこかズレた話し方をしてしまったことがよくありました。変に唐突で理屈っぽいのです。堅苦しくぎこちない話し方に気付き、会話中に固まってしまったこともありました。
日本人の話す英会話が、ネイティブには候文(そうろうぶん)のような“書きことば”に聞こえるとよく言われるそうです。それと同様の違和感があるのではないかと、今でも臨機応変の機転のなさを引け目に思っています。病弱で遊び仲間とオシャベリを交わした経験の乏しいことが祟って、大人になっても相変わらずの会話下手です。それを引け目として引き摺ってきました。現役当時も今も、依然として過去のコンプレックスに囚われたままなのです。
もうひとつ後生大事に引き摺っている過去があります。
先日、幼稚園児の孫の運動会を見に行きました。跳び箱演技では、4~6段の跳び箱でも難なく飛べる子もいれば、尻込みしてしまい1段でも飛べない子もいて、中には上体だけ前のめりになって顔からゆっくりマットの上に崩れ落ちる子さえいました。跳び箱の直前で気持ちが引け、身体自体がブレーキになっているのです。その跳び箱演技を見ていて思い出したのです。(大げさに聞こえるかもしれませんが、)予断を持ったがゆえの思い切りの悪さ、新薬の臨床開発をしていた現役時代の私の姿がそこに見えました。
偏差値の格差を、そのまま人の能力の差とみる。この考えが身に染み着いていたのが受験時代です。医師とみるや、かつて圧倒的に偏差値で差をつけられ、足元にも及ばない存在だった過去に引け目を感じていました。仕事で面談相手の医師を前にして、この人も高い偏差値だったのだろうという思いが拭いきれず、その幻影に怖気づいていたのです。
面談相手は単に医師という職業人なのです。これまで生きてきた背景は異なっても、新しい薬を開発しようとする土俵は同じです。過去のゴチャゴチャしたことに予断をもたずに、お互い職業人として率直に話し合える接点を見出せれば良いだけなのですが・・・。そんなトラウマを抱えて医師と面談していました。
担当するプロジェクトが基礎研究段階にあったため、刺激の少ない内勤業務ばかりで出張などほとんどない一時期が5年間ほどありました。それが一転して30歳代半ばに、新薬プロジェクトの専任リーダーとなって、医師との面談が主の外勤業務へと一変したのです。医師と具体的に治験絡みの話をするのは実に久し振りのことでした。
開発リーダーの職責は重く、常に突撃隊長としての緊張を強いられます。凄まじいばかりの重圧と緊張感は、やった者にしか分からないだろうと思います。
治験を受けてくれる医療機関を開拓するのが仕事ですから、面談相手は必然的に初対面の医師ばかりとなります。アシスタント時代にも医師と単独で面談したことが数多くありました。しかし、上司の面談の場に同席し、その後を引き継ぐ形で面談したわけで、その頃の気楽な面談経験と開発リーダーとして臨む面談とは比べものになりません。
誰であろうと初対面の相手には緊張が付き物です。そこに幼年期から続く会話下手の意識に加え、高い偏差値を誇っていた医師に対するコンプレックスがさらに加わって、面談時の神経の昂ぶりは予想以上のものでした。
出張時の移動中は目付け役のいない単独行動が基本です。無難に面談を済ませ、緊張から解放されても、まだ神経が昂ぶったままでした。目付け役がいないことをいいことに、帰りの車中では即ビールが定番となってしまいました。そのまま直帰のときは、まだ陽が高い時間だろろうが一向に躊躇しませんでした。
場数を多く踏むということは実に面白いものです。度胸もつけば、悪癖もつく。初対面の相手が大物医師でも、緊張感が薄れて面談を無難にこなせるようになった一方で、出張帰りの車中での定番はそのままに残りました。
一旦身に着いたものはクセになり容易に習慣化します。自宅でビール大瓶1本の晩酌で済ませていたところに、出張帰りの習慣が当たり前のように付け加わりました。こうなると自宅での晩酌も、ビール大瓶1本では済まなくなります。1本が2本になり・・・。結局、晩酌の量は大幅に増え、それが新定番となったのです。
以上が、“習慣飲酒”が悪化してアルコール依存症へ一本道となった一番手のキッカケでした。
振り返ってみると、出張帰りの定番を引き継き、仕事がらみでの同様のキッカケが4番手まで後に控えていたわけです。想像通り耐性が立派に成立し、現役を終える頃には半端な飲み方では済まないツワモノの呑み助になっていました。
トラウマを引き摺ってばかりでは仕事になりません。当時、私の採った対策をお話ししておきます。
医師との面談では独特の間合いが不可欠です。前の機会から時間が空いた場合には、面談前にその勘を取り戻しておくことがとても大切です。リーダーとなってまもなく、気軽に相談できそうなベテラン医師を見出し、用事を作っては頻繁に訪ねて親しくなるように努めました。
そのベテラン医師は会社から歩いてでも行ける病院の勤務医でした。その内、世間話に毛の生えたような用事であっても、快く付き合ってもらえるまでになりました。初対面の大物医師との面談前には、リハーサル代わりにこのベテラン医師を必ず訪ねるようにしました。そのお蔭で初対面の大物医師にも無難に臨めるようになったのです。
難しい選択を迫られる問題の場合には、他に中堅医師2人にも相談に乗ってもらい、意見を聞くようにしていました。つまり、いつでも相談に乗ってもらえる医師を常に3人確保していたものです。
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