先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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4年に及ぶ岡山県石生豊田小作争議の勝利解決 1925年主な小作争議 (読書ノート)

2022年08月24日 07時00分00秒 | 1925年の労働運動

写真・岡山県日本農民組合の共同田植え(1923年5月)

4年に及ぶ岡山県石生豊田小作争議の勝利解決 1925年主な小作争議 (読書ノート)
参照「日本労働年鑑第7集1926年版」大原社研編

 岡山県石生村と豊田村の小作争議は、1922年(大正11年)1月に始まり、1925年(大正14年)10月に勝利解決した。
 1922年(大正11年)1月石生村と豊田村の小作農民190名(家族500名)は、日本農民組合支部を結成し、小作料永久3割減を要求し闘いをはじめた。地主5名はいずれも他村地主であったが地主同盟会を作り、農民の要求を頑として拒否し続け、逆に田畑の仮差押えを強行してきた。地主同盟会は、翌1923年(大正12年)にも立稲毛仮差押えを行い、稲の刈り入れ時期に一大騒擾を起こしてきた。この時は、小作人から立稲を買い取ることで一時解決したが、1924年(大正13年)に、またまた立稲毛仮差押えを強行してきた為、刈り取り時に再び大騒ぎとなった。

(農民の持久戦)
 争議中、農民側の窮乏は厳しかったが、190名の農民側は「これ以上地主の前に屈従して、鬼のごとき彼らにすがることはできない。私たちの運命は、私たち家族500名の生きる道は、ただただ自分自身の力によりて切り開く以外にない。誓って申し上げます。私たちは死するか生きるか、もはや死を賭して戦うのみであります。満天下の志士仁人公明盛大なる批判を下したまえ。」(大正14年1月2日)とあくまで持久戦を闘い抜く覚悟を決め全村あげて死力を尽くし奮闘した。農民側は、40名づつの赤襷隊を結成し、高瀬船に薪を満載しては岡山市内まで巡行して薪を売る行商をやり闘い続けた。岡山市民も同情し支援した。これは妨害する警官隊と小競り合いを繰り返しながらの闘いであった。一方女性たちも高瀬船で地主宅に押しかけては立稲毛仮差押え解除を要求しつづけた。
 岡山県聯合会も全力で支援体勢を取った。

(60名児童同盟休校)
 1924年12月25日からは、小作農民の子弟60余名が一斉に同盟休校に入った。争議団本部は児童の為に給食班、教育部などを設置し、昼間は、1、2、3年生は1か所に集まり手仕事や学習などをし、4、5、6年生には昼間は薪採を手伝わせながら夜間は公会堂で授業を行った。

(判事の調停)
 1925年10月12日、判事の調停により、「小作料の2割から1割5分減」(非公開)で妥協が成立し、4ヵ年に及ぶ深刻な小作争議がここについに小作側の勝利で終結した。



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