先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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警察署長のだましに数百の農民、カマなどを武器に決起、鳥取箕蚊屋地方7ヵ村小作大争議など 1927年の小作争議 (読書メモ)

2023年12月01日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

上・藤田農場争議   地主藤田男爵邸へ押しかけ応接室に座り込む岡山農民の女性たち(1927.11)


上・藤田農場争議  岡山より地主藤田男爵抗議のため上阪した女性たち(1927.11)

上・藤田農場争議、大阪の公会堂で訴える女性(1927年11月)

上・大阪の小作争議、「立入禁止反対闘争」で官憲に検束された農民(1927年)

警察署長のだましに数百の農民、カマなどを武器に決起、鳥取箕蚊屋地方7ヵ村小作大争議など 1927年の小作争議 (読書メモ)
参照「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研編

『よくよく村をかくまで不安に陥れたのは誰だ。苦しめられてもなお黙して忍ぶ農民を騒がせたのは誰の罪だ。』(日本農民組合山陰聯合会機関紙「農民新聞」)

鳥取箕蚊屋地方7ヵ村小作大争議
 1924年(大正13年)以来続いた鳥取県西伯郡箕蚊屋地方7ヵ村小作争議が、1927年(昭和2年)6月26日、ようやく解決した。
 60家の地主が7ヵ村の小作農民の要求を3年間も拒否し続け、農民組合弾圧のためにのみ「山陰土地会社」を設立した。1927年(昭和2年)5月31日、会社側は交渉決裂を宣言し未納小作料の強制執行と仮差押えを決めた。たちまち農地立入禁止攻撃に抵抗する農民組合のポスターが7つの村々の至るところに貼り巡らされた。6月6日大山駅前で地主・会社糾弾大演説会が開かれた。地主の暴虐に憤激し我等の団結と組織をもって我等の生存を身体をはって死守せんと誓い、立禁反対の決議文を発した。ついに血戦の火ぶたが切られた。6月10日夜数千枚のビラが7ヵ村すべての家々の塀、電柱に貼られた。
『天下分け目の今年の繭(まゆ)を取られてなるものか』と呼び掛ける悲痛な叫びのこのビラは、日頃は温順な農民たちの非道な地主・会社への腹の底からの怒りだ。

 裁判所に命じられた執達吏たちが今にも村を襲わんとしている。田植え期を目前に控え、全児童の同盟休校も決行された。6月11日から7ヵ村の児童は一斉に休校ストに突入した。農民たちは我が児童たちの勉強に役立てようと「争議ニュース少年版」も発刊した。地主非道なりの叫びは7ヵ村の地に満ちて農民とその家族の結束はいよいよ堅固になった。

(警察署長のだましと農民数百の決起)
 6月13日米子署長は争議団本部をわざわざ訪問し、いかにも和解的口ぶりで農民と接し、明日の協議を約束して帰った。ところが翌14日未明多数の警官隊を動員した執達吏たちが差押えの為、村を襲った。完全に署長にだまされたのだ。農民たちは、この露骨な裏切りに平素の温順を忘れ激昂した。かくして数百名の農民は一挙に立ち上がった。手に手にクワ・スキ・カマ・棍棒などを武器に、農民は次々と警察の自動車を襲撃し破壊した。警官隊も襲われた。指揮者の警部補にケガを負わせ、にっくき署長を川に叩き込んだ。その勢いは、ついで地主松井宅を襲いここも破壊した。とうとう執達吏の差押執行はわずか6件しかできなかった。残りの55件は近づくこともできなかった。

 日本農民組合山陰聯合会機関紙「農民新聞」は言う。
『よくよく村をかくまで不安に陥れたのは誰だ。苦しめられてもなお黙して忍ぶ農民を騒がせたのは誰の罪だ。』と。

 一方地元地主の御用新聞は、農民を中傷誇張する逆宣伝を行い、警察による農民弾圧・検挙を煽った。農民組合はこれらあらゆる圧迫と闘争を続けながら争議批判演説会を成功させ、更に7ヵ村農民大会を開催し、政府に抗議文を叩きつけた。
 6月26日、差押え阻止、小作料大幅減額などの成果をあげる調停が成立したが、争議解決後、警察の大弾圧を受けた。

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1千名農民が駆け付けた岐阜山添村の小作争議
 場所 岐阜県本巣郡山添村
 争議期間 1925年(大正14年)11月17日~1927年(昭和2年)12月6日解決
 1925年(大正14年)、岐阜県本巣郡山添村の小作農民48家は仲秋小作組合を結成し大和農民組合に加盟し、11月17日に地主側8家に同年小作料の2割減を要求した。しかし地主側はこれを拒絶し、かつ1926年2月末までに小作料(米)を納めることを通告し、納米がない場合は直ちに小作契約の打ち切りを行うことを厳達した。地主のこの強硬姿勢に対し、小作側は固く団結して、小作米を共同保管にし、1926年3月それを売却し軍用資金として持久戦に入った。地主側は小作料の請求訴訟を起こし、ついで同年8月には農民側に賃貸契約解除を通告すると共に土地返却請求訴訟をしてきた。

 小作農民側はますます団結を強くし、1926年は小作料3割減を要求し闘いを続けた。地主側は同年12月仮差押え、1927年10月16日には債権保全の目的とする稲毛の仮差押えを執行してきた。11月19日執達吏が現れ、小作農民に小作米の買い取りを求めてきたが、交渉は決裂した。11月22日裁判所は小作米を地主側の主張通りの金額で地主に売却し、24日地主側は稲の刈り取りを強行しようとしてきた。
 数十名の小作農民とその家族の闘いに、近在の農民組合員が続々と応援に駆け付け、24日夕方には約600名に達し、夜分に入っては優に1千名を越え気勢を挙げた。その夜は600名の組合員は近くの村々に分宿して地主側・官憲と対峙した。

 同夜10時半頃一人の地主の家の納屋が全焼し、家の門も半焼した。

 あわてた小作官は斡旋に尽力し12月6日、調停が成立し、小作料減額問題も解決した。農民側は規定の小作米を納め、地主側はすべての訴訟を取り下げた。

以上



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