先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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上海中国人労働者20万の大決起 ! 五・三〇闘争 1925年主な労働争議 (読書メモ)

2023年01月02日 08時00分00秒 | 1925年の労働運動

五・三〇事件のポスター

銃殺された顧正紅さんの立像

顧正紅記念館

動画 五・三〇事件

上海中国人労働者20万の大決起 ! 五・三〇闘争 1925年主な労働争議 (読書メモ)
参照「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋
  「日本現代史5」ねず・まさし 三一書房
  「5.30事件と上海在留日本資本の対応 : 上海日本商業会議所を中心に」山村睦夫 和光大学リポジトリ(https://core.ac.uk/download/pdf/295360139.pdf)

上海中国人労働者20万人の大決起 ! 五・三〇闘争(1925年)
(孫文死す)
 孫文の率いる中国国民党は中国共産党と合作し、1924年11月に北京宣言を発し、中国に民主共和政体をうちたてるために奮闘し、中国人民もこれを熱烈に支持しました。しかし1925年3月12日、孫文は「革命いまだ成功せず、同志よ奮励努力せよ」の遺訓を残し急逝します。

(上海租界、日本資本紡績工場に於ける中国人労働者の内情)
 上海の租界には、中国に進出している日本資本のほとんどの紡績工場8社39工場(中国人労働者数63,000名)が集中していました。ここでの中国人労働者は、昼夜2交代の12時間労働で、夜勤の手当もなく、社内貯金など不当な天引きも強いられ、工場では10歳に満たない幼年の女工も粗末な食事で働いていました。

「男女工の生活は均しく困難を極め…家族扶養の義務ある者に至りては其生活状態は殊に凄惨を覚ゆ 彼等は破屋に多数家族住居し甚だしきに至っては小部屋に数家雑居し蚕架の如くに床を設く食物は極く粗悪にして1人1ヶ月の食費は45元に過ぎず…一日働かざれば食を得ること能わず」という状態でした。中国人労働者を憤慨させたもう一つの問題は日本人職制による中国人への侮蔑、とりわけ「殴打」問題がありました。どこの紡績工場でも日本人の管理職や職制が中国人労働者を殴打しました。殴打は表向きは社内規則などで禁止されていましたが、上海の日系紡績工場では日本人による中国人への殴打は日常的にありました。みんなの面前で殴打される側の屈辱の思いはいかばかりか、民族的怒りとなり爆発するのは誰の目にも明らかでしたが、侵略する側、加害の側には「殴打」がもたらす事態の深刻さは全く理解されていませんでした。

(上海 内外綿紡績工場のストライキ)
 1925年2月、日本資本の「内外綿紡績工場」第8工場で日本人職制が中国人労働者に暴力をふるったことに抗議する大争議が勃発します。ところが内外綿工場は殴られた中国人労働者に謝罪するどころか、逆に中国人労働者10数名を不正を働いたとでっち上げてクビにしてきます。これに怒った中国人労働者は日本人職制3名に暴行します。工場側は今度は中国人男性労働者全員をクビにし、代わりに中国人女性労働者に置き換えます。クビにされた全中国人労働者はますます激怒し、以下の決議をします。
 要求書
 ①中国人労働者を殴った日本人を解雇すること(また日本人の殴打を禁止させめこと)
 ②賃金1割値上げ
 ③解雇された労働者の復職
 ④賃金を2週間毎に支給
 ⑤理由なく解雇するな
 ⑥12時間労働の廃止
などを要求を決議し、「内外綿」各工場の中国人労働者15,000名は、中国人労働者を人間として扱えと2月9日よりストライキを敢行します。

(上海中に拡大するスト)
 内外綿紡績工場のストライキは、たちまち上海中の日本資本紡績等の工場へと一挙に拡大します。
 日華紡績、大康紡績のストライキへと拡大し、2月15日には豊田紡績がストに突入します。ここでも日本人職制が中国人女性労働者の腹を蹴り怪我を負わせるという暴行事件が起き、怒った中国人労働者は暴動を起こし、日本人職制3名の重傷者がでます。20名の中国人労働者が検挙されます。その後同興紡、裕豊紡とストは一段と拡大します。

(日本政府軍隊で威嚇)
 日本政府は、軍艦対馬を上海港に向かわせ中国人労働者を脅します。2月26日には在上海日本紡績資本側と罷工団の労使協議で争議は一旦は解決します。しかし、3月3日に内外綿第3工場で再びストライキが勃発し、更に内外綿7、8、12工場のストと波及します。3月18には裕豊紡績にも拡がり、ついに上海6社22工場の中国人労働者3万人が一斉にストライキを敢行するゼネスト状態となります。

(福州虐殺事件)
 1925年4月8日、中国福州の学生がアメリカの中国に対する教育に怒り役所に徹夜で座り込みます。警官隊や軍閥の軍隊が発砲し、死者7名、重傷者数十名を出し、これは「福州虐殺事件」と呼ばれ、中国人民の大きな怒りを招きました。それに続いての青島・上海の闘いとなります。

(青島日本資本紡績工場中国労働者の決起)
 1925年4月青島にある日本資本の「大康紗廠」で大ストライキが勃発します。工人会(労働組合)の組織化を弾圧する会社に対し、中国人労働者は、「工人会(労働組合)の承認」「賃上げ」「食事時間を1時間にすること」「労災の保障」「日本人の殴打の禁止」などを要求し宿舎にろう城しました。

(4.21大デモと軍閥・日本軍の弾圧)
 大康紗廠の闘いは、内外綿工場と日清紡工場に飛び火し、4月21日に大デモが起きます。両社は労働者60名をクビにしよとします。日本の手先であった軍閥は軍隊でストを弾圧し、一旦は争議を暴力的に解決させます。しかし、5月28日、青島の日本資本の紡績工場労働者はがストの解決条件を無視し、「工会(労働組合)を解散させろ」と中国官庁に押し寄せます。軍閥の官庁は労働組合の解散を命じます。これに怒った大康紡績の中国人労働者7千名が工場を占拠し暴動へと発展します。日本政府は旅順から駆逐艦二隻を派遣しストライキに脅しをかけます。4月29日夜半に軍閥の軍隊1600名が工場を襲撃し、死者8名、重傷者十数名、検挙者70名の犠牲者を生み、日本資本の各社はスト労働者500名を解雇し、警官は労働者200名を検挙します。労働者約1千名は逃亡しました。中国全土で「打倒帝国主義!」と日本資本と軍閥への怒りの声が起きます。

(中国総工会結成)
 5月1日、広州で第二回全国労働大会が開かれ、中華全国総工会(労働組合)が結成されます。

(会社側発砲、労働者顧正紅さんが銃殺)
 5月15日内外綿紡績工場のスト中の中国人労働者に向けて会社側が銃を発砲します。多くの中国人労働者や学生が逮捕されます。中国人労働者が多数負傷し、翌日、撃たれた内の一人の労働者顧正紅さんがついに亡くなります。

(五・三〇闘争)
 5月30日、上海共同租界工部局で逮捕された学生の裁判が開かれ、上海中の各校の学生2千名が決起し、共同租界に押しかけ、大通りで「日貨放棄」「対日経済絶交」のビラを撒いたり、演説を始めます。イギリス人警官は次々と学生たちを検挙し留置所にたたき込みますが、1万人中国民衆が警察署を包囲し口々に「打倒帝国主義」と叫びます。イギリス政府に雇われたインド人巡査が発砲し、死者15名、重傷者15名をだします。上海中の中国人労働者、学生、市民が怒り決起します。上海港の荷役労働者も作業をボイコットします。日本資本工場39カ所、スト参加中国人労働者6万3,000余名、英国資本工場26カ所、同3万6,000名、その他各外国系工場35カ所、同2万7,000名など全上海を飲み込む未曾有の大ストライキとなります。

(上海総工会結成)
 5月31日、労働者80万人による上海総工会(労働組合)が結成され、6月1日には上海中の労働者20数万人、学生5万人が総決起し警官らとぶつかります。日本の義勇隊が機銃を撃ち4名が殺され、多数の学生が逮捕されます。上海中の工場がストライキに突入します。租界内の商店もすべて同盟休業に入ります。ストライキに入った工場は119ヵ所、ストに参加した中国人労働者は21万8千名に達します。

(戒厳令と日本軍陸戦隊上陸)
 日本政府は、上海義勇隊を非常召集し、日・英・米の外国海軍司令官会議を開き、上海共同租界に戒厳令をひき、日本軍陸戦隊を上陸させます。各国の陸戦隊も上陸します。軍艦安宅・龍田と駆逐艦4隻も入港させます。さらに軍閥軍3千名が増派されます。戦争さながらの軍隊を使っての大弾圧です。「日本・英国帝国主義打倒、不平等時条約廃除」と叫ぶ中国民衆と外国軍隊などとの衝突が連日起き、更に多くの死傷者がでます。この時、上海日本人婦人会は日本軍陸戦隊などへ慰労金募金を行っています。

(中国各地の決起)
 6月7日、上海総工会、上海学生連合会、上海各街商業連合会ら4団体は工商学連合会を組織し共闘を始めます。6月11日、20数万人の上海市民大会が開催され、対日本・イギリス経済との絶交決議をします。また、外国軍隊の撤兵や責任者の処罰、損害賠償、領事裁判権の中止など17項目の決議をします。上海の闘いはたちまち北京に飛び火し、北京での20万人の国民集会と5万人の学生デモが巻き起こり、いずれも軍と警官と衝突し、さらに漢口、青島、開封、杭州、、重慶、広東、南京、天津、済南、香港などに拡がります。香港では10数万名の労働者が一斉にストライキをして広東に引き上げてしまい、香港は一時死の港と化します。

 6月23日には広東で立ち上がった中国民衆に英水兵が発砲し、多数の死傷者がでます。これに怒った中国全土で反英闘争、対英ボイコット闘争が起き、この闘いは17カ月間も続きます。7月には共同租界内の中国商店も一斉にストライキに突入します。上海紡績第1工場でもストライキが起き、内外綿工場ではスト労働者が警官と衝突し、ここでも労働者が射殺されます。在中国紡績工場でストライキが勃発します。

(米国陸戦隊と衝突)
 7月26日戒厳令司令部が抗日運動抑圧の布告をします。8月7日には米国陸戦隊が闘う中国民衆と衝突します。

(日中労資の協議)
 6月6日から、日本側と中国側の労資交渉が開始されました。
 上海総工会らの中国側からは、
 一、労働者を射殺した者を裁判にかけ処分すること
 二、死傷者への弔慰金をだすこと
 三、日・英公司の中国政府への謝罪
 四、租界における中国人の言論、出版、集会の自由
 五、外国資本の工場で中国人を虐待しないこと
 六、労働組合結成とストの自由を認めること
 七、上海からの外国軍の撤退
 八、賃金2割値上げ
 九、工場の職制・監督の武器の携帯禁止
 十、スト中の賃金支給
など13か条の諸項目が呈示されました。
 
 これに対し日本側は、内外綿が顧正紅ほか死傷者の遺族一同に弔意金1万元を支払うことを約束しますが、それ以外は、他社にも重大な影響を与えるとして受け入れを拒絶し、交渉は容易に進捗しませんでしたが、交渉が長引くなかで、在留日本資本のなかには工会(労働組合)を承認することをも含め早期妥結要求の声が強まり、日本政府は内外綿の弔慰金支払い=涙金贈与を速やかに実行に移し相手の矛先を鈍らす一方、工会問題や労働条件などは交渉を長引かせつつ妥結を目指す方針を打ち出していき、その反面戒厳司令部は7月は23日に布告を出し、工商学連合会、海員工会(組合)、洋務工会(組合)の3団体を封鎖するという卑劣な弾圧を強行してきます。

(調印と強圧)
 8月12日の正式調印
 解決内容は、死傷者への慰謝料の支払いと発砲職員の自発的処分(転勤・2名解雇)のほかは、①工会(労働組合)については中国政府の工会条例による工会が職工代表権を有する事を承認する(直接には承認はせず)、②スト中の賃銀は支給しないが「善良ナル職工」には同情措置をとる(10万円支給)、③各人の賃銀は技術進歩の程度により増額する等、玉虫色ともいえる取り決めでした。
 しかし、軍閥戒厳司令官は、9月18日、軍隊で総工会(組合)を封鎖し、潜伏していた総工会幹部も逮捕し、学生会や各商会も解散させられ、9月28日には最後まで闘っていた英国系紡績工場のストライキも終結します。

(神戸・横浜港で中国人船員連帯スト)
 中国本土における5.30闘争に連帯し、神戸・横浜港で中国人船員の大量な連帯下船ストが起き、その数1,300名に上っています。

(日本海員組合長樽崎猪太郎の日本人船員への檄文「罷業破りの恥をさらすな」)
 神戸・横浜港中国人船員の連帯ストに対し、日本海員組合長の樽崎猪太郎は、「血と涙をもって日本海員に檄す」とする「日本海員よ、祖国の為に身命を賭し、異境において本国の罷業団と呼応し、孤軍奮闘続々下船する隣邦支那海員の悲壮なる光景を見よ。仮令飢ゆとも、断じて罷業破りの恥をさらすな。海国日本の名誉のために断じて罷業破りの汚名を取るな」との檄文を全海員組合員にくばると共に、神戸の中華会館にろう城している下船中国船員1千余名を慰問し、カンパをおくり、また日本海員がスト破りに雇われないよう海員組合員に指令をだします。この時雇われたスト破り船員は日本人船員は1,105名いましたが、海員組合員は一人もスト破りには参加しませんでした。

(日本労働組合評議会)
 5.30闘争を知った日本労働組合評議会は、ただちに上海総工会に激励電報を送り、各地の組合大会で中国労働者弾圧に対する抗議を可決しカンパを集めます。大阪地方評議会創立大会は、中国問題を取り上げて不当にも解散を命じられています。評議会は「対支非干渉」をスローガンと決め、以後このスローガンは我が国労働組合運動における主要なスローガンとなります。また神戸地方評議会は連日中華会館を訪問激励し、中国船員と盛んに交流します。また三田村四郎、山本県蔵の2人を上海に派遣します。2人は日本労働組合を代表として上海総工会の秘密本部に行きカンパを渡し、またストライキ中の大デモに参加し、中国民衆に向かって大アジテーションの演説をします。三田村は帰国するとすぐに拘引され取り調べを受けます。

(日本労働総同盟)
 4月の青島・上海のストライキについて、日本労働総同盟は外務省アジア局長を訪ね、中国人労働者のストライキに日本が武力で干渉・鎮圧することに断固抗議する申し入れを行った。また関東労働組合会議は支援決議を行い、罷業団に応援電報を送り、演説会を開き、応援派遣を決め、政府へ「武力干渉の中止、支那官憲威力干渉中止、日本資本家の横暴膺懲」を申し入れた。6月7日批判演説会を開いたが、司会者の発言中に解散が命じられた。印刷工連合会延島英一と市電自治会石毛留吉の2名が上海に潜行したが検挙された。

 日本労働総同盟は機関紙『労働』6月15日号で「わが国無産階級と支那の民衆運動」をかかげ、
「日本が柄にもなく欧米列強の尻馬に乗って、旧式な侵略主義を続けるならば、日本はとんでもない運命に陥るにちがいない。われわれは日本の支配階級がしんに時勢を知るならば、この際、大胆なる方向転換をおこなうて、帝国主義を捨て、英米の尻馬に乗ることをやめ、国家の内政外交を民衆化し、支那に対しては英米仏よりはなれた独自の新しい立場を持って、共存共栄の大計を立つべきである。」と日本政府を批判しています。

(顧正紅記念館)
2008年5月30日「五・三〇」運動83周年を記念して、顧正紅記念館が完成し、一般公開されました。



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