写真・渡辺政之輔
南葛魂(たましい) ! と渡政(わたまさ) (読書メモ)
参照
「渡辺政之輔とその時代」加藤文三
「日本共産党と渡辺政之輔」恒川信之
南葛労働運動の第一歩
【1919年5月6日全国セルロイド工組合」(新人セルロイド職工組合結成】
1919年2月には東京亀戸の永峯セルロイド工場に渡辺政之輔・出井喜作・庵沢義之を中心とする分会を設け、これが「新人セルロイド工組合」(全国セルロイド職工組合 / 同年5月6日結成)に発展した。
【渡政(わたまさ)】
仲間たちから渡政(わたまさ)と呼ばれたセルロイド工場労働者渡辺政之輔は、1899年9月7日千葉県東葛飾郡市川町根本(現市川市)に生まれた。1917年のロシア革命と18年の米騒動に刺激を受けた渡辺は、この頃「民衆の中へ(ヴ・ナロード)」を合言葉とする東大新人会の宮崎龍介(父は宮崎滔天)らと自分の工場東京本所の永峯セルロイド(380余名)で労働組合作りを始めた。渡辺は、職場の庵沢義夫と出井紀作の3人で、最初に職場内の同人雑誌をガリ版刷りで発行。また、労働者全員に呼び掛けた「八木節大会」を亀戸普門院近くの長楽館という寄席を借りて行った。八木節大会には永峯セルロイドの労働者ほぼ全員が集まった。その後も新人会と永峯セルロイド労働者の座談会が行われ、労働者の多くが味方についた。
【「全国セルロイド工組合」(新人セルロイド職工組合】
1919年5月6日、永峯セルロイドの労働者と同業の四つ木・日暮里・亀戸のセルロイド工により「全国セルロイド工組合」(新人セルロイド職工組合とも呼ばれた)が結成された。場所は亀戸香取神社前の寄席大栄館である。永峯セルロイドの労働者100余名と亀戸・四ツ木・日暮里のセルロイド工が参加した。7月29日組合は永峯セルロイド工場主に対して「賃金5割増、8時間制実施」を要求し示威行動や演説会を開催し、1日だけのストライキで3割値上げを獲得勝利した。セルロイド工組合は葛飾の四ツ木と上野の日暮里にも支部ができた。四ツ木支部長は加藤高寿で、日暮里支部長は岩内善作である。「全国セルロイド工組合」は友愛会に加入した。こうして南葛労働運動の第一歩がはじまった。
1922年南葛労働協会設立、翌23年には労働組合「南葛労働会」となった。渡辺政之輔は理事長となり、亀戸、吾嬬、大島、小松川の4支部もできた。東京ゴム組合も南葛労働会に参加した。南葛労働会は自分の争議だけでなく、他の組合のストライキ支援を総力を挙げて応援した。遠い千葉の野田醤油争議にも交通費を節約するため亀戸から徒歩でデモをしながら応援に駆け付けた。
【暁民会】
南葛労働会には暁民会の会員が多数参加していた。暁民会の特徴は朝鮮人、中国人が会員として参加し、ここには「日本・朝鮮・中国」のインターナショナルが実現していた。かの朴烈も参加していた。
【南葛魂】
全国の労働者から敬愛の念で「南葛魂」と呼ばれた南葛労働運動とは。
「(南葛労働会は)精かんにして統一ある行動をもって、あらゆる労働者の闘争の最前線に立つ事を期した。さらば南葛労働なる名は、全国の闘争的な労働者、農民の渇望の的となり、宛然その中心をなすかの如くであった。支配階級がこの一握りの労働者団体を最大の仇敵視していた理由はここにある」「革命的理論に根差した固き信念を持ち、行動において最も勇敢であり、犠牲的、献身的であるところの革命的労働者の一種の風格が養われた。『東部の闘士』、後には『合同の闘士』と言えば、革命的労働者の代名詞のごとく使われ、今日共産党事件で牢獄にぶちこまれている多くの労働者党員が獄中よりの消息に、いずれも『南葛魂』『南葛精神』と称して自らの革命的信念を表現しているのを見ても、かの精神的感化力がいかに偉大であったか」(斉藤久雄筆名藤原久)。
【学習会、組合員自身が互いに教師となり生徒となる】
「組合員自身が互いに教師となり生徒となる」研究会を重ねて熱心にマルクスを学んだ川合義虎(南葛労働会三羽烏のひとり、亀戸事件で虐殺された)は、「我々はまず思想的に支配階級的教化から独立しなくてはならぬ。労働者自身の把握せる労働者自身の知識は階級闘争の武器である」と口々に言い、組合は共産党宣言、資本論、唯物史観などの研究会を頻繁に開き渡辺政之輔を先頭に皆一生懸命勉強した。その研究会の方法は 「組合員自身が互いに教師となり生徒となる」やり方であった。
【1923年第一次共産党弾圧事件】
6月5日午前4時警視庁特高百数十名により日本共産党80人が逮捕され、堺利彦、山川均、荒畑寒村、市川正一らと渡辺政之輔ら29名が治安警察法違反で起訴された。
【亀戸事件】
1923年9月の大震災で多数の朝鮮人・中国人が虐殺され、さらに支配階級は、最大の仇敵視していた川合義虎ら南葛労働会の同志ら8人と平沢計七ら2名の計10名と大杉栄一家を魔の手により虐殺した。渡辺は獄に入っていたため亀戸事件の難は危うく逃れたが、支配階級が命を一番にねらっていたのは間違いなく彼だった。
【東京合同労働組合】
渡辺政之輔は1922年結成された共産党に入党、1923年6月5日第一次共産党弾圧事件で逮捕。同年12月に市ヶ谷刑務所を仮出獄した渡辺政之輔は1924年2月に亀戸事件犠牲者合同葬をいとなんだのち、2月22日南葛労働会と江東自転車組合を合同し「東京東部合同労働組合」を60名で結成、総同盟に加盟した。渡辺政之輔は日本労働総同盟内左派の中心人物として活動。総同盟分裂後は「日本労働組合評議会」のリーダーとして、北部合同、南部合同平塚支部(のちに西部合同も)の加盟を得て「東京合同労働組合」(800名)と改称した。多数の青年労働者が、この「東京合同労働組合」に全国から続々とさせ参じた。山花秀雄も神戸から上京して1924年に加入している。以後「東京合同労働組合」は多くのストライキを組織・指導・支援している。徳永直の『太陽のない街』で有名な1926年小石川本郷の共同印刷争議、1月から3月の2300名によるストライキ(検挙延べ数1500名、勾留500名)や日本楽器などにおける労働争議を指導した。渡辺は党再建(第二次共産党)後、中央委員に選出され、ソビエト連邦に派遣されコミンテルンによる27年テーゼの作成に参加した。帰国後、党書記長に選出された。
【渡辺政之輔の朝鮮人民との連帯(1923年4月「赤旗」創刊号「無産階級から見た朝鮮解放問題」から)】
「われわれ日本の無産労働者は朝鮮の無産階級を援けねばならぬ。朝鮮に対して一切の隷属的あるいは圧迫的企図を廃絶すること朝鮮の全土から軍隊、憲兵、警察を撤廃すること等の要求をわれわれ日本のプロレタリアはブルジョワ政府に向かって提出し、その実行をさせなければならぬ」。同じく朝鮮の放棄を要求したのは、堺利彦、坂口義治、縄喜助と南葛労働会の川合義虎であった。
渡辺は、1928年10月台湾の基隆港で官憲との銃撃戦のすえ自ら死んだ。29歳であった。
南葛の歌(メロディ)http://www.utagoekissa.com/utagoe.php?title=nankatsunouta&type=mp3
【詞】豊島まつ子氏の記憶から
【曲】無産者診療所の看護婦さんたちの記憶から採譜
「メロディは亀有と大崎にあった無産者診療所で看護婦をしていた豊島まつ子、中川ワカ、砂間あき、奥谷キヨシの演唱によった。」とあります。
1.
見よ断末魔せまり来て
壊滅近し資本主義
わが南葛のたましいを
熱と力で守り行け
2.
闘いここに幾とせか
歴史をくれば血の頁
亀戸の森に同志らの
未来をつぐるいけにえの
3.
血しお吐いて階級の
勝利間近にせまる時
暴虐のあらしふきすさび
獄屋にうめく数百名
4.
断頭台を血ぬるとも
かばね越えて我等ゆく
わが光輝ある同志らの
伝統いかで失すべき
5.
やがて勝利の栄光に
紅もゆる赤色旗
わが勇気ある同志らの
血潮で色どる新社会
南葛労働者の歌(YouTube)