先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

石川島造船所争議 1922年主要な労働争議④ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)

2021年10月31日 06時00分00秒 | 1922年の労働運動

石川島造船所争議ビラ(1921年)

石川島造船所争議 1922年主要な労働争議④ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)

石川島造船所争議 
 東京市京橋区の石川島造船所は、前年1921年のストライキ終結以降、造機船工労組合約2800名に対し次々と圧迫と攻撃を加えてきていた。特に<軟派>労働者と会社が密かに交わした契約書の中身はひどいものであった。

1921年12月20日付の契約書
一、一般職工(軟派)が造機船工労組合から被害を受けた場合には、170日分の5倍の手当を支払う
一、川崎・三菱造船争議では、多数の決議で少数を圧迫したが、石川島造船所においては、多数にだけ頼らず少数意見も認める
一、会社の外で、一般職工(軟派)が造機船工労組合から被害を受けた場合でも、その責任は会社側で負う

 造機船工労組合に入らず、あるいは脱退した者には、会社の中でも外でも組合から被害を受けたとしても、会社が一般職工(軟派)に莫大な金を出して補償してやるから心配しないでいいからどんどん脱退しろ。仮にストライキになった時も決して多数組合の意見など聞かないで、君らの意見を尊重する。という露骨な買収攻撃。これを知った造機船工労組合約2800名が激怒するのは当然であった。また、1922年5月9日、一組合員が一伍長と口論したことで即時に解雇された。これ以前にも、もう一人の組合員が残業を断ったとたんにな解雇されたこともあった。軍縮問題に伴う大量解雇・失業への予感・不安が高まる中で、造機船工労組合員の闘う姿勢は高まっていった。

 5月12日正午、造船部造機部の労働者2500名が造機工場に集合して、「一、会社が12月20日軟派職工と交わした契約書を撤廃すること、一、不当解雇者を職場復帰させること、一、笠原伍長・神野頭目を解雇すること」を決議し、5名の代表を挙げて会社と交渉を開始した。15日午後4時、田中営業部長は組合の要求全部を拒絶する回答を発表した。鳴りをひそめて事態を見ていた全労働者は16日午前11時半より開いた全職工大会で、この会社回答が報告されるやいなや、あくまで要求を貫徹するために奮闘しようと決議した。17日も全職工大会が開かれ、その午後には「サボタージュ闘争」状態になった。
 
 会社内田支配人は、17日午後4時、食堂に200名の職制・組長を召集して次のように明言した。
「工労組合ができてからというものは何彼につけ会社に反対したがって困る、善良な職工もこれのために仕事が妨害させられることになるから、会社としてはそうした仕事を好まない職工は退社してもらわなければならないし、退社を肯ぜぬ者は、あたかも茂って困る雑草の様なものであるから、どしどし刈り取ってしまわねばならぬ。そうして会社のために働いてくれる心あるものだけでこの不景気に対処していかねばならぬ」

 それと同時に、会社は造機船工労組合幹部労働者16名に、速達郵便で解雇通知を送った。

 17日午後7時、労働組合同盟会は緊急代議員会を開き、交通労働組合、造機船工労組合、日本鉱夫総同盟、純労働者組合、日本機械技工組合、時計工組合、正進会、信友会、啓明会の代表が集合し、「会社の態度には全然誠意がない、われわれ同盟会所属各組合は全力を尽くして(石川島労働者の闘いを)援助する」と申し合わせた。

 しかし、会社の姿勢はあくまで強硬で、警察による弾圧体制も極めて強く、かつ昨年のストライキに被った労働者の傷もいまだ癒えない中、製罐工場内の造機船工労組合の幹部20余名は、造機船工労組合高山理事長に自らの幹部辞退を提出してくるなど労働者の中の動揺が拡大し、団結の足並みも乱れてきた。組合側の作戦はことごとく裏切られてしまった。
 
 19日、午後7時より月島労働会館に8工場70名の組合幹部会が開催され、解雇された労働者がそれぞれ悲憤の涙をしぼり発言するなど真剣な討議を行ったが、『昨年の争議後まだ幾年もなく遺憾ながらこの際は穏忍し他日を待とう』という高山理事長の意見に皆が賛同し、こうして1922年石川島造船所争議惨敗の幕は一旦閉じた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。