先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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大阪鉄工所争議 1922年主要な労働争議⑤ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)

2021年11月01日 07時00分00秒 | 1922年の労働運動

大阪鉄工所組合代表2名の解雇発表(1922年6月1日)

大阪鉄工所争議 1922年主要な労働争議⑤ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)

大阪鉄工所争議
 1922年5月27日、大阪造船労働組合と大阪機械労働組合の労働者大会が開催され、大阪鉄工所(2700名)の解雇手当、退職手当の値上げ等の要求が決定し、数日後には会社に提出された。会社はこの要求を全面的に拒絶してきたばかりか、造船・機械組合の代表者長谷川義孝と大杉捨吉の二人を「職場でビラをまいた」(上の会社掲示文)とめちゃくちゃな難癖をつけ解雇してきた。労働者側は会社の対応に怒り、さらに新たな要求として「職工長の公選」と「暴風などで臨時休業する時も賃金全額支払え」を会社に突き付けた。
 
 6月5日、会社は突然『職工の反省するまで臨時休業とする』と工場を閉鎖した。労働者側は工場広場で抗議の示威演説会を連日開催したが、官憲の弾圧によって3日で中止させられた。10日夜、天王寺公会堂において大阪鉄工所糾弾演説会を開き、「我らは今日まで合理的に戦ってきたが、しかし合理的運動は行き詰まった。もうこの上は決心しなければならぬ」「官憲は資本家の走狗だ」と宣言し、『最後の一人まて闘うのだ』と決議した。その夜なだれを打って場外に出た群衆はそのまま山岡社長宅を襲撃しようとして10数名が検束された。12日夜にも200余名の一隊が重役宅を襲おうと警察隊と衝突した。ここでも再び10数名が検束された。13日は、一切の市内での示威運動が禁止されているため、労働者は「汐千狩」として桜島海岸に集結した。その夕刻争議団本部が大量な警官隊に包囲され、53名が検束された。

 会社は、6月27日から工場を再開すると表明した。労働者はただちに職工大会を開き、『我らは会社が反省するまで絶対に入門しない』と決議した。6月26日、工場再開の前日争議団幹部120名に解雇状が発送された。

 27日未明より争議団は要所要所にピケットラインを敷き入場者阻止をはかった。この日の入場者は全労働者2700名中、わずか250名だけだった。28、29日には入場する労働者はもっと少なくなった。29日、再び天王寺公会堂で会社糾弾演説会を開き、その夜500余名の労働者部隊が再び山岡社長自宅を襲うとして、警官の一隊と大衝突し、ここでも6名が検束された。

 多くの検束者や家計上の苦痛による悪戦苦闘は労働者の結束を徐々に弱めていった。時も時、同じ大阪の伸銅工組合の瓦解を誘った住友伸銅所の争議の惨敗は、大阪鉄工所労働者に大変なショックを与え、いたく士気を失わせた。7月4日天王寺公会堂において、闘う議論が沸騰したが、ついに『我らはこれ以上戦うことの不利なるを認め軍を戟(ほこ)し、7月5日より就業す』と決議した。大阪鉄工所争議は労働者の敗北に終わった。



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