先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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写真集 野田醤油争議現地訪問

2023年09月29日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動




写真集  野田醤油争議現地訪問

 今後の予定として戦前最長のストライキ、1927年の千葉の野田醤油争議を学んでいきたいと考えています。この写真集は2016年8月11日、東部労組菅野委員長に案内してもらった時のものです。待ち合わせの東武鉄道野田線の野田市駅に降りた時、醤油のにおいがします。常々、野田市駅から醤油のにおいがすると聞いていたので少し感動です。
 上の2枚目、1927年当時の地図左上に江戸川です。この江戸川に沿って野田醤油第八工場、第九工場、第十三工場、第十四工場、第拾工場、第十二工場、野田病院(野田醤油が経営していた)とあります。町役場と北総鉄道野田駅を結ぶ通りは料理屋、酒屋、旅館等が軒を並べ、芸妓家も何軒もある繁華街です。野田駅のすぐ近くに茂木一族の豪邸が並び、目の前には野田醤油本社と広大な第一工場、大通りには多くの商店が。野田商誘銀行もあります。右下には争議団本部とした野田劇場もあります。野田町、ここは1万8千人もの醸造労働者とその家族が暮らすまさに労働者の町でした。この広大な地域全体が野田醤油の町であることがよくわかります。

 愛宕神社の境内広場は、1921年(大正10年)12月15日、小泉七造に率られた300名労働者が日本労働総同盟野田支部の発会式を挙げた記念すべき所です。翌年2月24日、今度は会社が労働組合をつぶす為の御用団体の発会式を同じ愛宕神社の境内広場で労働者400名を集めて行います。しかし、この御用団体の発会式に参加していた労働者が決起します。同時に神社の外からは小泉七造を先頭に300名組合員が一斉に柵を飛び越え怒涛のごとく発会式の中へ突進します。広場に労働歌と怒号が飛び交う中、敢然と一人壇上に駆けのぼった小泉七造は大アジテーションをします。聴衆はこの演説に拍手喝采で応え、発会式はめちゃくちゃになり流れてしまい、ほどなく御用団体は潰れます。こうして野田醤油の労働者全員が組合に加入します。野田醤油16ある工場の1,600名が組合員となります。野田支部は、その後何度も果敢な争議やストライキを経験し、1927年の216日に及ぶストでは、争議団の家族や同盟休校した児童たちが「争議勝利祈願」のためこの愛宕神社境内に何度も集まっています。この広場はすごい広場なのです。100年後の労働運動に生きる自分たちがここに立っていることにも確かな縁を感じうれしかったです。

 泊まっていた右翼を争議団が襲撃して撃退した和泉屋旅館もありました。女将さんが和泉屋旅館のゆかりの歴史をまとめた小雑誌を下さいました。野田醤油株式会社の旧第17工場跡は、今キッコーマンむらさきの里もの知りしょうゆ館です。第17工場は1925年(大正14年)に竣工した日本一の近代的醤油製造工場でした。会社は、ここで働く労働者を新しく採用する際に「労働組合に絶対に入らない」と誓約させ、推薦者は町長や村の有力者に限るなど、1927年からの労働組合との決戦に向けての万全の体制の一つとしての新工場竣工でした。1927年の総ストライキがはじまるや争議団は当然の事として第17工場の労働者にストに参加するように、組合に入るように、強力な運動をはじめます。連日300名を越える組合員が第17工場を包囲してピケッティングを闘います。会社側のならず者や暴力団が争議団のピケ隊を襲撃してきます。乱闘騒ぎは毎日のようにおきます。しかしスト10日目ピケは破られ第17工場はついに生産を再開し、総ストライキの一角は大きく崩れます。そんな場面を想像しながらの旧17工場見学は中々刺激的でした。皇族へのご用達醤油を保存する御用蔵は赤い欄干の橋があります。どっしりした御用蔵を眺めていると争議の最後の局面、1928年3月20日に勃発した争議団副団長による天皇直訴事件が頭をよぎります。彼は直訴事件の前の日は我が葛飾柴又帝釈天の旅館に泊まっています。なにより野田醤油の直訴事件の5日前にあの有名な全国1,568名が治安維持法違反で一斉検挙された3.15事件があります。3.15が総同盟松岡らをビビらせないわけがない、野田醤油ストの急転直下の終結に影響を与えないわけがないなど等々考えます。構内に表示されている野田醤油の歴史年表では戦前の「争議」は見事に全部抜けていますが、戦前野田醤油が朝鮮半島にいくつもの大工場を作り進出していたことはしっかりと記述してありました。見学者には無料で醤油セットが配われ、ありがたく頂きました。
 
 写真集の終わりの「ロマネスク」様建物は、1927年の大争議が終わった直後、協調会の指導もあり労働者への懐柔のため急遽建てられ、労資協調のシンボルとした興風館です。掲示文の冒頭の「茂木、高梨の醤油醸造家は、常に報恩の心をもって地域の人々に奉仕を続けておられた・・」には唸りました。ヒロシキ(タコ部屋)で有名な当時の過酷な醸造労働者の労働環境、殺人まで起こした何百件もの暴力事件、なにより1,300名労働者の200日を超える戦前最長のストライキとその苦闘、ならず者を使って小泉七造の殺害までねらうなど残酷な会社の組合攻撃、3.15からほどなくの4月20日総同盟松岡駒吉と会社のボス交渉による700名もの無慈悲な大量解雇と惨めな敗北。その結果として莫大な金力と権力を手にした茂木ら醸造資本家を自賛するこれら言葉を読み、いっそう小泉七造ら野田醤油で闘った偉大な先輩労働者をしのびました。

 野田醤油茂木一族邸あとの庭園・市民会館や当日は休日でしたが茂木一族の有り余る財力で集めた絵画などの品々があるという美術館を外から覗いてきました。今回の学習が終わったらもう一度しっかり見学に行きたいものです。
以上



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