先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1922年朝鮮人労働者の決起と日本労働者の連帯 (読書メモー)

2021年12月20日 08時00分00秒 | 1922年の労働運動

大阪朝日新聞「朝鮮の労働諸団体」1922.12.9

朝鮮人労働者の決起と日本労働者の連帯  (読書メモー「日本労働年鑑」第4集 大原社研編)

参照
「日本労働年鑑」第4集 大原社研編
「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎(岩波新書)
「信濃川虐殺事件問題大演説会開催の件」朝鮮総督府警務局資料 鮮高秘乙第623号 大正11年9月5日

1、信濃川朝鮮人虐殺事件
 1922年7月、信濃水力電気株式会社の信濃川水源地工事に従事していた朝鮮人労働者が「監獄部屋」で虐殺されたという驚くべき事件が広く社会に知れ渡ります。信濃川の上流から労働者らの死体が流れてきたため、同年7月29日、東京の読売新聞が日時は不明だが『身元不明』の数体の死体が上流から流れてきたとの内容の記事(資料)で報道しました。その中に朝鮮人がいたため、即座に朝鮮人の中で調査委員会が結成・派遣されます。その調査結果が、8月20日の夜、東京市麹町の朝鮮人留学生寄宿舎で麹町警察署長以下30余名も警戒する中、約40人の留学生に報告されましたが、報告が終了し、今後の対策を協議しようとしたとたんに官憲はこの場の解散を命じます。
 9月7日夜、朴烈、金若水らは、神田青年会館において「信濃川虐殺事件問題演説会」を開催します。朴烈、金若水らは1万枚のビラを配布し、市内各所の電柱に貼りつけ、多数の朝鮮人500名と日本人500名の労働者が結集しました。朴烈、金若水らはビラで「文明国と云われて居る今の日本に土木工事のある所全国到る所に多くの兄弟共は生き乍らの地獄で痛い笞に鞭たれつつある愛があり血があるべき人々よ! 来れ来れ此の戦慄すべき殺人境打破の叫を聞きに!!」と呼び掛けたこの演説会は官憲によって、中止と解散を命じられ、数名が検束されました。 
 しかし、この事件がきっかけで「在日朝鮮人労働者実情調査会」が組織され全国各地の鉱山や工場における朝鮮人労働者の待遇に関する本格的な調査をすることとなり、政府警保局も実地調査を開始さざるを得なくなりました。

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資料
(読売新聞記事大正11年7月29日)

信濃川を頻々流れ下る
 鮮人の虐殺死体
 「北越の地獄谷」と呼ばれて、
   附近の村民恐ぢ気を顫ふ
    信越電力大工事中の怪聞

 信越電力株式会社では昨年から向う8カ年計画で信濃川の水力を利用して、遠く関東地方まで送電し、東洋第一の発電所とする空前の大工事をその水源の新潟県下に起したが最近工事に使用されている鮮人の溺死体が下流各所に発見され次第に工夫虐待致死という奇怪至極の風聞を伝えられて来た。然も命知らずの工夫頭の多い事とてうっかり口を滑らすと直ぐ襲撃を受ける恐れがあるため附近の町村民は悉く秘密裡に葬り去っているがこの人道を無視した虐殺問題は今や「北越の地獄谷」として喧伝され、所轄十日町警察署では工事地である大割野巡査出張所を駐在所と変更して警官の増派方を請い徹底的取締りをなすべく現に県警察本部に申請中である。

 逃げ出すと嬲り殺し
  山中にも腐爛した死体が転がって居る
……目撃した人の話
 一目撃者は恐れおののきながら今の世にあり得ない次の物語をした「地獄谷というのは妻育秋成村大字穴藤という作業地でここには1200名の工夫がいて内600名は鮮人です。始め雇い入れる時は朝鮮からのは1人40円位前貸し1ヶ月69円の決めですが、山に入ったが最後規定の8時間労働どころか、朝は4時から夜の8、9時頃まで風呂にも入れず牛や馬のように追い使う、仕事といえば食事を除けば1分間も休まずにトロッコを押し、土掘り、岩石破壊から土木、材木かつぎまでやるのだから心臓は悪くなる。体は極端に弱る、堪えきれないから罷めたいといっても承知して呉れない。冬は雪国だから丈余の雪中に埋もれてピョウピョウ北風に身を切られ、夏は四方の山に風が遮られて、蒸し殺されるよう、そこへこの苛酷な労働です。始めとはまるで約束違いの待遇に夜に入って逃げ出そうとする者の多いのは何の無理がありましょう。私は逃げようとして捉えられたものをもう十何度となく見ています。中にもなまけものといわれている朝鮮人が多いのです。逃走者に対する処罰、それは両手を後に縛り上げて3、4人の見張り番──見張り番は一名決死隊と呼んで七首や短銃を懐にしている、──が杉の樹に吊し上げて棍棒で打つ、なぐる、この月の始めでしたか県下東頸城郡松の山の尾身某というのがやはりこの伝でやられた。3日間絶食させられ、3度気絶した、その後どうなったか。

 地獄谷の後に当たる苗場山か岩菅山に逃げたというのですが、まだ生死不明です。そして恐ろしい事にはよくこの山中で逃げ出した鮮人の腐爛した残死体が発見される。私の聞いた丈でも川の下流だけでさえ死因不明の鮮人7、8名の死体が漂着しています。恐らく働かぬといって虐められ、逃げ出したといっては前のように嬲り殺しにされたのではあるまいか。」

 身体に大石を結び着け断崖から
  此儘には済まされぬと官吏語る
 更に同郡の一官吏は「2、3日前4、5名の土方が下穴藤の高さ1450尺の断崖から1名の鮮人に石を結び付けて投げ込んだのを見た村民が来て内々知らせて呉れたので、もうこの儘には済まされない」と記者に単なる噂でない事を裏書したのも恐ろしい。
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2、日本における朝鮮人労働者の状態(日本労働年鑑第4集「丙 移入問題」p400)
 朝鮮総督府の調査によれば、1922年10月までに日本に移入した朝鮮人は5万6千479名に達しています。学生や商人もいますが、ほとんどは労働者でした。「日本企業が彼らを遇することあまりに酷にして、彼らから思い切り搾取せんとする常態」であったため、朝鮮人労働者の生活は依然として惨めな境遇から逃れられないでいます。とりわけ多くの朝鮮人が移入した大阪においては「朝鮮人には住宅を貸さぬ傾向があるので、彼らは最も困難を感じ労働者の中には原野に掘っ建て小屋を建てて原始的な生活を営む者も少なくない」状態でした。しかも今や彼らに待つものは、経済界の不況による失職とその不安と日本人からの迫害でした。失職で路頭に迷う彼らに対し、日本人の多くはますます朝鮮人労働者を排斥し、彼らの中に少しでも何かあれば「不逞の徒)」「不逞の輩(やから)」と決めつけ圧迫を加えました。またこの年、激しい小作争議が勃発する中で、地主たちは朝鮮人を農業労働者として雇いいれ、小作農民と朝鮮人を対立させることで小作争議つぶしに利用しました。
(翌年1923年の関東大震災において、多くの朝鮮人が日本人から「不逞の徒」「不逞の輩(やから)」とされ、虐殺されましたが、その時の朝鮮人への「差別と迫害」は、決して大震災だけがきっかけではありません。朝鮮人への「差別と迫害」は、ずっとその以前から日本人、日本社会の中に根強くあったことが、この労働年鑑第4集、「丙 移入問題」の「二、移入朝鮮人の状態」のここにも記載されています。)
 
 しかし、同時に労働年鑑のこの部分を書いた担当者は感動的に言います。「見よ、最近、特に今年において、盛んになりつつある在朝鮮人間の互助運動、共済運動の趨勢を。東京に、京都に、大阪に、広島に、神戸に、名古屋に、すでに起こった共済互助の運動、今秋大阪において成立せんとして官憲の干渉のために果たし得なかった朝鮮人労働組合を。」と。
 朝鮮人労働者自身が全国で立ち上ります。また日本の労働者、労働組合の中からも朝鮮人連帯の運動が起きてきました。

3、信濃川朝鮮人虐殺事件(上で記述)と「在日本朝鮮人実情調査会」の結成と日本労働者の連帯
 信濃川朝鮮人虐殺事件をきっかけで、朝鮮人を中心に「在日本朝鮮人労働者実情調査会」が組織され、九州その他全国の炭坑・鉱山・工場など朝鮮人労働者の待遇を大々的に調査する運動がおきます。9月25日、神田の朝鮮基督教青年会が在京朝鮮人大会を開催し、その調査結果の報告と今後の方針を協議しました。

 関東労働同盟会大会は、1922年7月の朝鮮平壌におけるゴム女工の餓死同盟に同情の激励電報を送り、総同盟鈴木文治会長は1922年7月に朝鮮京城を訪問し、日本労働総同盟京城支部の発会式をあげます。
 1923年4月17日の総同盟中央委員会は「朝鮮人労働運動の調査及提携をすすめることの決議」を行い、さらに「朝鮮民族の解放運動は、それが無産階級化する限りにおいて、日本無産階級の解放運動と共同の敵を有するものと認む。ゆえに我が労働総同盟は両者が共同戦線に立つことを理想として、まず朝鮮人労働運動を調査し、これが促進するものとする」とし、8月25、26日の中央委員会では、「植民地人民の無産階級運動の促進に協力する」と決議します。こうして日朝労働者の提携の芽が生まれてきました。

4、朝鮮人労働者同盟会創立
 1922年12月1日、大阪市西区九条市民殿で「人類共存の基礎に立脚し、団結の力によって自由、平等及び生存権の確立を期す」とする朝鮮人労働者同盟会が創立されました。出席者は朝鮮人労働者の他に、日本労働総同盟の西尾末広や野武士組も加わり約300名にのぼります。警察は厳重な警戒体勢で対峙し数名を検束し解散を命じます。しかし、12月3日あらためて大会を開催し、

一、我らは我らの団結の力によって階級闘争の勝利を獲得しもって生存権の確定を期す。
一、我らは我らの膏血搾取する資本主義体制を打破し生産と労働とを本位とする新社会の建設を期す。

の綱領を決議し、日本労働総同盟と協同戦線をひくことになります。

5、朝鮮本国で朝鮮労働連盟会の結成
 11月4日、朝鮮の各労働団体は京城において各代表者が集合し、朝鮮労働連盟会を結成し、日本労働総同盟に対して提携を申し込みます。朝鮮労働連盟会は、その傘下に光州小作民組合や朝鮮労働同盟会(平壌)、順天農民連合会、普州労働共済会、京畿職工組合など多くの地方団体も組織します。1924年4月18日には朝鮮全土の3つの労働組織が、朝鮮労働総同盟を結成し、全国167団体が結集しますが、すぐに一切の集会禁止の弾圧を受けます。

(、しかし、せっかくおこりかけた日朝労働者の提携をつぶしたのが、翌年の関東大震災の朝鮮人虐殺と大杉栄殺害や亀戸事件などでした。暴虐残酷な日本支配階級によって日本の労働運動と日朝労働者連携は後退させられます
詳細
関東大震災朝鮮人虐殺「日本労働総同盟鈴木文治会長の朝鮮総督斉藤実閣下への意見書」読書メモ—山辺健太郎著「日本統治下の朝鮮

https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/d1777527db9f12dd3f433f5eccabffef )



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