先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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野田醤油争議(その五) 憎さ百倍となった会社の大巻き返し 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年10月27日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動




第十七工場新築披露祝賀会

野田醤油争議(その五) 憎さ百倍となった会社の大巻き返し 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会」史料
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉
  『野田争議の顛末』野田醤油株式会社

 1921年以来の野田醤油労働者の決起と闘いの前に、野田醤油株式会社は御用団体結成も失敗し、特に小泉暗殺謀略事件で世間から袋叩きにあい、社会的にもすっかり孤立し、その後の組合攻撃もことごとく失敗した。その結果、ピンはね中間搾取の中止、賃金大幅アップ、労働時間の短縮、部分的8時間制の実施、新寄宿舎の建築と「ひろしき」の廃止など多くの労働条件の改善が実現した。その間、労働者は団結を固めた。小学生の同盟休校など家族・子供もよってたかって大衆路線で闘う訓練を積む中で益々資本への怒りと闘争心を高めた。また熱心に労働学校で学んだ。しかも自分の職場の事だけでなく、自分の支部の争議だけでなく、地域や関東一帯の同じ醸造労働者の組織化と多くの争議の指導・応援に奮闘した。小泉七造を先頭とする野田支部、目覚めた1,500人労働者は昨日までの奴隷ではない。会社はますます憎さ百倍となった。

(会社を喜ばせた反動田中内閣)
 1923年関東大震災朝鮮人虐殺、亀戸事件、大杉事件、朴烈事件等、1924年総同盟<方向転換>、共産党解党、1925年治安維持法、総同盟分裂、1926年暴力行為等処罰関する法律公布、1927年この年成立した反動田中義一内閣は第一次中国山東出兵を行い中国干渉を強めた。国内では空前の金融恐慌で巷には失業者があふれ、三井・三菱・住友・安田の四大財閥への独占がすすみ、これら大資本は「産業合理化」、「機械化」を導入し、ますます失業者は増加し、職場での首切り、賃下げ、労働強化が強まった。労働運動に対しても評議会への組合攻撃が強まったが、闘う労働組合に対しては評議会、総同盟と問わず組合つぶしの攻撃が激しくなり、とりわけストライキ弾圧の嵐が吹き荒れた。
 1928年、普通選挙法公布初の総選挙で無産政党の8人の新人議員が生まれたことも、政府当局を驚愕させた。全国一斉検挙者が1,568名にも上った3月15日(3.15事件)弾圧、また政府は、4月10日には評議会、労農党、無産青年同盟の3団体の解散を命じ、6月、治安維持法を改悪し死刑を導入した。7月に全県警察部に特高課の設置を完成させている。この年の1928年だけで治安維持法違反検挙者数は3426名に上っている。ちなみに1929年には、3月山本宣治暗殺、4月16日(4.16事件)弾圧の全国一斉検挙、この年1929年の治安維持法違反検挙者数は4942名にものぼっている。このように元陸軍大将反動田中内閣の労働者・民衆弾圧はいよいよその狂暴を極めていた。
 野田支部への暴力的組合全面破壊攻撃と216日間ストライキ激闘はまさに、この時期のど真ん中1927年9月から1928年4月にかけて行われたのであった。この反動田中政府の姿勢が、野田醤油茂木一族をどれほどその気にさせたか、資本家階級野田資本の暴力・残酷なすさまじい本性をいかに露わにさせたか。同時に総同盟本部幹部を死ぬほど震えあがらせ腰をぬかせたかは、現代の今から見れば手に取るように理解できる。1928年3月15日大弾圧と4月10日の評議会等3団体解散命令直後の4月20日、野田醤油争議の敗北協定は結ばれている。

(反動田中政権とつながる茂木一族)
 茂木社長は鈴木内相と昵懇の仲で、内務省警保局の斎藤警務課長は前野田町長の息子である。野田醤油株式会社の最高顧問で大株主の東京ガス会社社長岩崎清七は政友会と深く結んでいる。まして反動田中内閣は中国侵略をはじめ内外における暴力政権である。この反動田中政権こそが、野田醤油会社の暴力、組合破壊攻撃のまさに後盾なのだ。

(憎さ百倍となった会社の大巻き返し計画のスタート)
 1921年の総同盟野田支部結成以来、労働者に負け続けた会社は、1922年頃から今度こそは組合を徹底的につぶそうと総力をあげた大巻き返しの準備と計画をスタートさせた。
 争議に何度負けようが、どの資本家の頭の中には決して「反省」という言葉は存在しない。彼らの頭の中には次こそは組合をどううまくやっつけようかしかないのである。まして野田醤油にとって、この数年間の苦い経験は、過去300年におよぶ支配者茂木一族にとって屈辱以外になく、労働組合の存在と立ち上がった労働者は、「300年来の美風を破壊する忘恩の徒」そのものであり、まさに放逐されるべき反逆者であった。

(「労働課」の設置、各地の争議の組合つぶしの研究とスパイ)
 野田醤油は過去の敗北から学び、兵法に習い、まず敵を知ることからはじめた。本社に大がかりな「労働課」を設置し、工場の労働組合、労働者の調査分析を行った。16ヵ所の各工場の実態、労働条件、労働者の不満、過去の争議の経過などをつぶさに調査した。また総同盟本部の内情、動向を研究した。全国各地の争議の組合つぶしも研究し、とりわけ前年の浜松楽器の大争議には調査委員を派遣して組合つぶしの戦術を把握させた。
 次に⁂スパイである。会社は組合内にスパイを放った。茂木一族と姻戚関係にある者らや下級職制を組合員として潜入させ、組合の内情や集会、会議の発言内容などをつぶさに調べあげ野田支部全面壊滅攻撃の戦術と段取りを決めていった。勿論警察からの情報も得た。またスパイを使って組合幹部を誹謗中傷し組合を攪乱させ、一人ひとりの組合員の切り崩しも行った。争議がはじまるとこのスパイの情報をもとに購買組合役員を買収して争議団員と家族と子供の糧道を絶とうと購買組合の差し押さえを行ってきた。

⁂感想!「スパイ」
 今日の労働運動においても経営者・資本家は必ずスパイを使用している。本当の話である。大小の争議に限らず必ずやる。当然のことだ。争議に負けたくない、組合を潰したい、弱体化させたいと考えない経営者はいない。「敵を知りおのれを知る」と学習するのは真面目な労働組合だけではない。「今どきスパイなどと言う者はアタマがおかしい」という人がいるが、この人は今なお現実の労資の熾烈な対立を何一つ知らないノー天気な人なのか不真面目な人かのどちらかである。経営者や資本家がスパイにいくら払っているか、はかり知れない。払う相手はプロの興信所の場合もあるが、酒やギャンブルなどで堕落した組合役員や貧困生活に窮した一般労働者自身を買収する場合もある。会社内に秘密組織(インフォーマル組織)を作り残酷な労働組合つぶし攻撃を行っている有名企業は現に沢山ある。その手口は「公安」の世界でも戦前も戦後も同じである。公安がいかに「協力者」というスパイを使うか、「協力者」獲得のケーススタディに心血を注いでいるかは、有名なジャーナリスト、元共同通信社記者の青木理さんの「日本の公安警察」(講談社現代新書)に詳しい。
 
 《資本と御用組合幹部とは一線を画す》
 これは真面目な労働運動、労働者のために真剣に闘い奮闘する労働組合員であるならば、昔も今も最初に覚えなければいけない大事な掟(おきて)である。会社職制と平気で呑み歩いたり、デモの時など公安と親しそうにペラペラおしゃべりするなどお話にならない。それを同僚や組合員から見咎められ、たまたま管理職と飲み屋で遇ったから同席しただけだと反論して、まして逆にその同僚や組合員を怒ったある某組合の役員がいたらしいが、見咎めた同僚や組合員の意識、感性の方が労働組合員としては大いに正しい。

(組合の闘争資金も事前に全て把握していた会社)
 野田醤油会社は、争議前の野田支部の貯金や基金、闘争資金の全容をスパイや警察情報によってすべて事前に知っていた。すなわち郵便貯金総額7万5千円、野田支部個人名義郵便貯金3万円、野田連合会代表名義銀行貯金2,856円85銭、闘争資金貯金7万5千円等これらすべてを事前に把握していた。また、野田支部の購買組合の貸借対照表も手に入れていた(『野田争議の顛末』野田醤油株式会社)。 

(第十七工場の新建設の目的)
 会社は、1922年(大正11年)に第十七工場新建設に着手した。当時の日本最先端の機械化を導入した新工場建設の最大の目的は、熟練醸造工が圧倒的に多いベテラン野田支部組合員を排除することにあった。実際1925年完成の第十七工場には組合員は一人も入れずに、あらたに雇い入れた労働者とは、労働組合には絶対に加入しないと約束させた⁂(黄犬契約)を結び、推薦は村長や村の有力者のみとした近辺の農村の若者350名を一挙に雇い入れ、全機械化のもと第十七工場全体を非組合員だけで操業した。これは会社がこれから行おうとする全面的労組攻撃、組合員全員解雇・排除を念頭においたストライキ対策そのものであった。実際、全面ストライキがはじまって10日後には警察と暴力団によって争議団のピケは破られ、第十七工場の操業は再開された。熟練工は誰一人いなくても、管理職と未経験者のみで、すべての醸造製造工程の作業の機械化により、操業再開一週間後には平常以上の製品が出荷された。争議の最終敗北の一つの大きな原因となった第十七工場新設の本当の目的はここにあった。
「黄犬契約」の'yellow dog'には「卑劣なやつ、きたない奴、会社の犬」という意味がある。

(第十七工場披露祝賀会)
 第十七工場の新建設のもう一つのねらいは、この数年間の小泉暗殺謀略事件や「ひろしき」など奴隷的労働条件が、世間ではすっかり有名になった野田醤油悪しき評判を近代的に機械化され清潔な日本一の醸造工場を造ることで、一気にその汚名を晴らすこともあった。1926年4月に開かれた第十七工場披露祝賀会(上の写真)には、政府の商工大臣を筆頭に都内大手の取引企業経営者、新聞記者など多数招待した。なんと招待客のために上野駅から野田駅までの貸し切り列車まで用意した。醤油製造のすべてが機械化された最新鋭の工場に招待客は驚かされた。新橋から大勢の芸者が呼ばれ晴れの舞台を盛り上げた。これも今後起きる大争議にそなえ世論を味方に付ける準備のひとつだった。

(懐柔策と組合分裂策)
 野田醤油会社は元キリスト教牧師太田霊順を顧問として導入し、労働者教化をはかってきた。しかし本当の目的は労働組合の排除にあった。彼を使って組合員に対して様々な懐柔策を弄して来た。その一つに「労働者講習会」がある。各工場から10名づつ労働者を選抜し、千葉の鹿島において1週間宿泊させ、酒色を提供しながら「思想善導」をねらった反動的講演を行うというものであった。ほどなくその実態と目的を知った労働者の会社への怒りが逆に高まった。また会社は「労資懇談会」など他にも幾つもの懐柔策を行ってきたが、これも年に3回しか開催されず、失敗した。また並木工場課長は、野田支部幹部を度々料亭に招待し接待しようとした。組合幹部間に猜疑心を生じさせ幹部同士の互いの分裂をはかろうというのだ。これもすぐに失敗した。

(丸本運送店の新設、丸三運送店攻撃)
 丸三運送店の97名労働者は、全員が野田支部組合員であった。今までは野田醤油の製品の運搬はすべて丸三運送店が請け負っていた。会社は川越組を使って新たに「丸本運送店」を設立し、丸三運送店の扱っていた仕事を奪ってきた。いよいよ組合攻撃が開始されたのだ。

(「正義団」で争議団いじめ)
 会社は町長茂木要右衛門と御用町議ら70名が中心となり野田町商店主ら1千名の「野田正義団」を組織した。野田町商工会にスト中の争議団員と家族や子供に食料など一切の日用品を売らない非売決議をさせた。また商店の使用人や子弟をスト破りの工員として工場に送り込み働かせた。正義団は積極的に組合攻撃のビラを連日ばらまくなど野田支部破壊の先兵部隊となった。正義団は、争議団の兵站の拠点の「野田購買組合」の家屋と商品や精米機械すらも差し押さえる攻撃もしてきた。争議団にとっては正義団は、家族や子供をいじめる到底許せない憎っくき相手であった。

(正義団のビラ)
 罷業工諸氏よ!!!
 醒めて工場に帰れ!!!
 最早考える余地なし!!!

 時を失うな!!!
 迷わず工場に帰れ!!!
       野田正義団

(暴力団、ならず者)
 会社は、暴力団とならず者を大量に雇い、武装させ、度々争議団を襲撃させた。暴力団と官憲は互いに応じ合い組合員を一網打尽にしようと虎視眈々とねらっていた。駅前の和泉屋旅館などを拠点として組合攻撃や襲撃を行ってきた(のちに争議団が和泉屋旅館を襲い彼らを袋叩きにして東京に追い払った事件もあったが、この時争議団側多数が検束されている)。

(白色テロ日誌、会社の主な暴力の数々) 
 10月12日、川越組数十名が凶器を持ち組合本部を襲撃しようと集合した。
 10月13日、争議団主催の演説会に、東京から呼んだ暴漢・暴力団に殴り込みをかけさせた。しかも驚くことにこの暴力団を率いたのが、会社顧問で元キリスト教会牧師の太田だった(労働者の怨みを買った太田顧問は翌年1月総同盟鉄工組合員から硫酸の洗礼を受けている)。
 10月20日、のちに直訴事件を起こした争議団副団長堀越梅男が数名の仲間と争議団員の自宅を訪問中、トラックに乗った20余名の暴力団が兇器を振りかざし襲いかかり、堀越ら2人を拉致し監禁した。争議団は急遽2人を取り戻すべく押しかけた。野田警察署は会社側52名、争議団12名を検挙した。会社側8名は不法監禁罪として起訴され、千葉刑務所に収容された。会社を家宅捜査した結果、ピストル、ドス(匕首)、日本刀その他多数の武器が押収された。
 10月21日夜、会社は補充として東京から数十名のならず者を狩り集めた。
 11月5日夜、争議団防備隊員の一人が、暴力団のために重傷を負わされた。夜中暴力団は二隊に分かれ、一隊は争議団幹部の背中に白ペンキで✖を塗りすぐ逃げ去り、その後に、もう一隊が物陰に待ち伏せして暗闇に浮かぶ白✖を目印に幹部を次々と凶器で襲った。
 12月1日、第6工場と第15工場の二カ所で、総同盟本部の闘士野口三郎、大月留吉が暴力団に襲われた。野口三郎は丸太で、大月留吉は鉄棒と釘を打ち込んである六尺某で殴打された。野口は幸い軽傷であったが、大月は関節を折られるなどひん死の大怪我を負わされた。
 12月11日、行徳町第16工場の社宅に設けた行徳支部の事務所を茂木卯吉が率いるならず者約40名が、鋸、カケヤ、金槌等の道具でめちゃくちゃに破壊し、争議団員一名を殴打して負傷させた。そこにいた船橋警察署の警官たちはこの暴虐を漫然と傍観したのであった。争議団が逆襲したら騒擾罪で一網打尽にするつもりだったのだろう。争議団は会社を器物破損、家宅侵入、傷害で告訴し、船橋署も涜職罪(とく職罪)で告訴した。
 1928年2月6日、組合事務所の近くの路上で組合員3名が暴力団に短刀で胸、咽喉を刺され重傷を負わされた。犯人は逮捕され、殺人未遂罪で懲役3年の判決を受けた。

(警察署長もあきれるほどの会社の無法ぶり)
  会社側被検挙数。殺人未遂3件(1名)、傷害4件(7名)、暴力行為10件(59名)、不法監禁1件(2名)、銃器違反3件(8名)、船舶侵入1件(1名)、誣告1件(1名)、其の他5件(38名)の計28件117名に及ぶ。
 また暴力団は「親分が野田劇場を買い付けた」と争議団本部である野田劇場の明け渡しを要求してきた。12月8日夜には匕首を振り回し、また11日は親分が60余名の子分を引き連れて野田町に登場した。13日警察は暴力団から日本刀20本、ピストル弾丸80発、竹槍千本を押収し数十名を検挙した。同じ日、東京から自動車でやってきた別の子分たちは県道で野田署員に押さえられ、日本刀24本、ピストル8挺、こん棒30本を押収し、3名を逮捕した。さらに東京四谷で日本刀13本、鉄砲1挺を持って野田の会社の応援に駆け付けようとしている暴力団数名が四谷署に検挙された。

 野田警察署長ですらあきれはて、「会社側の態度はことごとに穏当を欠いている。会社は・・・否定しているが・・・会社側としての責任は免れることはできない。他府県における労働争議は、労働者側が不穏であって、取締りの中心もそれに加えられているが、野田の争議はその反対である」(10月25日国民新聞野田警察署長談話)とお話しにならないほどの会社の無法ぶりであった。

(争議団切り崩し、恐怖の「招致隊」)
 招致隊 
 家庭訪問
 宣伝ビラ
 出勤催促
 買収
 脅し
 拉致
 暴力
 会社は、「招致隊」と称した社員を5組に分け、一隊約30名、これに暴力団員2・3名を配して争議団員の家庭を訪問し、「解雇」で脅したりすかしたり職場復帰の招致を強要する恐怖の「招致隊」を動員した。こうした手段を選ばないストライキの切り崩しをしてきた。中には夜陰、歩行中の争議団員を無理やり車に押し込め工場へ拉致するなど文字通りの狂奔であった。

(スト破り裏切者)
 会社のこれだけの争議団切り崩し攻撃の結果、最終的には争議団の341名がスト破りをしている。裏切り者である。この数を多いとみるか、少ないとみるか。はっきり言えることは、残りの争議団員1,047名は会社側の暴力ゃ脅しに屈せず団結を維持し、最後まで闘い続けたということ。会社の目論見は失敗したということ。これはすごいことだと思う。
 野田支部全組合員は自ら、争議スタート時の臨時総会で、「罷業破りをした時は、争議費用のうち金500円を弁償する誓約書の提出」を決議している。11月8日争議団は裏切者の内58名に対し、契約履行の訴訟を起こしている。契約は本気だったのだ(争議解決時に労資双方の告訴は取り下げ)。

(スト破りの新工員募集)
 会社はスト切り崩しが失敗するや次に近隣農村を巡ってスト破りの為の新工員募集を大々的に行っている。10月から12月にかけて計6回の募集で562名もの農村の若者を狩り集め工場に送り込んだ。

(官憲の弾圧)
 官憲の弾圧で争議団が検束された件数と人数は、騒擾罪1件(96名)、暴力行為13件(32名)、傷害4件(4名)、営業妨害2件(2名)など総計39件191名に及んだ。他に直訴事件の堀越梅吉は懲役6ヶ月、硫酸事件の野口三郎懲役8ヵ月ら3名は獄中にいる。

(争議中、連続七次にも及ぶ大量解雇攻撃)
第一次、1927年9月30日、146名解雇
第二次、10月30日、6名解雇
第三次、11月21日、2名解雇
第四次、12月5日、8名解雇
第五次、12月13日、149名解雇
第六次、12月20日、735名解雇
第七次、1928年1月23日、1名解雇
計1047名
 仲間を裏切らず闘い続けた1,047名争議団員ほぼ全員が解雇された。

(協調会を引き込む会社・矢吹一夫の暗躍と総同盟本部松岡らの動き)
 会社は1923年争議の時から協調会を引き込み、協調会常務理事添田敬一郎の手先の矢吹一夫を「職員」として雇い利用し、今回の1923年争議では矢吹を公然と「嘱託」として協調会を利用した。矢吹は労資双方へ様々な策謀をこらした。矢吹は総同盟本部幹部の総同盟麻生久、赤松克磨らに接近し親しくなり、争議最終局面では協調会副会長渋沢栄一と総同盟鈴木文治会長、松岡駒吉がタッグを組んだ。

(総同盟本部と会社)
 総同盟本部松岡駒吉は、自分の指示に逆らって今回のストライキに突入した野田支部に対し、最初から苦々しく思っていた。9月16日ストライキが始まっても総同盟本部は応援をしなかった。「関東労働同盟会(総同盟)は、一執行委員を野田に派遣し、罷業の正常なる進行を監視すると共に、冷静に解決の機会を捉えんために努力するにとどめ、積極的に罷業応援の方針を採らなかった。・・・いたずらに闘争的態度に出づることは益々労資の感情を激発せしめ、争議をしていよいよ深刻なる感情争議に至らしむる結果解決を一層困難にするを恐れたからである。」(松岡駒吉『野田大労働争議』の第七章労働組合の態度及戦術)とぬけぬけと書いている。会社はこの総同盟本部の意向を喜び、野田支部攻撃を強めた。

(争議敗北)
 1928年(昭和3年)4月20日。争議団員747名の大量解雇を認めた協定が結ばれた。会社から見た、いわゆる「おとなしい人」300名だけが復職となった。解雇手当など解決金は総額45万円であった。

(争議後の懐柔政策)
 争議終了後半年後には、野田醤油会社は協調会とはかり福利施設の拡充をはじめた。スポーツの奨励、家族慰安会の開催、育英事業や職域保育園も設置した。ロマネスク様建築の「興風会館」を建設し、映画や劇場、講演会に使う1千名の観客席を持つ大会場、図書館も備え、地下には西洋料理の食堂もあった。実に総工費15万円をかけた「労資協調のシンボル興風会館」を建てた野田醤油会社。

以上

次回予定
野田醤油争議(その六) 闘い①「工場煙突のてっぺんに突如赤旗ひるがえる」 1927年の労働争議(読書メモ)



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