先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1922年日本共産党結成など(読書メモ)

2021年12月13日 08時00分00秒 | 1922年の労働運動

1922年日本共産党結成など(読書メモ)

参照
「日本労働組合物語」大河内一男・松尾洋
「社会労働運動大年表Ⅰ」大原社研編
「日本労働年鑑」第4集 大原社研編(第9編社会主義運動)

雑誌『前衛』創刊
 1922年1月1日、山川均、山川菊栄、堺利彦、荒畑寒村等らにより月刊雑誌『前衛』が創刊されます。
『新しく生まれた「前衛」の全誌面は無産階級の主張と憧憬で満たされねばならぬ。ブルジョワとブルジョワの言論機関に対して、公然と戦を宣する。「前衛」は一切の問題を、徹底した無産階級の立場から批判し、解剖し、評論し、弾劾する。』
 
日本共産党結成
*日本共産党結成に関しては、「日本労働年鑑」第4集 大原社研編は雑誌『前衛』創刊以外一切触れていません。日本共産党結成が非公然であった事や知っていても書けなかったかもしれません。

 1922年1月モスクワでコミンテルン主催の「極東民族大会」が開催され、日本からは、片山潜、徳田球一ら13人が参加します。1922年7月15日、渋谷の民家で日本共産党が非公然に創立されます。堺利彦、山川均、荒畑寒村、近藤栄蔵、市川正一、佐野文夫、鍋山貞親、佐野学、浅沼稲次郎らが、労働組合からは渡辺政之輔、山本懸蔵、渡辺満三、杉浦啓一らが、総同盟からは野坂参三、赤松克磨が参加しました。暫定規約の採択とコミンテルン加盟が決議され初代書記長は堺利彦が選出されました。11月にはコミンテルン第4回大会に代表2名を派遣し、正式なコミンテルン支部として承認されます。
 日本共産党結成はその後の労働運動や社会運動に大きな影響を与えます。

山川均の《方向転換「大衆の中へ」》論文
 左翼セクト主義を批判した1921年6月のコミンテルン第3回大会の〈大衆の中へ〉スローガンに呼応して、1922年7月山川均が雑誌『前衛』に論文「無産階級運動の方向転換」を発表します。個人論文でしたが、共産党の創立宣言として受け止める者も多くいました。
この論文で山川均は、
「そしてわれわれの運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ。われわれは資本主義の撤廃を目標とする。われわれは資本主義の撤廃以下の、いかなる改善も、決してわれわれを解放せぬことを知っている。けれどももし無産階級の大衆が、資本主義の撤廃を要求しないで、現に目前の生活の改善を要求しているならば、われわれの当面の運動は、この大衆の現実の要求を基礎としなければならぬ。われわれは、生産は生産者によって管理されねばならぬことを知っている。けれどももし労働階級の大衆が、まだ生産の管理を要求しないで、現に一日10銭の賃金増額しか要求しておらぬなら、われわれの当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。われわれの運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得てこなければならぬ。

 これは革命主義から改良主義への堕落であろうか。決してそうではない。大衆の行動を離れては革命的の行動はなく、大衆の現実の要求を離れては、大衆の運動はないからである。革命主義と改良主義との岐(ワカ)れるところは、われわれが日常当面の運動の上で、大衆の実際の要求に譲歩するか譲歩せぬかにあるのではなくて、かような実際の運動と実際の闘争との間に、大衆の要求を高めて、最後の目標に進ませることに努力するかいなかという点にある。

 敵にたいして非妥協的の態度をとるために大衆の実際の要求と妥協する結果として、われわれはいきおい無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日よりもいっそう重要視しなければならぬ。いいかえれば、われわれの運動は実際化されねばならぬ。」
と主張し、また政治闘争の必要性も強調し、「大衆の中へ」と呼び掛け、労働者の前衛と労農大衆との結合をはからねばならないと説きました。

共産党の「レフト」結成運動
 日本共産党は、その後国際赤色労働組合同盟(プロフィンテルン)の日本支部結成に向けて、渡辺政之輔や山本懸蔵、野坂参三らを集めて赤色労働組合、左翼労働組合「レフト」の育成をめざします。一時は西尾末広や九州の浅原健三も参加します。また、国際共産青年同盟の支部結成に向け1923年4月には委員長河合義虎の日本共産青年同盟が創立されます。

翌年1923年6月5日約80名一斉検挙の第一次共産党弾圧(事件)が勃発します。



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