ダッファーの独り言

日々移ろう景色や匂いを感じながらプレーを楽しみ
また、思いついたこと楽しかったことなどを書いています。

鎌倉散歩

2010年05月24日 17時08分23秒 | ゴルフ


二階堂付近


今日もゴルフを雨でキャンセルしたので
先日の木曜日、鎌倉宮(大塔の宮)→ 蒲原有明・川端康成旧居跡 → 杉本寺 
→ 田楽辻子 → 報国寺 
と、ぶらぶら散歩してきたことを


△ 鎌倉宮は後醍醐天皇の皇子「護良親王(もりながしんのう)」
お祀りする神社で鳥居の形も、鎌倉八幡宮とはちがいます

当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は国家の
荒廃を憂えられ、親王と共に元弘(げんこう)元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。
しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐(おき)に配流(はいる)となります。
親王は還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって
楠木正成(くすのきまさしげ)らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。
この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏(あしかがたかうじ)、
赤松則村(あかまつのりむら)らが六波羅探題(ろくはらたんだい)を落とし、
また新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京都に還御(かんぎょ)され、
親王はこの功により兵部卿(ひょうぶきょう)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となられます。

しかし尊氏は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を欲し、諸国の武士へ自らが武家の
棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。
ところが、逆に高氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉されます。
建武(けんむ)元年(1334年)の11月15日の事です。 建武2年(1335年)7月23日
残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行(ほうじょうときゆき)の軍に破れた尊氏の弟、
足利直義(あしかがただよし)は逃れる際に、家臣 淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じました。

義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、
御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられました。
(鎌倉宮由緒より 以下省略)





△ 蒲原有明・川端康成 旧居跡

日本近代詩の先駆者の詩人「蒲原有明」が住み、
有明が静岡に疎開中の昭和12年川端康成がこの家を借り21年に長谷に移るまで住んだ
場所、若き日の三島由紀夫も訪ねてきたことがあるようです


△ 杉本寺 青苔の石段(今は通行止め)


△ 杉本寺の茅葺の本堂 十一面観世音は国宝


△ 住職で俳人の「尾崎迷堂」の句碑
(春潮や南海補陀落山の下 迷堂)

杉本寺の近くに、ホトトギス派の俳人、「松本たかし」が住み、
鎌倉で俳句会を催し鎌倉を詠んだ句も多くある。
また、住職で俳人の「尾崎迷堂」と交友を持ち、随筆に書いています




△ 竹のお寺で知られている「報国寺」には、白樺派の歌人「木下利玄」の歌碑があります
(あるき来てもの丶ふ果てし岩穴のひやけきからにいにしへおもほゆ)

この日も、朝方弱い雨が降っていましたが、散歩中は降られることなく
2時間ほど歩いてきました。鎌倉駅まで歩いたのでチョイと疲れましたが
コメント
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