この年になって身長が1・4センチも伸びたM記者です(体重は5・5キロ増、つまり頭頂部に脂肪がついたんやね…)
本日の住之江優勝戦にわれらがミツ親分が2号艇で登場します。
住之江は子供の頃、オヤジさんに連れられていった思い出の場所。そこで優勝するのが夢の一つでした。みなさん、スタンドからパソコンの前からパワーを送ってあげてくださいね。
まだ駆け出しの頃の尼崎ピット。「ミツ!森本ちゃんが写真撮らせてほしいんやって」。斉藤寛人がそういうと武田は怖い顔でこっちを見ました。当時の武田は記者嫌いといわれていました。そんな彼がなぜ私に心を開いてくれたのか。競艇が大好きで競艇に生涯をかける!という決意がいつしか伝わったのか。恥ずかしいので本人には聞けません。年に何度も会いませんが、私は心の友だと思っています。武田がどう思っているのかは知りませんよ(笑)
彼と初めて会ったのは本栖の72期卒業記念。競艇界は72期から新たなシステムをいくつか取り入れました。1年2カ月への養成期間延長、デカペラ使用、モンキーターンの授業、そして優秀選手表彰3人へのB1あっせん等です。
武田は途中までトップ級の勝率をマークしていました。しかし、ある事情から勝率を下げざるをえなくなり、優秀選手表彰の夢はついえた。「こうなったら意地でも卒業記念で優勝してやる!」。無謀ともいえる大減量。そして優勝戦では北陸の総大将・岩口昭三を思わせる鮮やかな鋭差し!表彰台の真ん中に立った武田は涙ぐんでいるようにも見えました。ちなみに見出しにもなった“鋭差し”という表現はこの時初めて世に出たものです。
卒業後、彼のもとには取材が殺到。地元の放送局からも依頼がありました。北陸初の本栖王者という快挙。さらには異色の経歴。中学生の時に全国カルタ大会で個人優勝。高校では団体2位。マスコミが放っておくわけがありません。
しかし、それらの過剰な期待がプレッシャーとなって19歳の青年を追い込んでいきました。デビュー節でFを切り、その期はF2(事故率1・28)。2期目もF2で事故率は1・82。クビも覚悟しなければならない状況にまで追い込まれたのでした。
当時を振り返ってこんな話をしてくれたことがあります。「エンジンは全然出てないのに本栖チャンプというだけで人気になる。父親が競艇ファンだったので舟券を買ってくれたお客さんの気持ちは痛いほどわかった。だからスタートで無理するしかなかった。もしFを切ってもお客さんにはお金が戻ってくるんやから」。お客さんの期待は裏切れない。しかし、まともにやって勝てる力はない。なら、危険をおかしてでも自分を犠牲にしてでも行くしかない…。ここまで客のことを考えてくれる選手はいないと、その時思いました。
クビの危機を回避し、4期目には6・10で初A級。7期目には6・93で初A1級と素質が開花し始めました。三国初のSG「MB記念」にも選出されるだろうと言われていましたが、施行者は勝率順ではなく、登録番号順に上から選出しました。私にとってもまさかの落選…。本人もガックリしたに違いありません。今垣光太郎はそのMB記念がSG初舞台(予選落ち)。後に今垣は私にこんな話をしてくれました。「成績も大したことないのに施行者さんに選んでもらって…いま自分があるのはあれが大きかったですね」。“明暗”とはまさにこのことでしょう。
ストーリーはまだ半ばですが、長くなってしまったので、またの機会に。選手としてだけではなく、“人間”武田光史にも迫ってみたいと思います。
※島あたるさんや鰐さんは「出待ち」するらしいので、ぴったりマークして続きを先に聞いちゃってもいいですよ。
本日の住之江優勝戦にわれらがミツ親分が2号艇で登場します。
住之江は子供の頃、オヤジさんに連れられていった思い出の場所。そこで優勝するのが夢の一つでした。みなさん、スタンドからパソコンの前からパワーを送ってあげてくださいね。
まだ駆け出しの頃の尼崎ピット。「ミツ!森本ちゃんが写真撮らせてほしいんやって」。斉藤寛人がそういうと武田は怖い顔でこっちを見ました。当時の武田は記者嫌いといわれていました。そんな彼がなぜ私に心を開いてくれたのか。競艇が大好きで競艇に生涯をかける!という決意がいつしか伝わったのか。恥ずかしいので本人には聞けません。年に何度も会いませんが、私は心の友だと思っています。武田がどう思っているのかは知りませんよ(笑)
彼と初めて会ったのは本栖の72期卒業記念。競艇界は72期から新たなシステムをいくつか取り入れました。1年2カ月への養成期間延長、デカペラ使用、モンキーターンの授業、そして優秀選手表彰3人へのB1あっせん等です。
武田は途中までトップ級の勝率をマークしていました。しかし、ある事情から勝率を下げざるをえなくなり、優秀選手表彰の夢はついえた。「こうなったら意地でも卒業記念で優勝してやる!」。無謀ともいえる大減量。そして優勝戦では北陸の総大将・岩口昭三を思わせる鮮やかな鋭差し!表彰台の真ん中に立った武田は涙ぐんでいるようにも見えました。ちなみに見出しにもなった“鋭差し”という表現はこの時初めて世に出たものです。
卒業後、彼のもとには取材が殺到。地元の放送局からも依頼がありました。北陸初の本栖王者という快挙。さらには異色の経歴。中学生の時に全国カルタ大会で個人優勝。高校では団体2位。マスコミが放っておくわけがありません。
しかし、それらの過剰な期待がプレッシャーとなって19歳の青年を追い込んでいきました。デビュー節でFを切り、その期はF2(事故率1・28)。2期目もF2で事故率は1・82。クビも覚悟しなければならない状況にまで追い込まれたのでした。
当時を振り返ってこんな話をしてくれたことがあります。「エンジンは全然出てないのに本栖チャンプというだけで人気になる。父親が競艇ファンだったので舟券を買ってくれたお客さんの気持ちは痛いほどわかった。だからスタートで無理するしかなかった。もしFを切ってもお客さんにはお金が戻ってくるんやから」。お客さんの期待は裏切れない。しかし、まともにやって勝てる力はない。なら、危険をおかしてでも自分を犠牲にしてでも行くしかない…。ここまで客のことを考えてくれる選手はいないと、その時思いました。
クビの危機を回避し、4期目には6・10で初A級。7期目には6・93で初A1級と素質が開花し始めました。三国初のSG「MB記念」にも選出されるだろうと言われていましたが、施行者は勝率順ではなく、登録番号順に上から選出しました。私にとってもまさかの落選…。本人もガックリしたに違いありません。今垣光太郎はそのMB記念がSG初舞台(予選落ち)。後に今垣は私にこんな話をしてくれました。「成績も大したことないのに施行者さんに選んでもらって…いま自分があるのはあれが大きかったですね」。“明暗”とはまさにこのことでしょう。
ストーリーはまだ半ばですが、長くなってしまったので、またの機会に。選手としてだけではなく、“人間”武田光史にも迫ってみたいと思います。
※島あたるさんや鰐さんは「出待ち」するらしいので、ぴったりマークして続きを先に聞いちゃってもいいですよ。
続きが早く見たいです!
けど、あざ~す!
早く続きを~
エッチぃな話ありイイ話あり(o^▽^o)v
毎日楽しみにしてる私はちょっと変(笑)
もっと読者も女性増えて欲しいな~☆
今後ともよろしくです。
Mさん、ありがとね!
「下手くそな自分に100円でも賭けてくれてるファンがいるのにレバーを放れるわけなかでしょう」と言っていました
「惚れてまうやろ~」
また拉致係です(-.-)
書き出したら止まらなくなって「続く」にしちゃいました。
思い入れがある選手なんで、許してください。