プリウスと風景

私にとっての「銀河鉄道」プリウスで旅へ、そして自由な思考表明をと考えています

庭園と文学者 山本健吉氏の石庭批判 v2

2012年02月21日 | 修学院離宮
枯山水批判

大佛次郎氏は控えめな批判をなさったが、山本健吉氏はより直截的に批判し、それだけ響

くものが強い。

         (以下「日本の庭」より)


石庭といえば、日本の庭の代表のように言われているのはどういう理由によるのだろう。

この庭の絶賛者の一人に志賀直哉氏がある。

氏は言う。「これほどに張りきった感じの強い、広々とした庭を自分は知らない。

(以下、略。「龍安寺の庭」)」

大正13年に書かれたこの文章が、この庭を一躍有名にし、その後讃美者の列がつづき、

中には石の配置にことさらな意味づけを見出そうとする哲学好きも多かった。

私もまた、志賀氏の文章によって龍安寺の美を知った一人だが、論者のその意味づけの

うるささに何時か嫌悪を覚えるようになり、これが果たして日本の庭を代表する傑作なの

かと、幾何の疑いを抱くようになった。

   (中略)

 志賀氏はここで、作者(相阿弥と想定して)の意図が、そのままの形で今日のわれわれに

伝わることをどうして幸いとしたのだろう。

ここには、やはり、永遠不変の記念碑的な造形物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の

上に、あくまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているの

ではなかろうか。



              (中略)

 日本の庭の多くは作られた瞬間に歳月による自然の変化の手に委ねられ、、その結果庭

は日々に成熟を加えて行く。

言わばそれは、芭蕉の言葉にあるように「造化にしたがひ、造化にかへる(笈の小

文)」ことを理想としている。

芸術という熟語はアートの訳語として作られたものだが、術の字はやはり手わざであり

、人工であって、造化(自然)に随うという東洋古来の理念をを含んでいない。

         (以上「日本の庭」より)

長くなるので、引用紹介は次回に続けさせていただく。

それにしても、山本氏って深く広い。

改めて氏の作品を読んで見たくなった。

氏に比べると、井上靖さんは人柄はよく中庸の美点はお持ちのようですが、見方も文章も

凡庸な気がします。


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