このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

三島由紀夫と七生報国(前編)

2021年03月11日 | 日本
自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をするという三島の「狂気」は緻密に計画され、周到に実行された。

(日本社会への縁切り状)
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら「日本」はなくなつて、その代わり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなってゐるのである。

これは殆ど、日本社会への縁切り状ではないか。友人・三島由紀夫のこの苛立(いらだ)たしげな文体に一驚した文芸評論家の村松剛は、事態が容易でない所まで来ていることに気づき、人を介して、三島と会うことにした。村松の三島との最後の会談は、昭和45(1970)年10月7日、四谷で行われた。

三島は言った。
自分の家にはいろいろな外国人がくる。彼らが口々に言うことは、日本のいちばん美しい部分が失われていくという失望なんだよ。
昨年までの日本には、世の中にまだ危機意識があった。それがこのごろでは、みな危機意識なんか忘れて生活に満足している。その安心し切った顔を見ていること自体、俺は耐えられない。政治家は左も右も、平和憲法を守りましょう、文士の話題といえばゴルフの話と、次の文学賞を誰にやろうかという相談ばかりじゃないか。

「昨年まで」というのは、昭和44年には、日米安保やベトナム戦争反対を叫ぶ過激派諸派が都内に6千人を集めて、道路上にバリケードを構築し、警察署を襲った。警察は3万2千人を投入し、検挙された人数は東京だけで12百人以上にも及んだ。しかし、翌年には、過激派の動きも沈静化に向かい、上述のように「昭和元禄」を謳歌する世相になっていたからである。

(佐藤栄作は、おれを気違いだと言うだろう)
「それだからといって、三島さんが革命を志してどこかに斬り込んでも、天才の文学者が気がふれたといわれるだけですよ」と同席していた仲介者が言うと、
そうだろうな、狂気の意味について、くだらない批評家がいろいろなことを書くさ。佐藤栄作は、おれを気違いだと言うだろう。

三島が4人の盾の会隊員とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地の東部方面総監室に総監を人質にして立てこもり、約1千名の自衛隊員にバルコニーの上から決起を呼びかけた後に、隊員の一人、森田必勝とともに割腹自殺を遂げたのは、この18日後の10月25日。今からちょうど30年前のことであった。

首相・佐藤栄作は、官邸での昼食中にテレビ速報で事件を知り、記者団に感想を問われると暗い顔で「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している。」と、まさに三島の予言通りのコメントを述べた。

新聞は、「”狂気の白刃”盾の会、自衛隊乱入」、「社説三島事件は”狂気の暴走”」などと、やはり三島の予想通り、「狂気」について、いろいろ書き散らした。名うての戯曲家でもあった三島由紀夫は、自ら描いた筋書き通りに狂気を演じ、首相もマスコミも、その筋書き通りにそっくりのせられたかのようである。

(緻密な「狂気」のシナリオ)
「狂気」のシナリオはきわめて緻密に描かれ、周到に実行されていった。事件の前日24日の午後、サンデー毎日編集部の徳岡孝夫は、三島から電話で、毎日新聞の腕章とカメラをもって明日の11時にある場所に来て欲しい、と依頼された。徳岡は三島がノーベル文学賞の候補にあがった時、バンコクで親しくインタビューしたことがあり、旧知の間柄だった。

場所がどこかは、明日10時に電話する、という。翌朝10時に三島から電話が入り、自衛隊市ヶ谷駐屯地のそばの市ヶ谷会館に11時に来て欲しい、という。そこへ行くと、盾の会の会員から、封筒を渡された。

封筒には檄文(げきぶん)と三島らの写真、および、手紙が入っていた。これから起こることが、自衛隊内でもみ消されないよう、何か変化が起こったら、腕章をつけて、駐屯地内に入って報道して欲しい、ということだった。
しかし、事件はどのみち、小事件にすぎません。あくまで小生らの個人プレーにすぎませんから、その点ご承知置き下さい。(中略)事件の経過は予定では2時間であります。
まるで、これから友人同士で小さな劇を演ずるから、見に来て欲しいとでもいうような、こともなげな文章である。

(畢生(ひっせい)の雄叫び)
徳岡氏が会館の屋上から、駐屯地を見ていると、パトカーやジープが猛スピードで突入していった。毎日新聞社の腕章をつけて、正門からグランドに入ると、すでに100人ほどの自衛官がいた。「総監が人質にとられた」という声が聞こえた。

盾の会の若者が、バルコニーの上から檄文を撒き、垂れ幕をおろした。自衛官が垂れ幕に飛びついて引きずり降ろそうとしたが、ジャンプしても手が届かないよう計算されていた。「三島さん、綿密に計画したなあ」と徳岡は感嘆した。

三島と森田がバルコニーに姿を現した。集まった自衛官はすでに約千人に達していた。
日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、精神的にはからっぽになってしまっているんだぞ。それがわかるかッ!

頭上8mからの三島の声は、張りも抑揚もある大音声で、実によく聞こえた。徳岡は後にこう書いている。
三島のボディービルや剣道は、このためだったんだな、と私は直観した。最後の瞬間に備えて、彼はノドの力を含む全身の体力を、あらかじめ鍛えぬいておいたのだ。畢生(ひっせい:終生)の雄叫びをあげるときに、マイクやスピーカーなどという西洋文明の発明品を使うことを三島は拒否した。

三島の呼びかけは、自衛隊が憲法改正に立ち上がる、ということだったが、そんな可能性は三島のシナリオにはみじんも考慮されていなかったことは、事件が2時間の「個人プレー」で終わる、という徳岡への手紙でもあきらかである。
約20分の演説を終えると、三島は「天皇陛下万歳」を三唱して、総監室に引っ込み、森田必勝とともに、古式に則って、真一文字に腹を切り、盾の会隊員の介錯を受けた。

---owari---
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