日本人の感性を磨いてきた名文を暗誦すれば、生きる力が湧いてくる。
(外国語の文を吸収してしまう力)
日本語の力は、また外国語の名文を取り込んで吸収してしまう処にもいかんなく発揮されている。
年々歳々 花相似たり
再々年々 人同じからず (劉希夷)
国破れて山河あり
城春にして草木ふかし (杜甫)
これらの江戸時代までの漢文に替わって、明治以降は西洋の名詩・名文もさかんに訳されて、人口に膾炙(かいしゃ:広く知れわたっていること)していく。
山の彼方(あなた)の空遠く
幸い住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
幸い住むとひとの言ふ。 (カール・ブッセ、上田敏訳)
秋の日の ヴィオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し。
鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて
涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。
(ポール・ヴェルレーヌ、上田敏訳)
私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ
(ジャン・コクトー、堀口大学訳)
明治、大正、昭和の激動の時代に生きた我々の祖父母や両親の世代は、これらの西洋詩を口ずさみつつ、多感な青春の日々を送ったのである。
(暗誦は強制?)
しかし、現代の日本では、詩や名文を暗誦したり朗誦することが、当たり前ではなくなってきた。大学生に好きな詩や文で暗誦できるものを持っているかを聞いたところ、五パーセント以下という結果が出た。・・・
小学校の授業においても、暗誦や朗誦の比重は低くなってきているように思われる。詩の授業を参観しても、その詩を声に出して朗読したり暗唱したりすることはあまりおこなわれず、詩の解釈に時間が割かれることが多い。
と、語るのは、最近のベストセラー「声に出して読みたい日本語」「同 2」の著者・斎藤孝氏だ。
暗誦が衰退した背景には、暗誦文化が受験勉強の暗記と混同されたという事情がある。年号の暗記や些末な知識の詰め込みに対しての拒否反応が強かったために、覚えること自体が人間の自由や個性を阻害するものと思われた。
と斎藤氏は推察する。意味も分からないまま文章を暗記させるのは一種の強制であり、それでは自由な個性や創造力は伸びない、という浅薄な思いこみがあったのだろう。基本の型を徹底的に体得することなしには、一流の個性も創造もありえない、という事は、何か一つ芸事やスポーツを習った経験のある人ならすぐに分かることなのに。
(名文名句のリズムを身体に覚え込ませる)
幼い時期、たとえば小学校就学以前の子どもに、漢詩や和歌を暗誦させるということは、果たして拷問であろうか。あるいは、そのようなことがそもそもできるのであろうか。こうした疑問に対する一つの実践的な解答として、私は大阪のパドマ幼稚園の実践に出会った。そこでは、年少組から漢詩を速いテンポで朗読・暗誦していた。年少組や年中組の子どもが李白や杜甫の詩を大きな声で暗唱・朗誦する様は衝撃的であった。
その衝撃はけっして嫌な感じのものではなく、むしろ小気味良いものであった。子供たちの表情は生き生きとしており、速いテンポでそうした調子の良い詩文を朗誦することを、からだごと楽しんでいることがはっきりわかった。これは、詰め込み式の早期教育とは一線を画する実践である。
「百ます計算」で有名になった陰山英男先生も、長文の素読・暗誦を小学生の授業に取り入れた所、子供たちが一生懸命、取り組んだ、という実践事例を報告している。
子供たちは、大人以上に身体が柔らかい。リズムやテンポを楽しむ身体感覚が優れている。蕪村や一茶の俳句や宮沢賢治の詩を暗唱している幼児を見ると、それが彼らの身体を喜ばすことになっていると感じる。
頭で理解させようとするから難しくなり、子どもの方も面白くない。多少分からない所があっても、名文名句のリズムを楽しみ、身体に覚え込ませる。それは幼児のうちからモーツァルトを聞かせて、音楽の感性を養うのと同じである。
(よき人生の道連れを得た喜び)
斎藤氏はまた老人方を相手にこんな経験もしている。
私は七十代の方々のゼミを数年間担当していたことがあるが、その方々が子どもの頃に覚えた言葉を今でもすらすら言えることに驚いた。そして、そうした言葉を朗誦しているときの、その方々の顔が喜びにあふれているのを目の当たりにした。
子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。
子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。
自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。
国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1,2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。疲れ果てた身体でも、岩の裂け目から流れ出る清水を見つけて一口飲めば、そこから我々は新しい力を得るだろう。ちょうどメロスのように。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生まれた。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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