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略奪精神とセットだったキリスト教

2020年03月22日 | 日本
高山:儒教の国といわれる韓国では、人口の三割くらいがキリスト教徒ですね。中国人にも少なくない。それが日本では一%にも満たない。この違いはどこから来ているのか。

日下:中国と韓国は、なぜ日本がいち早く近代化に成功し、欧米列強に対抗して独立を維持し得たかについて考え、それは日本の底力ではなく、白人文明を受け入れたからだと考えた。そこで彼らも白人文明を受け入れることにしましたが、日本経由で受け入れるのはイヤだった。なぜなら華夷秩序(かいちつじょ)によれば、自分たちのほうがずっと「上」だからです(笑)。

それで“産地直結”という方法を選んだ。白人文明はキリスト教と一緒にやってくる。ならばキリスト教徒になってしまおう。日本人に教えを乞うよりは、よっぽどいい・・・・・と、まあ、こんなことでしょうね。

実は、日本でもクリスチャンになったのは薩長出身者には少なくて、熊本出身に多かった。薩長は、自分たちはもう欧米に学んで追いついたと思っている。熊本はその薩長に追いつき追い越せだから、ならば直接イギリスに学ぶほうが手っ取り早いと考えた。その名残が東京・神田の書店街です。多くの旗本が本屋になった。辞書をつくった。これらはみんな、産地直結運動だと思います。

高山:なるほど。でも韓国が見誤ったのは、日本人はたしかに西欧近代の文明を受け入れたけれど、日本人であることをやめたわけではない。日本人が日本人のまま生存し、国を保つための選択として西欧近代を受け入れたにすぎない。

それはしかし、日本を守るために日本を削り取るような作業でもあったけれど、その苦悩、葛藤を抱えながら、キリスト教徒になるという選択を大多数の日本人がしなかったのは、やはり日本文明に対して無意識にも自信があったからだな、という気がする。

日下:どんなに言葉を飾っても、彼らの根本にあるのは略奪(りゃくだつ)精神で、キリスト教がそれとセットにされたとは、イエス様は迷惑しているでしょう(笑)。キリスト教を理解して信者になる者は知性や理性があり、それがない者は「家畜」となるべき存在であって人間ではない――という法律をスペインはつくった。そうした考えが“常識”として欧米の根っこにはある。

日本人はお人好しだから、「お互いに人間だから、話せばわかる」と考えるが、彼らはこちらを人間だとは思っていない(太平洋戦争でアメリカは日本人を猿呼ばわりしていた)。奴隷制度を続けるため、非信者は人間の中には入れない。

高山:略奪精神とセットというのは、たとえば、インドのゴアでザビエルに日本の事情を聞いて永禄六(1563)年に来日したルイス・フロイス(ポルトガルのイエズス会宣教師)がヨーロッパに書き送った書簡などを見るとわかりますね。日本人の鎧(よろい)の構造や刀の威力、船のこぎ方はどうだとか、すべて日本との戦争のための戦略に通じる国情調査で、まさにスパイの報告書と言っていい。フロイスを知っている豊臣秀吉がやがてキリスト教を禁じ、徳川家康もそれに続いたのは、彼らにはキリスト教の本質を見抜く力があった。

日下:当時は、軍事力でも宗教力でも、彼らより日本が上だったから、宗教や言語の入れ替えを強制されず、日本人の自主的な選択が歴史的に連続してきた。「日本思想」「日本文化」「日本文明」という特長を守ることができた。だから仏教も儒教もキリスト教も日本に入ると角がとれて、融合して丸みを帯びたものになる。

私は、そこで日の丸を連想するわけです。白地で四角に囲まれているけれど、この四角の輪郭が日本国かもしれない。つまり日本は、無色なのです。無色を空(くう)として、そこに価値を置く思想は、欧米にはありません。

しかも、それが西欧的な意味での「思想」というよりも、庶民の「常識」として根づいています。「実践哲学」と言い換えてもいいのですが、たとえば、それを磨き上げた一人が江戸中期の思想家で石門心学の祖、石田梅岩です。梅岩は商家に奉公しながらその業に励むとともに、儒学を独学し、神道、仏教、老荘なども学んだ。ヨーロッパでは貴族的遊民階級だけがする「学ぶ」という贅沢ができた。

梅岩は四十五歳のときに自宅に講席を開き、「人の人たる道」を追求します。弟子の身分を問うことなく、平易な言葉で講義を続け、たくさんの門弟を世に送り出しました(全国に教えを説く塾が百カ所くらいあった)。それは一種の社会強化運動と言え、その根本は、社会的職分を遂行するうえでは商人も、農民も、武士も同じなのであり、その分限を尽くすことが尊いのである、ということです。

石田梅岩の影響だけではありません。日本では、庶民の持つ向上心や勤勉性などが自然に国民道徳というべきものをつくりあげた。江戸末期の篤農(とくのう)家、二宮尊徳もそうです。石門心学を寺子屋で習った人たちが幕末や明治初期にもたくさんいて、教育勅語ができたときも、当時の国民の知的水準は、それを天皇による強制とは受け止めなかった。

なぜなら、教育勅語に書かれていることは、実は石田梅岩の教えが八割ぐらい元になっていたからで、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ・・・・・」というのは、日本人の徳目としてすでに自然なことだったのです。

精神的なものも含め、江戸時代までの蓄積がいかに特筆すべきものであったかが理解できれば、近代以降の日本の急速な発展も自ずと明らかになる。確かに日本人はペリーの来航に驚きましたが、同時に欧米の腹中が見えた。圧倒されながらも、これは追いつけるぞと思った。

明治四(1871)年の岩倉使節団による『米欧回覧実記』によれば、当時の日本の指導者がその差をおおよそ四十年と見ていたことがわかります。日露戦争の勝利が明治三十八年だから、現実はもう少し早く追いついたことになる。

---owari---
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