京都に有名な「東映太秦映画村」があるのは、みなさんご存知のことでしょう。
この地名「太秦」を「うずまさ」と読めるでしょうか?
どう考えても読めません。北海道の地名の方が、まだ理解しやすいかもしれません。
天皇が長く住まれた古都で、なぜこのような呼び名が定着したのでしょうか。
話しはとても長くなるのですが、できるだけ短くお伝えします。
まず、「太秦」の意味は、「秦氏の族長」ということです。したがって、この「秦氏(はたし)」がキーワードになります。
秦氏は大陸から渡来してきた技術集団だったのです。ただし、漢民族(中国人)ではありません。
もっと遠くからの渡来人です。泰氏は、いろいろな分野において、他の渡来人とはまったく性格を異にする、いうならば、まことに奇妙な渡来人だったのです。
秦氏の渡来について、『日本書紀』 巻第10「応神紀」に記載があります。
「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を奉った。・・・・・その年、弓月君(これが泰氏)が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。それで速やかに新羅に行って、弓月の民を救出したと記しています。
百二十県の人民といえば、数千の人数であったと言われており、第二十一代・雄略天皇の時代には、その数、18,170人。これは、古代の人口を考えると、異例の人数です。
京都市右京区太秦に泰氏の氏寺・広隆寺があります。広隆寺は603年(推古天皇11年) 泰河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺です。その本尊が国宝指定第1号となったあの有名な「弥勒菩薩像」です。また、10月に行われる“牛祭(うしまつり)”は京都三大奇祭の一つになっています。
このように太秦は、渡来人秦氏の本拠地として知られているのです。
太秦にある木島神社の境内に「蚕の社」がある。この社は養蚕・機織(はたおり)の先進技術をもった彼らと縁が深い。渡来してきた当初より、秦氏は進んだ大陸系の技術によって、古くから養蚕・機織の産業を手中にし、殖産豪族として名をはせていた。俗に、機織りのハタが秦氏のハタになったともいわれるように、彼らの服飾の技術は進んでいた。現代でも、服飾の一族である服部氏は、ずばり秦氏です。
秦氏は農業や商業のほかに、工業的な面でも、ずば抜けていた。鉱山開発による金銀、鉄鋼などの資源も押さえ、莫大な資産を築き、それによって経済的な基盤を確固たるものにしました。この資金を使って、日本の国家に大きく貢献したのです。身分の面で見返りはありませんでしたが、黙々とこの日本を裏から支えてきたのです。日本に与えた影響は、甚大なものだったのです。
その典型が、京都に平安京をつくったことです。
秦氏には、ハイテク・ゼネコン集団という顔もあります。大陸からの高度な技術によって、超巨大古墳の建設はもちろん、数々の土木工事を行ってきました。そのなかでも最大の事業は「平安京」の建設でした。
はるか昔、京都盆地は「山背国(やましろのくに)」と呼ばれ、非常に劣悪な環境だった。全体に湿地帯で、まともに住むことはできない。最悪なのは河川の氾濫でした。鴨川は蛇行し、盆地全域を荒らしました。宇治や伏見あたりでは膨大な水が溢れだし、伏見という地名も、もともと「伏水」といい、伏流水という意味です。「山背国」は後に「山城国」へと改名されました。
そこにやってきた泰氏は、得意の治水工事によって、鴨川や桂川の流れを大きく変えました。嵐山にある渡月橋近くの「葛野大堰(かどのおおぜき)」は、このときのものです。こうして、泰氏は盆地の中央部を平地として確保していったのです。
八世紀、奈良にあった平城京から遷都が決定すると、泰氏は山背国へ都を誘致したのです。遷都のために、広大な土地と莫大な資金を国に提供したのです。事実上、平安京の大スポンサーだったのです。まさに誘致から設計、施工、資金、人材に至るまで、すべて泰氏一族が一手に担ったのでした。けっして大げさに言っているわけではありません。
考えてみると、平安京は天皇のための都です。泰氏は首長ですが、太秦のための都ではない。都を誘致することで、経済的に発展するのはわかるが、それで、泰氏が十分な見返りを受けた様子もない。むしろ、このときを境に、秦氏は歴史の表から消えてゆくのでした。
それでも、日本には秦氏一族として、歴史的に有名な人物が多く出ています。
前述しました聖徳太子のブレーンであった泰河勝、陰陽師で有名な安倍晴明と戦った陰陽師である芦屋道満、奈良の大仏で有名な東大寺を開いた僧侶、良弁も若狭出身の秦氏です。
それから、戦国時代に活躍した武将たちの多くもまた、泰氏の血を引く者です。九州の島津氏、対馬の宗氏、四国の長宗我部氏らがいました。また、幕末の勝海舟も秦氏の末裔です。
文化的な面でも、秦氏の果たした役割は大きい。もともと美術や文学の面で秦氏の活躍はめざましいが、日本独自の文化を作り上げたという意味で、特筆すべきです。
世界の人々が日本文化を評価するきっかけとなった伝統芸能は、まさに秦氏のお家芸である。歌舞伎のルーツとなった能楽を完成させた観阿弥、世阿弥はともに秦氏です。
また、外国人が日本と聞いて思い出す忍者もまた、その多くは秦氏が担い手でした。有名な服部半蔵、百地三太夫ら、伊賀忍者は、みな泰氏です。かの怪盗、石川五右衛門もしかりです。
秦氏の同族、支族には、当てる漢字は違うが波多、羽田、半田、秦野、波多野、畠山、八幡、さらにまったく違う姓になった林、宗、赤染、辛嶋、長田、長蔵、神保、小松、高橋、原、井出、依智・・・・・と、非常に多岐にわたる。
それでは、本題になりますが、「太秦」は「ウズ・マサ」として分けて考えると、ヘブライ語で「ウズ」は「光」、「マサ」は「賜物」のことで、合わせて「光の賜物」を表現していると言われている。一説には、「ウズ・マサ」は「イズ・マサ」であり、イエス・キリストを意味するアラム語だという。秦氏は遠く中東(ユダヤ、エルサレム)の異教徒だと言われる由縁であります。
京都の市章や府章は平安京のマークを使っているが、それはカゴメ紋、すなわちイスラエルのシンボル、ダビデの星だったのです。太秦映画村の看板にもその名残り「六芒星(カゴメ紋)」が見て取れるのです。六芒星(カゴメ紋)は魔除けの意味があるとされる図形です。
「平安京」を試しにヘブライ語に訳すと、「エル・シャローム」となる。アラム語では「エル・サラーム」―—―そうです、イスラエルの聖地「エルサレム」とは、平安京という意味なのです。
秦氏は日本列島にエルサレムを建設したかったのです。平安京のシンボルがダビデの星なのは、ここが極東のイスラエルの聖地であるからなのです。
さあ、みなさんはどう想像されたでしょうか。
京都にはまだ読めない地名があります。それは「祇園(ぎおん)」です。仏教の「祇園精舎」が語源だと言われていますが、祇園=ギオンとは、エルサレム地方の丘を指す「シオン」のことだという。実際に、シオンは「Zion」と表記し、ジオンとも読めなくもない。しかし、平城京=エルサレムという視点からすれば、その意味は違う。エルサレムにおいて、東側にある地名「ギホン」こそ、祇園なのだ。ちなみに、ここには「ギホンの泉」があることで知られている。
秦氏は大陸の遠くから渡来してきた異教徒ですが、日本神道が好きになり、日本の多くの有名な神社は秦氏が建立したとも言われています。具体的には、稲荷神社の総本山「伏見稲荷神社」がそうです。これを建立したのは「泰鱗(うろこ)」という人物です。また、数の上では稲荷神社と双璧をなす八幡宮がある。八幡宮の総本山は大分の宇佐にある「宇佐八幡宮」ですが、その担い手は秦氏の支族である辛嶋氏で、のちに宇佐八幡宮の宮司も務めています。
また、京都嵐山近くにある「松尾大社」も総本山ですが、創建者は「秦都理(とり)」氏です。
瀬戸内海を挟んで、四国の香川にある「金刀比羅宮」は、もともと「旗宮」と称し、その実は「秦宮」だったのです。全国に広がるコンピラさん信仰は、みな秦氏がルーツなのです。他にも、加賀の白山、ここには全国の白山信仰を築く「白山比め神社」がある。また、京都の愛宕山を開いて「愛宕神社」を築き、愛宕信仰も広めました。さらに、伊勢神宮のルーツにもまた、泰氏は関わっています。泰氏の支族を含めて、日本の神社のほとんどに泰氏が関わっているといっても言い過ぎではないのです。
秦氏一族が実は日本の国家を裏で支えてきた、日本をつくり上げてきたと言ってもよいほどに、日本に貢献しているのです。
さて、みなさんはどのように思われたでしょうか。冬の頭の体操に思いを巡らせてください。
---owari---
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