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歌で詠み解く額田王(ぬかたのおおきみ)〔前編〕

2016年06月11日 | 日本

飛鳥に咲いた一輪の花、謎多き女性・額田王(ぬかたのおおきみ)は、日本のクレオパトラなのでしょうか。

日本書記に「天皇(天武天皇のこと)、初め鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田王をめして、十市皇女(といのひめみこ)を生しませり」とあるぐらいです。

 

万葉集にだけ登場している、そういう謎めいた彼女だから、その歌がより魅力的に感じるのでしょうか。

 

今日はその彼女の和歌を通して、その人となりを探ってみたいと思います。

彼女の生没年が特定できていないので、私なりの解釈や根拠で設定していますので、誤りがあればご容赦ください。

 

前編では、歴史上の出来事や彼女の履歴を中心として、時系列に書きました。

後編では、歌を詠み解き、彼女の人物像に迫ってみたいと思います。

 

額田王(ぬかたのおおきみ)は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人で、天武天皇の妃です。

中大兄皇子(後の天智天皇)の妃となった姉、鏡姫王(後に鎌足の嫡室)がいる。

 

額田王は、飛鳥時代の642年前後、近江の王族、鏡王の娘として生まれ、大化の改新後、16歳で斎明女帝に仕えていました。

万葉集のもとになる歌をたくさん詠んでおり、斎明女帝の側近の中でもずばぬけた裁量をはっきし、宮中一の才女といわれていました。

 

一般には、額田王は稀代の美女で哀愁の超歌人と言われていますが、肖像画も残っていなく、万葉集にだけ登場している、そういう謎めいた人です。生没年も分かっていません。

万葉集以外にも、ほとんど資料が無いようです。それでも、歴史上の人物として有名で、多く語られてきたのは、それだけ彼女の和歌が素晴らしかったということではないでしょうか。

 

額田王は、万葉の女性歌人のなかでもひときわ光芒を放つ存在でした。ただ単に女性らしき繊細さに溢れていたというにとどまらない。和歌における率直な感情の表出は、斬新なものであったし、また当時、はやりつつあった漢詩に対抗して、和歌に叙景などの新しい要素を盛り込み、歌の世界を広げたともいわれている。彼女は、万葉の世紀の初期を代表する歌人であり、柿本人麻呂、山部赤人へとつながる流れを用意した人でもあったのです。

 

万葉の歌人でありながら、当時の政権の中枢にある歴代天皇とも密接につながった生涯は波乱万丈の人生でもあったのです。

天皇家の血筋ということで皇室に女官として仕えていたこと、大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)の正妃として、そしてその後に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)の妃(側室)となった事実があり、この時代の激動の歴史を乗り越えて、生き抜いた飛鳥時代の才女でなかったかと思っています。

 

日本最古の歌集『万葉集』は、日本文学における第一級の史料です。

そこには4~8世紀頃のおよそ450年の間に詠まれた約4500首の歌が収められています。豊かな自然、日々の暮らし、愛の語らい、求婚、嫉妬、いくさ…天皇・貴族など位の高い人々はもとより、名もなき庶民に至るまで多彩な階層の人々の想いがいきいきと詠みこまれ、歌によって現代の私たちはその時代の歴史的背景や人々の心情にふれることができます。

 

額田王が生れた当時は、地方の王族・豪族の子女が天皇家に仕えて出世の道を歩んだ様に、彼女も中大兄、大海人両皇子の母である斉明女帝に仕えた。16歳という年若さでありながら、ものおじせぬ振る舞いと利発さゆえに、話し相手として女帝に可愛がられました。

 

この状況下で,兄弟と額田王は自然と互いの存在を意識し始めたと思われます。宮中で、母(斎明女帝)の側近に仕える美女額田王をひとめみて気に入ってしまった大海人皇子が彼女をものにしてしまうのです。彼女も兄の方には畏敬を、弟の方に「より自然に通じるもの」を感じていたのだと思われるのです。

 

和歌を詠み解く前に、ここで、この激動の時代を生き抜いてきた額田王の生涯を理解するために、歴史上の事件、政変、および歴代天皇の変遷を簡単にご紹介していきます(かなり難解な部分があるのでご理解をお願いします)。

 

(天皇の皇位継承)

・斎明天皇(37代女帝)・・・第35代皇極天皇と同人物:飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)

・天智天皇(38代)・・・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ):近江大津宮(滋賀)

・弘文天皇(39代)・・・大友皇子:近江大津宮(滋賀)

・天武天皇(40代)・・・大海人皇子(おおあまのおうじ):飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)

・持統天皇(41代)・・・天武天皇の正妃・天智天皇の娘・名は鵜野讚良(うののさらら)飛鳥板蓋宮→飛鳥藤原京

 

(歴史上の主な出来事)

・大化の改新・・・飛鳥時代の645年(大化2年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。 中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる。 [額田王は3歳]

 

・白村江の戦い・・・天智2年(663年)白村江での、日本・百済(くだら)連合軍と唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦い。日本は、唐・新羅軍に攻略された百済の救援のために軍を進めたが大敗し、百済は滅亡。日本は朝鮮半島進出を断念した。

当時の日本は、斉明天皇が没し、中大兄皇子が天皇位には就かず政治を主導し始めた時でした。

中大兄皇子への責任問題も浮上する恐れがあったが、大海人皇子と中臣鎌足らと力を合せて、難局を乗り切った。  [額田王は21歳]

 

・壬申の乱・・・天武元年(672年)に起こった古代日本最大の内乱である。天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたもの。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。名称の由来は、天武元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。[額田王は30歳]

 

(額田王の履歴)

・642年ころ、近江の王族、鏡王の娘として生まれる。

・16歳のころ、大化の改新後、斎明女帝に仕えるために、宮中へあがる。

・18歳のころ、大海人皇子(17歳)の妻となる(通い婚)。

・19歳のころ、十市皇女を出産する。十市皇女は後に大友皇子(天智天皇の息子)の正妃となる。

・21歳のころ、友好国 百済を援護するため斎明女帝自らが北九州に向かう。これに額田王も同行し、途中熱田津では万葉集で有名な歌を詠んでいます。この歌は後編でお伝えします。

・23歳のころ、天智天皇の妻(側室)となり、後に近江大津宮の都に住む。

・26歳のころ、近江の蒲生野に遊猟(薬狩り)で、元夫の大海人皇子に、あの有名な「茜さす・・・」の和歌を詠みあげる。これも、後編でご紹介します。

・30歳のころ、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)が自害。天武帝が即位のため、近江大津宮から飛鳥板蓋宮へ遷都。 十市皇女とともに飛鳥に移る。

・44歳のころ、中臣大嶋(従五位上)の妻となる。

・51歳のころ、天武帝の息子、弓削皇子(21歳)から額田王のもとに歌が届きます。以前のように表舞台に立つことがなくなった額田王に対するやさしい歌でした。この歌も、後編でお伝えします。

額田王は昔の歌の才能をフルに発揮して歌を返します。この歌を最後に額田王は、万葉集から完全に消えてしまいます。

・73歳で大和の平群(へぐり)郡額田郷で没す。

 

和歌のご紹介は、後編になります。あしからず。

 

---owari---

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