前編では、額田王が活躍した飛鳥時代の歴史と彼女の履歴を中心にお伝えしました。
額田王は、歳若くして宮中に仕え、歌人として認められ、女帝天皇の実の兄弟から愛されました。
兄の中大兄皇子は実姉の鏡姫王を妃(妻)としてめとり、弟の大海人皇子は妹の額田王を妃とした。このとき、彼女は一歳年上の姉さん女房でした。1年後に生まれた十市皇女(とおちのひめみこ)は後に、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)の正妃となりますが、壬申(じんしん)の乱で父・大海人皇子(後の天武天皇)と夫・大友皇子が戦い、敗れた大友皇子は自害。十市皇女は父のもとに帰りますが5年後に自害するのです。
額田王も十市皇女と一緒に、近江大津宮から飛鳥板蓋宮に移ります。その後、中臣大嶋(従五位上)の妻となりましたが、それ以上の詳細は分かっていません。ただ、娘・十市皇女の自害はショックが大きかったと思われます。この時、父・天武天皇は声を上げて泣いたと記されています。
この時代、宮中では歌人として柿本人麻呂が活躍をはじめており、額田王が宮中に出る幕はありませんでした。また、仕切る意欲もなかったのではないでしょうか。
それでも、若き弓削皇子(ゆげのみこ:天武天皇の第9皇子)から歌が届けば、昔取った杵柄で彼女は歌の才能をフルに発揮して歌を返しています。
波乱万丈の人生でしたが、晩年は大和の地で、穏やかに過ごされたと信じたいのです。
それでは、額田王の和歌をご紹介します。
「万葉集」には長歌三首、短歌九首が載り、万葉初期歌人中、群を抜いている。落ち着いた愛の歌、女の息吹が聞こえる情熱の歌など数が多いだけでなく、格調も一段高い。それゆえに、「万葉集」のスターと言われているのです。
まず、はじめにご紹介するのは、彼女が21歳のころ、友好国 百済を援護するため斎明女帝自らが北九州に向かう途中の伊予の熱田津(にきたつ:今の四国松山・道後温泉近くの港)で集結した時に、詠んだ歌です。博多に向け出陣の宴の夜席で,中大兄皇子の意向で額田王がこの歌を詠みました。この時、彼女は既に中大兄皇子の妃になっていたのです。
『熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな』
歌の意は、
「熟田津を舟出しようと舟子たちも勇みたっている。待っていた月も出た。潮も良い、今さあ漕ぎ出そう!!」
一見、男の人が作ったようなこの力強い船出の歌を、天皇お抱えの歌人として彼女が詠んでいます。何と凛々しいことでしょうか。成熟した女の盛りを見る思いがします。
次の歌は、最も彼女の人柄を感じることができる有名な歌です。
それは、彼女が26歳のころ、天智天皇が即位した天智7年(668年)の5月5日の節句の日に、近江宮近く、琵琶湖東岸の蒲生野(がもうの)の皇室ご料地で、盛大な「狩り」が催されました。
「狩り」と言っても、すぐ頭に思い描く武士のような「狩り」ではなく、男性は馬に乗って春新しく生え変わった鹿の角を取ったり、女性は紫草(ムラサキ)のような薬草を取ったりという風流な物で、言うなれば「野外レクレーション」、今で言えば、お花見か野外パーティといった感じだと思います。
ここで、額田王と大海人皇子のあの名場面が展開されます。
日が徐々に傾きはじめ、「狩り」もそろそろおひらきになろうかという頃、女同士で草を摘んでいた額田王のそばに、向こうのほうから大きく手を振って駆け寄って来る男性が一人・・・・それは、元夫・大海人皇子ではありませんか。
草原の中で薬草取りをしていた額田王と十市皇女を見つけた大海人皇子が遠くから手をふる。
そんなに手をふって、人が見てますよと軽くたしなめる額田王。
久しぶりに顔を合わせた大海人皇子と額田王がなんかいいムードになり、狩のあとの宴会で額田王は皆の前で堂々と歌を詠みました。
『あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る』
歌の意は、
「あかね色を帯びる紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって。野原の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを」
宴会の参加者たちは、天智帝の目をかいくぐって手を振った男は誰なのかと、この歌に返事をする人の歌を固唾を呑んで聞き入ったことでしょう。すかさず、大海人皇子が返歌を詠みあげます。
『紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも』
歌の意は、
「紫草のようにかぐわしい君を、少しでも憎いと思うことなんかあるわけがないよ。人妻だと分かってもこんなに好きなんだから」。
そもそも、もとは自分の妻だった相手を人妻って言うところに大海人皇子の苦悩を感じさせますが、元夫婦としての親しみの感情がよく詠み取れますね。
この歌は、天皇が主宰した夜の酒席の席で詠まれたもの。酒宴の席の事とは言え、現在の夫、時の最高権力者・天智天皇の前でこういうやりとりが出来る「大人の世界」に感心すると共に、「みずみずしい情感」に依然変わらぬ二人の心の絆を感じたのです。
最後に、若き弓削皇子(ゆげのみこ)から届いた歌とそれに交わした彼女の返歌をご紹介します。
693年(持統7年)、持統天皇が吉野へ行幸(ぎょうこう)された時、同行した弓削皇子(21歳)が額田王(51歳)に贈った歌です。
『いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の 御井の上より 鳴き渡り行く』
歌の意は、
「弓絃葉の繁る泉の上を鳴きながら渡って行く鳥は、昔を恋慕ってるんでしょうね」
以前のように表舞台に立つことがなくなった額田王に対するやさしい歌でした。
これに対し、額田王は歌の才能をフルに発揮して返します。
『いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が恋ふること』
歌の意は、
「あなたの言う鳥はほととぎすでしょ?きっと私と同じように遠い昔を恋慕ってるんですよ」
この歌を最後に額田王は、万葉集から完全に消えてしまいます。
それから6年後の699年(文武3年)7月に、弓削皇子(ゆげのみこ)は27歳の若さでこの世を去りました。
飛鳥の時代は、律令国家を作るとても大変な時期で、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱など、激動の時代といえます。当時の権力者は、いつもピリピリと神経を使っていたと察します。
しかしながら、一方で万葉集の歌を通じてこの時代にのびのびとしたおおらかさを感じるのです。
現代の私たちが、俳句や和歌を詠んだりするのとは違う異次元の力を覚えるのです。
万葉集があるなしで、ガラリと、この時代の印象が変わります。
その中で額田王は、万葉集でとても活躍され、この時代を代表する特別な存在だったと思います。
さて、額田王はどのような美人であったのでしょうか。
参考にするべきものがあります。それは飛鳥美人と言われている“高松塚古墳壁画の女子群像”です。
色彩鮮やかな女子群像はふっくらとした輪郭、切れ長の目の美人です。
この時代の美人なら美人歌人と呼ばれた額田王に当らずとも遠からずではないでしょうか。
万葉集のスター、飛鳥の美人、額田王に感謝申し上げます。
---owari---
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