ただ、私はあなたがたに言っておく。
一時的にそのような気持ちになる者は、数多くある。
仏のために、仏の教えのために、そして、自らが悟りを得るために、
一時的に身命を賭すという気持ちになることは、
そう難しいことではない。
ただ、おそらく十中八九の人間は、やがてその感激を忘れ、
平凡な生活のなかに埋没してゆくということだ。
その感激を忘れ、その尊さを忘れた時、また自らも転落し、
平凡なる河原にて、石を数えているということを忘れてはならない。
よいか、
修行への道は日々の発見であり、日々の感動である。
もし、そのようなものを感じなくなったとするならば、
もはや慢心していると言わざるをえない。
慢心したる者は、悟りへの入り口をくぐることはできないのだ。
慢心したる者は、その門より追い出されることとなる。
その門から転げ出、そしてやがて
元いた道を引き返さざるをえなくなる。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
およそ、人生の勝利とはこのようなものだ。
一時的な決意は、すべての者がすることができる。
しかし、その決意を堅持することは難しい。
その決意を堅持することができた者は、
さらに大いなる境地に達することができるであろう。
その不退転の境地に達した時に、
天も地もこれを祝うであろう。
---owari---
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