創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-50

2015-11-11 08:47:48 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------228--本文
●嘘と摩り替え(すりかえ)の名人
 独裁者は衆知を集めることをしないものですから、しばしば誤りを犯します。すると、彼は独裁を守るために、嘘をついたり、責任を他に転嫁したり、話の内容を摩り替えたりします。
 このような嘘・摩り簪えの手法としては、----
 ①部下に責任をかぶせる
 ②造反者のせいにする
 ③発言内容を、後で自分に都合のよいように変化させる--などが考えられます。
 実話小説『破滅』にも、至る処で嘘や摩り替えが見られます。たとえば、「それは、池島が聖道学会の会長に就任して、一度、島原の家を訪れた時のことであって、池島は、若い島原にこう言った。
『君は何があっても私についてくるか?師弟というのは、たとえ師が地獄の相で死んでも、疑わずについてくるのが本当の弟子なんだ』(中略)
 かって第二代会長の戸島は、初代会長の牧山に対して、『先生の広大無辺な慈悲は、私を牢獄にまで連れてきてくださった』と述べたことがある。広宣流布という未聞の大事業に挺身する強い決意と信念--これを共有していく意味あいがこのことばにこめられていた。
 池島の『師が地獄……』ということばの真意もそこにある。つまり、同志間の苦悩の共有、強い絆を強調したものであった」
 と、かって(昭和三十五年五月四日)の池田(池島)の発言内容をごまかしました。
 しかし、この「師が地獄……」発言からは、どう考えても、師弟・同志間の苦悩の共有、強い絆の強調の意味は出て来ません。なぜなら、この発言中の“師”は、すでに地獄の悪相を現じて死に、後からついて行きたくても、もうこの世にいないわけですから。
 後になって自分の都合で発言内容を擦り替えると、辻棲が合わなくなる一例だと思います。

●「師が地獄…」の真意
 ゆえに、この発言を素直に解釈すれば、次のようになります。
「私たちの師は地獄の相で亡くなった。今、私.池島(=池田)は、その跡を継いで第三代会長になった。先々、私が地獄の相を現じたとしても、君(島原すなわち原島嵩)も私を師として、疑わずについてくるか?」と。
 嵩は、その時はまだ戸田会長の死相のことを知らず、池田の言葉を別の意味(師弟間の苦悩の共有、強い絆など)に解釈して、元気よく「はい!」と答えたのだと思います。
 この「師の死相」について、嵩は、後で父から聞いて初めて知ったそうです。父としては、これから学会を背負って立つ人材に成長することを期待していた嵩に、気掛かりだったことを伝えておきたかったのでしょう。
 池田は第十一回社長会(昭和四十三年三月)で、次のように述べています。「まだ誰にも話していないが、戸田先生のなくなる時が大変だった。私一人しか知らない」と。この言葉は戸田会長の臨終の良くなかった様子を、遠回しに示したものと思われます。
 そして、池田は自らの『若き日の日記』に、「先生が行かれる処に私は行く。唯それだけだ。師が、例え地獄にゆこうと、勇んで、地獄にゆくことこそ、真の師弟だ」(昭和二十五年七月二十七日)とも記していますが(※嵩によれば、この日記は後に書き変えられたものだそうです)
 この記述の意味するところは、「たとえそれが、どんなに道理に合わないことでも、師の命令とあらば、弟子として疑わずに実行せよ」ということに他なりません。見事な(?)言葉の摩り替えではないでしょうか。
 学会ぐるみの数々の反社会的事件、暴力・言論弾圧・盗聴・スパイ行為などは、このようなゆがんだ師弟観のもとに起こされたのです。

●甘くて浅はかな地獄観
 戸田第二代会長が牧口初代会長に対して、「先生の広大無辺な慈悲は、私を牢獄にまで連れてきてくださった」と述べたことについて、はたして、戸田会長がこのとおり述べたかどうかは、私の記憶にはありませんが、獄中で悟りを開いたという戸田氏は、これと同様の感情を抱いたことは考えられます。
 しかし、この言葉を引き合いに出して、池田の「師について地獄へ……」発言を正当化しょうとするのは、あまりにも甘く浅はかな地獄観ではないか、と思います。地獄とは、いうまでもなく、この世で最も重い罪を犯した者が感得する極限の苦悩の状態です。仏教では、地獄は私たちの住む世界の地下にあって、上から教えて六番目の所にある焦熱地獄に焼かれる罪人は、上の五つの地獄の火を臨み見ては、霜か雪のように冷たい、と思うそうです。まして、最下の無間地獄の火に焼かれる苦しみは想像もつきません。
 したがって、この世で火災などによって命を落とす方達の苦しみも、死後、ほとんど永劫に続く地獄の苦しみに比べれば、ごく軽いものといえるのであって、死後に地獄に堕ちないためにも、生前にできるだけ善根を積むことが望まれるのです。
 ゆえに、「師が、地獄へ行くなら、勇んで地獄にまでついて行く」というのは誤った概念で、日達上人の仰せのように、もし師が地獄へ行くような悪行を重ねるなら、面を冒してでも諫めるのが本当の弟子の道のはずです。
  --------改頁-----232---つづく--

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