悪しき天才“池田大作”巨大な俗物

そこまで“あさましくて”いいんかい!!

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-27

2017-06-23 07:55:20 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(153P)---(以下本文)-------

創価学会幹部の元に生まれた私と池田大作    小川 峰湖
                                 善福寺信徒 
 私は昭和49年1月に生まれた。父も母も心から「池田先生」 仕えていた時期である。
 父と母に聞いたのだが、私が生まれるまでの5日間は次のような感じだったらしい。
 19日、第1回九州大学会総会。九州学生部長の父が“池田先生”を案内した。
 20日、第22回青年部総会(北九州市立総合体育館)平和憲法擁護委員会設置発表。来賓のマスコミ、学者、文化人は空前の出席率。“池田先生”が「来賓本部の責任者は?」と聞くと、原田稔学生部長が「小川君です」と答えた“池田先生”は大輪の胸章を外して「よく頑張った。これを小川君に」と渡した。その胸章は我が家の応接室に大切に飾られていたらしい。
 21日、九州最高会議で父が“池田先生”から総務室員に任命される。
 22日、第171回本部幹部会(福岡・九電記念体育館)
 毎日がずっと“先生”と一緒であり、おそらく多忙を極めただろう。
 23日、福岡の産院で私が生まれた。雪の中、父が駆けつけたのは深夜だったそうだ。
 翌日、九州文化会館で“池田先生”に「娘が生まれました」と報告。
 “先生”は側にいる持永利之第一庶務室長に「(生まれたという)報告は聞いてないぞ」といった。
「(命名願は)お持ちしています」と書類を出した。“先生”はそれを手に取って「うん、これでいい」と父に見せた。そこに「蜂湖」とあり、それが私の名前になった。
 父も母も創価学会の本部職員同士で結婚した。私は典型的学会二世である。池田大作は名付け親だが、直接面識があるわけでも言葉を交わしたわけでもない。父や母、その周りの大人たちが口々に「池田先生」「池田先生」というのを聞いて幼年期を過ごした、というのが私の印象だ。
 私が「池田大作」といって思い出せるもっとも古い記憶は、少年部員会で「池田先生は世界平和のために働いていらっしゃる、すごい方なんだよ」との話くらいだ。
 このように、幸か不幸か池田大作の記憶はそう多くはない。私には遠い人だった。
 だが、彼が私に間接的に与えた影響は、今思い返してみれば大きかったと言わざるを得ない。

参院福岡地方区の思い出
 私には0歳の時の記憶がある。そう言っても信じてもらいえないことがあるのだが、本当である。
「頼りにしていた人(母)がいきなりいなくなった。置いて行かれる時には精一杯泣いて抵抗したが、当然ながら状況は変わらず。しばらく経つと諦めもつき、祖母を頼りにして行こうと落ち着いてきた。そんな時忘れかけていた母が迎えに来た。私の心中は『嬉しい-』でも『会いたかった』でもなく、『せっかくこの人(祖母)に慣れたのにまた変更されるのか!』と腹が立って大声で泣いた」というものだった。この長期不在の原因は、母か生後一か月の私を実家に預けて、せっせと選挙活動をしていたというものだった。それが「参院福岡地方区ではじめて公明党が議席を獲得した時のことだよ」と聞かされたのは小学生になってからである。

東京での生活--生まれてから小学5年生まで
 生まれてから4歳までを福岡で過ごし、昭和53年4歳から10歳までを東京で過ごした。物心ついてから私が8歳になるくらいまでは、父も母も「学会活動」を熱心にやっていたように思う。私は朝3時に起きて聖教新聞の配達の手伝いをしたり、座談会や、板橋文化会館での集会や大会など、ほぼ毎日学会員の人達に接していたように思う。
 週末になると、自宅には父が連れてくる、文字通り様々な人達であふれかえっていた。中には外国の方もいた。皆それぞれにお土産をくれ、それがとても嬉しかったのを覚えている。
 私が10歳になる少し前から、父、母から「池田先生」という言葉を聞くことが少なくなっていた。
 そのころ(昭和57年)父は学会本部(私にとってみれば私たちがご飯を食べるための仕事)をやめ、学会を側面支援すると話していたように思う。
 都心に事務所を構え、アメリカを訪れていた。定期収入を失った父の元で、徐々に生活が厳しくなっていったのは子供ではあったが気付いていた。父は帰宅することが減り、怒りつぼくなっていった。母もまた、何かに神経をとがらせているようであった。そんな状況の中、5年生になる前の春休み、唐突に福岡への引っ越しが決まった。「今週末福岡に引っ越すから」くらいの勢いで引っ越したように思う。荷物も運送も業者を頼まず、すべて父の仲間である河上雅夫さん、大渕清子さん、後藤順子さん達に手伝ってもらった。

一家離散の罰--小学5年生から高校卒業まで
 福岡では、母が働き、母と私と妹の実質母子家庭生活が始まった。父が帰ってくるのは盆と正月の年に2回。久々の帰宅で最初の内は優しいが、二、三日すると厳しい父が顔をだした。私たち姉妹は食事中に父から怒られる要素がないかどうかを気にして、押し黙つて食事をするようになった。
 朝、夕の勤行をきちんとしなくても怒られなくなり、あんなにしょつちゅう行っていた学会の会合にも行かなくなっていた。
 私が13歳の時、父と母が離婚した。母は「形だけ離婚することにしたから」といった。母は私を良い意味で子ども扱いせずに、生活が厳しいことや、その時悩んでいることなど、できる限りのことを話してくれたので、特に離婚をいやだと思ったことはなかった。生活するためには離婚という形が必要だったし、「この状況じゃ仕方ないよね」と思っていた。当の父も電話で話すときには必ず「蜂湖は娘だけど小川家の長男だ。お母さんを助けるんだ」と私に期待をかけてくれた。母との生活を守ることが、その時の私に課せられた「やるべきこと」だと思っていた。
 母が父を恨んだり、憎んだりして離婚したのであれば、もっと違った疵を私や妹に残したのかもしれないが、父も母も必死に理性を働かせようとしている、と感じていた。
 しかし、そうであっても形は離婚、一緒には暮らせない一家離散の状態である。
 我が家はいわゆる「普通の家庭」ではなかった。
 それが、池田大作が私に間接的与えた影響、つまり、家族皆で仏法を間違って信受していたからだったとは、その時は全く分かっていなかった。

「蘇生への選択」の勉強会から変化の兆し
 そんな生活が続いていた平成2年の夏、福島源次郎さんから連絡があった、と母が話した。
 福島さんは『蘇生への選択』という本を書いて、学会員向けに池田教破折の勉強会を福岡でも開催していた。 福岡市内から電車とバスを乗り継いで一時間半もかかる我が家にも来て下さり、私もいろいろとお話を伺った。
 福島さんが「何か質問はありますか?」と言われるので「どうして朝・夕勤行しなくてはならないのでしょうか?」と聞いた。福島さんは「朝・夕勤行するのが御本尊様との約束だからですよ」という趣旨のことを話してくださった。他にもいろいろと不躾に聞いた私にいやな顔ひとつせず応えてくださり、「峰湖ちゃんにプレゼントです。たくさんのことを勉強してください」といって小学館の『国語大辞典』という分厚い辞典を送って下さった。その辞典は今でも大事に持っている。
 今思うに、「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ」(諸法実相抄)の御金言のとおり、福島さんは行学の大切さを教えてくださろうとしたのだと思う。教学を研鑽することを怠っていると、池田会長のように仏法を曲げてしまう者(邪師)に会った時、その間違いに気付けない事を、身を以て体験された福島さんならではの言葉だったのだと思う。

「蘇生の集い」勉強会の思い出
 福島さんの勉強会では、私と母は受付や書籍の販売、お茶出し。小学生だった妹は恥ずかしそうにカンパの呼びかけをした。
 ある勉強会のときだった。母と妹は先に出ており、自宅には私が一人きり。出かける前から急にひどい吐き気と下痢が襲い、とてもではないがトイレから出られない。虫の知らせなのか、父が心配して電話をかけてきてくれた。状況を話すと「それは魔が競っている。御本尊様にお題目を唱えてとにかく『魔を打ち破って勉強会に行くんだ』と決心しなさい」といわれた。体調不良の時に親からそんなことを言われたのは初めてだったので、「普通は『安静にしていなさい』じやないのかな?」と正直びっくりした。言われたとおりにすると、なんとか動ける状態にはなった。しかしまだ腹痛も吐き気もあり、回復した、といえる状態ではなかった。父に言われたとおり「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と小声で眩きながら、自宅から会場の中間地点くらいまでどうにかたどり着くと、父が迎えに来てくれた。すると不思議な事に、会場についたら徐々に吐き気も腹痛もなくなったのだった。普通とは違う、けれど、不思議な体験だなあ、と思ったのを覚えている。
       ---------(158P)-------つづく--

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サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-26

2017-06-22 08:24:17 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(147P)---(以下本文)-------
2-2
◆ “言論出版妨害事件”を法難として職員を締め付け
 当時学会本部には緊張が走り、この事件を“法難”と位置付け、職員全員を集めての“全体会議”が毎月開催されていました。
 全体会議というのは、学会本部、聖教新聞、公明党本部、潮出版社、民音等の外郭団体に勤務する職員など一千名以上が参加して行われる会合です。池田大作は、最初の頃は出席していましたが社会の糾弾が厳しくなってから、どこかに雲隠れしてしまいました。代わりに北条会長や秋谷副会
長などの最高幹部たちは、自分たちが仕出かした不始末は棚に上げ、共産党の謀略であるとか、反学会勢力の攻撃であるなどと取り繕っています。
 最後は学会の得意とする「法難だから、一致団結して乗り越えていこう」と職員を叱咤激励するありさまでした。まったく、反省や改善を考えない、独善と狂気の無反省集団が創価学会の悪しき伝統になっているのです。
 そして、公明党も創価学会も「言論出版妨害」という事実は全くないと公式に発表しました。しかし、当時公明党幹部が自民党幹事長の田中角栄氏を動かし藤原弘達氏に直接圧力をかけたり、実際に書店回りをやらされている私たち職員がいるのにそういう事実はないと言ったんです。池田大
作をずっと信じてきて、入社してわずか1年半でこの問題に直面して、池田に対する尊敬も信仰心も音を立てて崩れてしまいました。
 許せないのは、池田大作の厚顔無恥の行動と発言です。昭和45年5月3日、第33回本部幹部会の席上、この「言論出版妨害事件」の責任を取り、池田大作は世間に向け謝罪しました。いわゆる「言論の自由を守る」「政教分離」「量より質への転換」などの約束でした。

一度は謝罪するも、その後歴史を改竄
 二度と過ちはしないと社会に宣言したのに、10年たってから一般紙のインタビューや小説「人間革命」では、この事件は、一部の人間がやったことと嘘の弁明をしていることです。「嘘も百篇いえば本当になる」とは池田大作の常套句になっていますが、無慚極まりない宗教団体に変質してしまいました。
 その後池田大作は“言論出版妨害事件”の歴史を改竄しています。例えば産経新聞のインタビューとか、小説「新・人間革命」の中で嘘を平気で言い出しています。
 しかし、“言論出版妨害事件”を起こした聖教新聞社出版総局の実行班の一人として動いた私が事実を申し上げた通りです。
 私自身、再度藤原弘達著の『創価学会を斬る』をじっくり読んでみました。どこもかしこも、その批判本に書いてある通りなのです。特に「公明党との政教一致が将来日本の民主主義に弊害が生じてくる」との指摘がその通りになっており、自民党にすり寄り自公連立政権にしがみつく公明党の存在により、日本の政治状況の退廃ぶりは目を覆うばかりです。確かに、“言論出版妨害事件”という歴史のターニングポイントにより、池田大作の野望は雲散霧消しました。しかし、独善的な宗教政党公明党は党利党略に終始しており、創価学会の利益誘導の役割に汲々としています。日本に“創価毒”をまき散らしております。池田創価公明党は、歴史から退陣することこそ日本国民が希求していることを知るべきでありましょう。

 話は変わりますが池田が婦人部の幹部を次から次へと篭絡していく手口を先輩から聞かされたことがあります。自分のものにした後は、どんどん要職につけて幹部に仕立て上げ、中には国会議員にしたりしていたというのは、すでにマスコミに報道されています。
 池田大作の躓きのすべては“言論出版妨害事件”であったといっても過言ではありません。要するに池田大作が天下を盗れる時、すなわち総体革命が成功し、池田が総理大臣になって日本の国を治めるというシナリオを描いていました。その野望が狂いだしたきつかけは“言論出版妨害事件”なんです。

創価学会・池田大作との決別
 この事件をきつかけに私が池田に会っても池田を尊敬する目で見なくなっていました。それを目ざとく見つけられ、池田に糾弾されてしまいました。ある時の全体会議で池田が入場するや否や突然「岩崎はいるか」と大きな声で呼ばれ、「はい」といって立ちあがりました。その時の池田の言葉は「お前は創価学会員じゃない」というんです。私はでかい声で「創価学会員です」と言い返しました。すると今度は「お前は霊友会だ」とか、「立正佼成会だろう」などと言い、「北条、そうだろう」と言いましたが、北条さんは黙っていました。そうするうちに池田が力ーッとなり「顔色が悪い、健保へ行って注射を打ってもらってこい」というのですよ。私は情けなくなりました。本当の指導者なら「岩崎君、顔色が悪いけど大丈夫、頑張れよ」というような言葉をかけてくれると思うんです。
 それとは正反対な低次元の嫌がらせを1500人もの本部職員の万座の前でされて、ほとほと嫌になり、聖教新聞社を辞めようと心に決めました。しかし創価学会職員を辞めたら,酷い嫌からせを受けるんじやないかという不安が頭をよぎりました。池田創価学会にはそういう一面があることを知っていたからです。昔、男子部員が名前を隠して立正佼成会や共産党のオルグに人っていたグループがありました。その連中にやられるかもしれないという覚悟をして辞めました。私が言論出版妨害問題についていえることは、前述した通り間違いなく19人の職員が都内23区の書店を回って圧力をかけていました。それが小説「新・人間革命」では、2、3人の学会青年部員が…と書かれていますが、まったくのデタラメです。
 その後、昭和55年7月辞職願を上司の山崎氏に出しましたが受け取ってもらえず、横松総局長に慰留されましたが丁重に断り、最後に北条会長の面談となりました。北条会長は「世間の風は冷たいから体に気をつけて頑張りなさい」という言葉をいただき、退職することができました。聖教新聞社退職後はしばらく様子を見るため学会の組織に留まっていましたが、池田創価学会は総本山乗っ取りを画策したことなどにより、平成3年(1991年)日蓮正宗から破門となりましたが、これを機に創価学会と決別し、品川の妙光寺にて勧戒を受けて法華講に入講しました。それから24年、日蓮正宗の信徒として御法主日如上人猊下ご指南の通り、一人でも多くの創価学会員を正法に帰伏できるよう余生をささげたいと思います。
    ---------(152P-この項オワリ-)-----つづく-- 

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サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-25

2017-06-21 09:02:17 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(143P)---(以下本文)-------

“言論出版妨害事件”の当事者として  岩崎文彦
                          元聖教新聞社出版総局職員
                          妙光寺信徒
                          神奈川県川崎市宮前区在住
大学卒業時、幹部の指導で本部職員を受験
 私は1943年(昭和18年3月)中国大陸の内モンゴル包頭(現中華人民共和国モンゴル自治区包頭市)というところで生まれました。当時父がこの地区の商工会議所の責任者をしており、2階建て洋館に住み二人のメイドさんを雇う比較的裕福な生活を送っていたようです。しかし1945年(昭和20年)の終戦により暮らしは一変。中国から引き揚げることになり、地獄のような辛酸をなめ命からがら日本へ帰還しました。多くの犠牲者をだし、引揚者の中には子どもを中国人に預ける人、やむを得ず置き去りにせざるを得なかった人もいたそうです。
 帰国の過程で死亡や行方不明となった人も多く、数万人に上る孤児が生じたといわれています。
 いわゆる中国残留孤児と言われる人たちです。1972年(昭和47年)の日中国交正常化の後、数千人の人は日本への永住帰国が実現していますが戦後27年のことです。中国残留孤児と言われる人は私と同年配の方が多く、決して他人事とは思えませんでした。戦争の悲惨さは今更言うまでもありません。
 ところで創価学会との出会いは私が中学生のころ母が入会していましたが、私は宗教には批判的でしたので、創価学会に関する母の話に耳を傾けることはありませんでした。しかし大学受験に失敗し、浪人をしていた時に隣家に住む中年の夫婦から折伏を受け、罰と功徳の話に反発していましたが、あまりの熱心さに負けて散々悩んだ末昭和38年2月、19歳の時に品川の妙光寺にて御授戒を受けました。入会後は第一志望の大学ではなかったものの滑り込み受験した大学へ入り、入学後は学生部員として真面目に学会活動に励むようになりました。その後グループ長を経て大学4年の時には多くの部員を預かる部長となり、使命感を持って学生部を中心に学会活動に没頭していました。
 就職活動も早い段階である会社から内定を受けており、その会社へ入るつもりでいました。ところが組織の上層部より創価学会本部職員の試験を受けるようにとの指導があり、気が進まなかったのですが学生部の部長職という立場から断ることもできず、しぶしぶながら受験しました。内心不合格を望んでいたのですが意に反して本部職員に採用が決まり、配属されたのは聖教新聞社出版総局でした。

聖教新聞社に配属され、一般書店回リ
 新聞社での仕事は決められた地域の書店回りで、主に小説「人間革命」など池田大作会長の著作を書棚に置いてもらい、書店内にコーナーを確保することが日常の業務でした。入社間もないある日、聖教新聞社出版総局で残業をしていたところ、池田会長が三人ほどの大幹部を帯同して現れ、橫松総局長が私を池田会長に紹介しました。池田会長は私の顔をじろっと見て「ううん、なかなかいい男だね。君とは300年ぶりに会ったね」などと意味不明なことを言い、何か激励でもあるのかと思いましたが、それはありませんでした。冷蔵庫からオレンジジュースを持ってこさせ、自分で口をつけてから、私へと回し飲みをすすめられ逆らわずに飲みました。そして他愛無い話をして立ち去っていきました。日頃本部幹部会などで遠くから見ていたのとは違い、背が低くて小太りなおじさんという感じで決して品性や知性を感じさせるものはなく、宗教指導者という雰囲気もまったくありませんでした。
 聖教新聞社へ入社してから一年を過ぎた昭和44年頃、創価学会は「言論出版妨害事件」を起こしました。昭和35年、池田大作は32歳の若さで創価学会第三代会長に就任。昭和40年頃、池田氏は評論家の高瀬広居氏のインタビューに応え「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」などと発言しており、人格や精神状態を疑わせるような極めつけの慢心伏態にあったと言えます。
 その5年後、会長就任から約10年目、“天下を取る”ことを公然と言っていた時期にこの「言論出版妨害事件」が起きました。公明党を手駒にし、総体革命路線の進展とともに、池田氏は本気で総理大臣になるつもりだったようです。
 ある時、竹入公明党委員長が池田会長を国会に案内した折に、「この次先生が国会へ来られるときは、総理大臣としてお迎えします」ということを話したと聞いたことがありますが、このことからも池田大作の本気度ぶりがうかがえます。
 しかし、日本を支配するというシナリオを根本的に狂わせたのが、この「言論出版妨害事件」であったと私は思っています。

昭和45年総局長の指示で書店に圧力をかける
 先にも述べましたが当時私は、聖教新聞社の出版総局で仕事をしており、入社以来私の日常的な業務は書店回りです。書棚に聖教新聞社出版の刊行物や単行本、池田会長の著作本をコーナーに置かせてもらったり、啓発していくことが仕事でした。
 ある時、業務局に各部局から内々で19名ほどの職員が緊急に集められました。各部局というのは、聖教新聞社はじめ、潮出版社等外郭企業の職員も含まれています。いわゆる、一般書店に出入りしている職員たちでした。
 橫松昭出版総局長(当時)と青柳清出版局次長(当時)がこの「言論出版妨害事件」の現場実行班の責任者として私たちを招集したのです。横松氏の上には北条浩氏(第四代会長)がいて、それは当然池田大作の命令があってのことです。昭和45年のことでした。横松氏は「実は藤原弘達が『創価学会を斬る』という批判本を出した。ついてはそれぞれ担当地区の書店を回り、本屋の店頭からその本を引っこめさせてくれ」という指令が出たのです。
 招集された19名は、マニュアル通りに都内の書店を一軒一軒回り、『創価学会を斬る』という本を並べるようだったら、今後は『人間革命-(当時学会員は書店で買うように指示されており、ベストセラーになっていたので書店では大きな利益を得ている)を扱わせませんよといって書店に圧力をかけていきました。
 私も担当地区である新宿の書店を訪ねると、その本は一番目立つ場所に並んでいました。店長に挨拶し、「聖教新聞社の者ですが、ここにある本を売らないように、なんとか協力してもらえないでしようか」と言ったんです。すると店長が突然豹変して「いや、なんですか、あなたは。この本は売るためにあるので、売る権利は私にあるでしょう」と至極当然のことを声を荒げて言われたんです。返す言葉もなく、私はすごすごと書店から引き揚げざるを得ませんでした。
 こうした一連の出版妨害により、各所で問題が噴出しはじめました。たとえば、当時民社党の塚本書記長や、日本共産党の松本善明議員等が国会で“言論出版妨害事件”の追及をしたのです。さらにマスコミが一斉に動き出し創価学会の独善的な体質を追求し始めました。
 私たちが実際に書店に圧力をかけている実行犯なので、聖教新聞社職員の名前も証拠として提出されていますから、逃れようがありませんでした。書店まわりをしているある日、喫茶店で“創価学会を斬る”を読んでみたんです。すると読み進むほどに引き込まれ、「公明党と創価学会は政教一致している」など、藤原弘達氏の言っていることは全くその通りで頷けることばかり…感銘もしました。自分自身が目覚めた思いです。
       ---------(147P)-------つづく--

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サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-24

2017-06-20 07:49:27 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(137P)---(以下本文)-------
4-4
直訴の青年に周章狼狽した池田大作
 私はN君と信濃町駅で落ち合い、共に創価文化会館の案内所の受付に向かいました。受付で時間稼ぎをして池田大作を待ちました。もうそろそろ池田が高級車に乗り登場するはずです。案内所の隅で、私とN君は池田大作を今や遅しと待っていました。計画通りの進捗状況です。
 警備陣の動きで池田到着が分かりました。池田は私たちの近くの案内所前で止まり、乗車していた来客を伴って降りてきました。
 池田は来客に何か説明でもするかのように、立ち止まって話をしたりしています。すこぶるご機嫌の様子でした。
 私は、頃合いを見て「今ですよ!」とN君の背中を押したのです。
  N君は「センセー! Nです! センセー! Nです!」と声を張り上げながら「センセー! お話があります」と池田に迫っていきました。私は、この計画は半ば成功したことを確信しました。
  この一瞬の出来事に、池田大作の警護隊をはじめ、第一庶務の職員たちは、なす術もなく見守るばかりでした。まるで時間が止まったかのようです。
  池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(池田はN君とは創価学園の校友会で既に会っています)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎のように逃げ出したのです。
 かなり驚いたのか池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走したのです。その光景は、“永遠指導者”を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽な喜劇役者のようでした。
 私は、この歴史的(?)な出来事を、映画の一シーンをみているように、冷静に観察していました。
 可哀想に池田に置き去りにされた来客の、ひきつった顔や池田警護隊の、茫然自失の態、本部職員たちの金縛り状態等々。どれ一つを取っても、池田は、はらわたが煮え繰り返る思いだったことでしよう。
 私は、池田大作の本当の姿を目の当たりにし、このような噫病な男を「稀有の指導者」と錯覚していたことが、私にとって得難い体験となりました。
 この日、池田大作は、本部全体会議に出席の予定でしたが、動揺のあまり、職員の前に出ることが出来ず、会議を欠席してしまいました。
「おごる者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身と成りて隠れしが如し」と御聖訓にお示しのように、増上慢の権化・池田大作の遁走の顛末でした。

「NHKオペラ公演時に池田を諫言する」
「諸悪の根源は池田にある」ことを知ってから、池田に直接に会って、「創価学会員が可哀想だから、日蓮正宗との争いをすべきではない」と言いたい、との強い思いが溢れていました。
 意外に早くその機会が訪れました。
 NHKホールで民音招聘の国際オペラが上演されるわよ、とチケットを知り合いの婦人部幹部から入手しました。池田大作も出席するとの情報も得ました。
 私は「千載一遇の機会」と喜び、勇躍オペラ会場のNHKホールに向かいました。
  鬱積していた創価学会への想いを、池田大作に勇気を出してぶつけてみょうと奮いたったのです。
 池田大作にどのような場面で逢えるのか、ロイヤルボックスの近くまで行けるのか、または、歩いてくる途中の廊下で捉まえられるのか、はたまた池田専用車の乗り降りの機会に話しかけられるか…だが、実際の場面はそう簡単ではありませんでした。
 私の気持ちは興奮状態で、なんども席を立ったり、VIPの通りを窺ったりして、平常心をなくしていました。私は少し焦っていました。
 私の席はホールの後ろの方に位置しているので、池田の座るロイヤルボックスとは、かなりの距離がありました。
 オペラのオープニングを知らせるブザーが鳴り始めました。その時、ロイヤルボックスの辺りに、観客に気づかれないように座る池田大作のシルエットを確認できたのです。私は乱れる気持ちを有しながら、平常心を取り戻すため、心静かにお題目を唱え始めました。
 何の目的でここに座っているのか、池田を前にして怖気づいている自分を叱咤激励するため更にお題目を上げ続けました。
 私の気持ちが落ち着き始めたのは、オペラの一幕の中頃でした。
「センセー、今日は残念ながらお会いできないかもしれませんが、どうか、学会員を信仰という世界で路頭に迷わせないでください」と心の中で池田に向かって叫んでいました。
 一幕のエンディング曲が始まり、クライマックス場面を迎えたその時、ロイヤルボックスの池田が動き始めました。中休みで場内が明るくなる前に、観客の目を避けての行動ですが、すでに池田警護隊が静かに忙しなく配置についている様子が見て取れます。
 池田が退場する一方の出口には警護の人間たちが待機しています。
 その後、予想もしない、信じられない奇跡が起こったのです。人はこれをオカルトの世界というかもしれません。
 お題目の功徳というのか私の想いが池田に変化を起こさせたのです。
 一旦は出口に向かい歩き始めた池田が、何を思ったのか、私の座る近くの非常口を見るなり、踵を返して狭い通路を歩き始めたではありませんか。
 それも夢遊病者のようにフラフラと、何かに誘われるかのようにNHKホールの狭い通路を上がってくるのです。私の全身が総毛立つような感覚になり、「とうとう池田を捉えた。池田がこちらに来る」と叫んでいました。
 池田の後ろには、慌てふためく警護の人間たちが金魚の糞のように付いているだけで、狭い通路では物の役に立ちません。
 池田がそばに来た時、私は立ち上がり「センセー。大変にご無沙汰しております」と声をかけました。池田は、「ああ!君か」と返答してきます。池田の顔を見ながら、今まで抱いてきた「このままでは学会員が可哀想です。センセーの心がけで日蓮正宗に対する争いをしてはならない」ことなどを一気に話し始めたのです。それは一瞬の出来事でしたが、私はその時、いいようのない不思議な体験をしたのです。
 これまでの数十年間、私にとって池田大作という人物は、ある時は山のように巨大な存在であり、ある時は岩のように強靭な塊であったり、そしてある時は、鬼神のように怖く感じられたりしました。
 しかし、全生命力をふるって池田にぶつかっていった瞬間、池田の岩のような大きな塊の中に、私の魂魄が音もなくスーッと突き抜けていく体感をしたのです。すると、みるみるうちに、池田の魂が風船のように萎んでいくではありませんか。
 そこにはかつての尊大な池田の姿はなく、小さな普通の小父さんが佇んでいました。
 池田は、卑屈な態度で「今日はお会いできて嬉しい。私はこれで帰りますが、最後までごゆっくり見ていってください。本当に、今日はお会いできて嬉しい」と言いながら、非常口に消えていきました。
 私は全精力を使いきったのか、はたまた目的を達成した安堵感からか、椅子にへたり込んでいました。
私の「池田大作体験は、これで終わったな」という、万感の思いと達成の歓びに浸っていました。

 池田が去って4~5分も経たないうちに、屈強な池田警護隊数名が私を取り囲み、口々に怒りをぶつけてくるではありませんか。
「センセーに何を言ったのか!」「センセーを怒らせるとは何事か!」とすごい剣幕で迫ってきます。
 この僅か10分ほどの体験で、私は池田大作の正体と本質を思い知らされたのです。結句、私の抱いていた稀有の指導者像は、瞬く間に音を立てて崩れていくのでした。
 21世紀のカリスマと恐れられた池田大作ももう死んだと同じ状態です。
 三宝破壊をおかした池田の一生は哀れという外に言いようがありません。
 池田大作に対し万感の思いを込め「サヨナラ私の池田大作」のこの稿を終えるものです。
 しかし池田が遺した“池田イズム”・“創価イズム”の残骸は、この日本社会に深く浸食し毒牙を撒き散らしています。その弊害を少しでもなくすため、生命ある限り、立正安国論にお示しの“一凶を断ぜん”を実践すベく精進してまいりたいと思うものです。
       ---------(142P)-------つづく--

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サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-23

2017-06-19 06:44:36 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(132P)---(以下本文)-------
4-3
マインドコントロールに共通する騙しのテクニック--オレオレ詐欺・“生き仏”
 前述した中に池田が“生き仏”を演出する手法が隠されています。
 すなわち池田は自ら進んで自分がベートーベンの難しい曲を演奏できたとは一言もいっていません。ここにマインドコントロールに落ち入ってしまう錯覚があるのです。
 大げさなグランドピアノを用意し、ベートベン作曲の曲を鍵盤の動く通りに指を這わせ、見せかけのピアノ演奏会となって聴衆を欺いたとしてもです。
 更に解説すると“聞き手が勝手に凄い演奏だったと思い込む”という、マインドコントロールの特徴、私たちが勝手に判断し騙されてしまう精神状態になるのです。
 この積み重ねがいつしか“池田センセーは全てに完璧な人”“現代の仏様だ”“生き仏”とMC(マインドコントロール)されていくのです。
 ちなみに、前述した川村深雪氏はその後、創価大学の教授になりましたが、息子が池田との背景(母親の信頼)を利用し、大手銀行を相手に巨額融資事件を起こしました。川村氏はその責任を取り創価大学教授を辞めています。
 今社会を揺るがしているオレオレ詐欺事件や人を騙して己の利益に腐心している輩が横行していますが、池田が学会員や世間を欺く手法と根っこは同じであると思うのです。
 池田が歴史に遺した名言(迷言)“嘘を百篇いえば本当になる”という言葉も同じ理屈からです。
 創価のMC(マインドコントロール)の実態は、頻繁に行われる座談会や会合で何回も何回も叩き込まれ教え込まれていく過程で作り上げられてきたのです。自分の考えに固執するのは“我見”であり、池田センセーの言うことをひたすら学び活動していくこと。唯一の情報は池田センセーのお手紙である聖教新聞であり、そのほかの一般新聞や週刊誌などの情報は“買わない・見ない・読まない”との愚民統治をしてきた歴史でもあります。
 北朝鮮などの独裁国家と同じ大衆操作です。

池田は「日本の最高権力者になる」と豪語したウツケ者
 池田は好んで体がすっぽりと沈むような豪華な椅子を好みます、高級すぎて庶民には手が届きませんが、己が偉くなったと錯覚し権力者を演出するのでしょうか。
 歴史に遺る有名な話があります。昭和35年から数年間、会長就任後の池田は、天下を取ることを夢想しはじめ、多くの逸話を生んでいます。
 本気で選挙を経ずに総理大臣になることを夢見ていました。側近を中心に“組閣名簿”を作成していました。ちなみに北条副会長(当時)は、“警視総監”がお似合いと池田は悦に入っていました。
 昭和36年、評論家の高瀬広居氏のインタビューを受け、肥満した体を豪華な椅子に埋めながら、「私は日本の最高権力者になる」と豪語したと高瀬氏は述べています。
 更に印象的なのは、公明党の候補者が全員タスキを掛け緊張感のある面持ちで池田から候補者の指名を受けている写真があります。
 池田が同じく豪華な椅子に座り偉そうにしています。当時は国会議員の候補者を池田が指名していました。現在も“政教一致”の悪しき伝統は変わっていないことは、歴代の公明党委員長、竹入義勝氏や矢野絢也氏が証言しています。
 創価公明党にこの日本が牛耳られていることは亡国の因そのものです。
 当時、毎月のように行われていた本部幹部会でも豪華な椅子は中央に設えられていました。池田は権力の象徴として椅子を最大限利用していたのです。
 椅子といえば、職員時代、池田から聖教別館に呼ばれ面談した思い出があります。
  広い畳の部屋の真ん中に豪華な椅子が設えられ池田が座っていました。面談にしてはとても不釣り合いな設定です。
  組織センターのM副会長が同席していたのですが、私は池田が面談する意図が分からず戸惑っていました。池田はその椅子から半身になりながら私を観察しています。
  緊張で一杯でしたが、どう発言していいのか、早くセンセー、何か話してください。との思いでしたが、まだ池田の私への観察は続いていました。
  その時、頭に浮かんたことかありました。幹部の間では“センセーは何でも見通してしまう”“女は3秒かかるが男は1秒で全て分かるよ”という“都市伝説”ならぬ“創価伝説”でした。
 “センセーに見抜かれてしまう”との理由のない強迫観念が出てきてヤバイ、やばいと思い始めました。センセーは相変わらず私を観察していましたが、突然、君は教育者に向いているなと言い出し、続けてウーン、芸術家がいいかも知れない、ウーンそれからと言葉を選びながら10数種類の職業に向いていると言い出したのです。
 こうして幾つもの職業を言い出す池田は明らかに混乱しています。決して私への褒め言葉ではありませんでした。
 私は今までの張りつめた緊張が取れ、池田が言えば言うほど“池田は、私のことを全然わかっていない”と醒めた表情になったのです。緊張が取れ冷静に池田を観察しました。
 驚いたことに池田の表惰は余裕から明らかに動揺していることが見て取れました。このような池田の姿を見たのは初めてでした。
 暫くたって池田はM副会長に言いました。“彼は役に立つから大事にしていきなさい”とのお追従ともとれる言葉を残し不可解な面談は終わりました。
「何でも見通せる」はずの池田センセーの“創価伝説”はウソだったのです。
 この見通すことができるというのは、法華経で説かれている仏様の神通力に肖ったもので、「仏は三千大千世界という宇宙の彼方まで見通せる神通力」を備えているということを真似ていたのです。
 池田の幼稚な仏教観が学会員をしてセンセーは凄い、仏様と同じだ、という間違った情報が口コミで広がっていくのです。
 騙される方がよくないのですが、池田の大衆操作は飽きもせず長年行われていきました。
 池田の自己愛(ナルシスト)の性癖は止まることを知らないほど、進んでいきます。
 その典型は世界の文化人として宣揚されることでした。どこどこの学者がセンセーを認めているとして、勲章あさりと揶揄された名誉称号・名誉博士号・名誉市民賞が毎日のように聖教新聞に掲載されました。
 そのほとんどが受賞の裏には不明朗な金銭の授受が取りざたされているとの批判も出てきました。
 池田は聖教新聞に掲載される紙面を毎日、“かね子夫人と見ることが最大の喜びだ”と言う功名心や名誉欲に取り憑かれた哀れな指導者になってしまいました。

NHKホールと文化会館ピロティで池田の正休を見た!
 念願であった池田との遭遇の機会が訪れました。
 池田離れを確実にした二つの出来事でした。それはNHKホールと文化会館(今は大誓堂)ピロティで、池田の正体を見たのです。
  始めに文化会館ピロティでの出来事を上げておきます。
  N君という青年がどうしても池田に面談し手紙を渡したいという要望があり、その青年を文化会館に案内したことがあります。
 勿論、池田と会うことなど不可能に近い要望でした。池田は小心なところがあり、警備を厚くしたりする用心深い指導者でした。池田を警護するため“特別警備”や“金城会”といった組織を設置し自分の周りにいつも過剰なほど配置させていました。
 池田と遭遇し、しかも“嘆願書”を直接手渡すという難しい仕事をあまり躊躇せず請け負ったのですが、今振り返ると大変なことをやったなと思います。しかしその役割を担うとき上手く行くのではないかとの漠然とした感覚だけはありました。
       ---------(137P)-------つづく--

 

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