創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会・公明をブッた斬る-3

2019-03-31 08:24:58 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
「創価学会・公明党をブッた斬る」  藤原弘達
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
    ------(P20)---(以下、本文)-------

第一部 なぜ、いま再び「創価学会を斬る」か
      ● ネズミ講、豊田商事も顔負け!創価学会のマルチ商法
      ● 笑顔のファシスト?大ウソつき連続の池田大作
      ● 創価学会は色と欲と権力のマンダラ図だ
      ● 創価学会には日本版ナチスが一番ピッ夕リだ
      ● 創価学会「王仏冥合」は池田大作の日本乗取りの合い言葉だ

1 やはり、どうにもいかがわしい創価学会

  あの池田大作を知ってるかい?
◆ 池田大作先生、またまた大売出し中
 池田大作、Who?などといったら笑われるだろうか。池田大作先生は、実に田中角栄なみのスーパー有名人だ。公称会員七八〇万世帯を擁する創価学会名誉会長であり、野党第二党・公明党の生みの親である。創価学会会員は池田大作を「先生」と呼び、「お父さんのような方」と表現する。創価学会では、「先生」の呼称は三人の人物に限られる。 即ち、初代・牧ロ(常三郎)先生、二代・戸田(城聖)先生、そして三代・池田大作先生なのである。
 「先生」の呼称が会則に決められているわけではないが、四代会長・北条浩(故人)も、現会長・秋谷栄之助も「先生」じやない。政教分離となっている以上、公明党のトップは竹入義勝に違いないのだが、竹入にとって池田は、やはり「先生」なのである。
 前会長・北条浩も会長就任の際、「私のことを先生と呼ばないで下さい。……さんでいいでしょう」といつている。創価学会において「先生」の呼称は、国会議員センセイ、マスコミ界の作家、評論家センセイなどとは重みが全く違うのだ。もっとも、周知の如く、中国へ旅行すれば、日本人は総て、「先生」になるが……。
 それはさておき、この高名なる池田大作先生を、私は改めて、「池田大作、Who?」(そも、ナニモノなりや)と問い直すのである。
 近ごろ、新聞、雑誌に池田大作の著書出版広告がすこぶるハデに出回っている。国電や地下鉄に、中吊り広告まである。新聞なら、少なくとも半五(五段二分の一)だ。顔写真つきである。
 本の広告に著者の写真やイラストがつくのは今ではもはや珍しいことでもないが、かって小説家の中野重治が出版社から宣伝用に写真を求められた時、「私は字書き(注.小説家)であって俳優じやないから、写真は不必要だろう」と、拒んだそうだ。
 現代では、字書きも顔写真を載せることが出版社の営業方針だから、池田大作の出版広告の顔写真も当り前のことなんだろう。しかし、繰り返す、私が「池田大作、Who?」ということには別の理由がある。
 私が関知すること二十数年に及ぶ池田大作なる男、今ごろ、自分の顔まで著書の広告に飾りたてるようなタマではないはずなんだが……凶悪犯手配写真のそれではあるまいか、という奇妙な錯覚さえ覚える。
 どうやら、同じようなことを感じる方もあるとみえる。雑誌『文藝春秋』昭和六十年八月号の〈盖棺録〉なるコラムに、次のような一節が出ている。
「信者はどう思っているか知らないが、毎週のように地下鉄の中にぶら下る池田大作の幅広いツラを見ていると、中年以上の第三者としては、(中略)有田ドラッグ(注・淋病のクスリを売りまくり、一代で巨富をにぎった)の猛烈な広告攻勢を思い出す。いずれも『信じる者は病気が治る』『治った実例がたんとある』点で共通だ」
 有田ドラッグ広告の、有田音松の脂ぎった顔と池田大作著書広告の顔がダブッて思い出されてくるから妙なものだ。
 ところで、池田大作の創価学会は、このところ、下半身スキャンダルや盗聴犯罪などの続出で、そのイメージダウンぶりは大変なものである。だからこそ、池田大作の出版広告も、黒いイメージ払拭のためのPR効果を狙ったフシも十分に窺われるものの、いささか異様な印象を受ける。むしろ、逆効果かも知れない。

池田大作は百科全書家か?
 「潮出版」「聖教新聞」は、いわずと知れた創価学会直系である。次に、「潮」「聖教」二社から出た池田大作著書の広告を見てみょう。
「闇は暁を求めて ルネ・ユイグ/池田大作
● 東西の知性が放つ、混迷と狂奔の現代への警鐘!
 現代フランス屈指の美術史家、ルネ・ユイグ氏と池田名誉会長が美と宗教と人間の再発見を語る注目の対話集」(『闇は暁を求めて』)
 やたらに修飾語が多すぎて、意味不明のコピーである。朝日新聞四月十五日朝刊掲載だが、右のコピーの中で、「池田名誉会長が……」とだけあるのも、奇妙なものだ。創価学会名誉会長といわず、単に名誉会長というだけで一般読者にもちゃんと通じる、といわんばかりだ。
 同じく、池田大作著として--

「世界的指導者三十人との出会いを綴る感動のエッセィ」(『二十一世紀への対話』)
「人生、女性、文化、社会の四章を収録した珠玉篇」(人生抄・池田大作箴言集)
「人間の危機を回避するために、深い洞察のうえから交された対話集」(A・マルロー、池田大作著)
 さらに、月刊誌『潮』の広告がある。目次の中で、またしても池田大作の顔が目につく。
「生命と仏法を語るシリーズ」となっている。
「人間の心と体は密接不可分であり、互いが相互に作用しあっているのが本来の姿であると仏法は説く……」

 月刊『潮』は、一般総合雑誌の装いをとっている。創価学会機関誌とはいっていないが、これだけ池田の原稿を特別扱いするのは、“目玉商品”ということなのか(もっとも、池田は、『潮』の目次における自分の扱いが小さいと激怒して編集者を叱りつけるそうである)。しかも、一般全国紙に出す広告である。それらは、朝日の他は、毎日、サンケイ、読売のスぺースを買っている。一般雑誌に出る広告も同巧異曲。こんな賑々しい宣伝広告を見せられると、世の中の人は、池田大作なるご仁は類い稀なる、何でも知っている文化人、いうなれば百科全書人のように思うことだろう。
 学識古今東西に通じ、芸術、哲学、歴史、科学を語って、総て至らざるものなし。世界的指導者とサシで話しあえる大人物……こんなイメージをもったら、週刊誌を賑わした“低級”な下半身スキャンダル裁判は別人物のもの、と思う人も多いに違いない。おめず臆せず、いささかのテレも恥らいもなしに池田大作名誉会長を売り込むのは、まさにそこに狙いがあるらしい。断わっておくが、たとえ誇大なキャッチフレーズで売り込もうと、それは表現の自由だし、その広告を掲載するのは、マスコミ媒体の営業方針である。それだけで、とやかくいう筋合いのことではない。古くさいといわれることを承知の上で敢えていうなら、孔子サマも忠告しているではないか。巧言令色鮮仁--うますぎるハナシは眉唾だ、とね。

 私が池田著書広告を云々するのは、おめず臆せずの売り込みをケシカランとするものではなく、今この時期に、厚顔無恥ともいうべきキャッチフレーズをまき散らす創価学会に、相も変わらぬ、うさんくさい体臭、無反省とハレンチの見本をみる思いがするからである。自由社会を脅やかす--表現の自由を侵す犯罪者が、忍び足のソフトムードで、表現の自由を逆手にとりつつ、背後から忍び寄っているということでもあろう。厚顔無恥どころではない。十六年前の言論・出版妨害事件に引き続き、共産党議長・宮本顕治宅電話盗睇事件、月刊ペン事件にしても、断じて免罪になってはいない。いよいよもって、その反社会的悪質度はエスカレートしているということなのだ。
     ----------(次回に、つづく)---------28
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創価学会・公明をブッた斬る-2

2019-03-30 09:45:09 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
「創価学会・公明党をブッた斬る」  藤原弘達 
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000

    ------(P11)---(以下、本文)-------
まえがき
第一部 なぜ、いま再び「創価学会を斬る」か
1 やはり、どうにもいかがわしい創価学会…………21
   あの池田大作を知ってるかい?
    池田大作先生、またまた大売出し中/
    池田大作は百科全書家か?
   電話盗聴事件は「邪魔ものは消せ!」の実践
    仇敵・共産党のボス宮本顕治を狙え!
   月刊べン事件にみる汚辱の構図
    ヤブをつついた創価学会/
    池田スキャンダル裁判の真相
2 「創価学会を斬る」の今日的意味…………37
   十六年前“言論・出版妨害事件”があった
   これが言論・出版坊害のいきさつだ/
   創価学会・公明党はどんなウソをついたか
  政教分離は真っ赤なニセモノだった
   政教分離は池田流のゴマカシ/
   「政教分離宣言」のインチキ
  なぜ、改めて“創価学会を斬る”か
   呆れ果てた幼稚な偽装政教分離/
   水に落ちた犬は叩け!
3 池田・創価学会のあくなき野望と增上慢…………57
   大石寺対学会の反目抗争はなぜ起きた
   二つあったのか、“日蓮正宗”/
   ヤクザまがいの大石寺対学会の縄張り争い/
   池田の会長辞任は戦術転換だ
  狙いは池田教、創価王国への迂回戦略
   本山・大石寺は乗っ取れない/
   結局、名誉会長が一番偉い?
4 創価学会的メンタリティを病理診断する…………77
  最初は少数派被害者意識・怨念のとりこ
   「大石寺はどうなつてもいい」/
   戸田イズムと池田イズムの落差/
   マルチ商法の先取り
  カネ、出世、モノ…の即物教
   タダ酒飲めない奴はダメだ
  パロディ好きな創価学会
   あやかりネーミング商法/
   まねした奴が元祖を名乗る、この厚かましさ
5 KGB、CIAまがいのおぞましきパロディ…………97
  学会の三流スパイ大作戦・電話盗聴
   電話盗聴は〝必要悪〟気どり/
   北条会長は捨てられた
  池田スキャンダル裁判の教訓
   ミソカごとは巧くやれ
6 ミソ・クソごった煮の狂宴…………107
  創共十年協定の茶番
   握手しながら蹴っ飛ばす
7 創価学会は信徒団体に徹すべし…………113
  目に余る創価「株式会社」の肥大化
   異常な創価学会の金銭感覚/
   宗教法人をかたる営利集団
  なぜ、創価学会の“平和運動”か
   平和運動はみせかけのデモンストレーションだ/
   海の向こうからうさんくさい噂がくる
  不吉なる近未来小説
   小説『一九八四年』は何を描いたか
  独善的邪教に未来はない
   大衆をなめるな、騙すな/
   この創価学会に未来はない

第二部 公明党は有害無益だ
1 公明党は創価学会の「奴隸」勢力…………145
  公明党の“革新”なんて、ちゃんちゃらおかしい
   昨日革新、明日は保守、その日その日の出来ごころ/
   クルクルと変わる客寄せ口上/
   つぎはぎだらけの言葉の遊び
  政教一致“行進曲”で政界進出
   そもそもスタートは政治折伏の野望/
   公明党旗上げ、政教一致路線宣言/
   第三勢力を狙う“革新”もどき
  変転きわまりないジグザグ路線
   公明党の中道主義はまやかしだ/
   中道主義、中道政治も具体性を欠き陳腐そのもの/
   状況しだいで、中道という名の往きつ戻りつの変節
2 ビジョンなき政権欲ボケ…………173
  なぜ、こうも路線が終始一貫を欠くのか
   クルクルと路線変更するにはワケがある/
   変り身の早さだけがとりえ/
   ジグザグ路線が現実政治といえるか/
   右旋回で失速すると、今度は左旋回
3 宗教と「異体同心」と称する有害無益政党…………185
  公明党は学会の“影武者僧兵団”
   もう一つの創価学会/
   清潔が売り物の公明党議員も今や権力者気どり/
   功徳で釣って選挙にコキ使う
  組織ぐるみの犯罪
   集団替え玉投票事件/
   自民党にすり寄る狡猾政党の危険性
4 公明党は池田の“私物的存在”から脱け出せるか…………207
  竹入・矢野十九年体制の怪
   竹入・矢野コンビはなぜ続く/
   竹入・矢野は池田大作の宿題を解かない限りやめられない/
   それでも、ホンネは民社党より社会党がほしい
  公明党はともかくダメな政党なのだ
   一四〇議席・第二党の夢さりぬ
5 やはり、公明党は解党すベし…………219
  今や、自民党の第六列だ
    二階堂擁立は自民党への内政干渉だ/
   恥も外聞もなし、乗り心地のよい船に乗る
  この公明党には国民政党としての資格なし
   公明党はファッショの起爆剤、危険がいっばい
6 終 章…………229
  あとがき
     ----------(次回に、つづく)---------21

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創価学会・公明をブッた斬る-1

2019-03-29 06:50:17 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
「創価学会・公明党をブッた斬る」
   藤原弘達 
                              …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000

まえがき
 今や、神も仏も、人間サマによって至極勝手に動員される大衆用の“精神安定剤”ないしは“精神シゲキ剤”にすぎない者になっており、もはや、独自の万能的支配の世界を主張できる領域など、殆ど完全になくなったということでは、いずれのケースもまあ同じなのである。
 神は人間の心でも死に、そして人間は本来の場を失って単なる生物に化するという「自然の必然的法則」「摂理」の方が神のそれよりも動かしがたい科学的真理として、現在の日本ではまかり通っているということでもあろう。
 ヴィーコ(G・Vico=一六六八~一七四四年)が怖れたような厳しい異端審問などは、今の日本にはない。信仰の自由は、腐敗堕落の自由と同じく、「地球よりも重い」人権として保障されているといってもよい。どんな悪いことをしても、神仏の罰が当たるなどと本気で思う人間はどんどん少なくなっている。それどころか、善悪の行動に関係なく「即身成仏」に近い現世の平和と繁栄を謳歌し、極楽浄土なみに奇蹟のような快楽すら亨受して長寿の果てに「往生」することすら可能なのである。今さら、神や仏の出番はなくなっているということでもあろう。それらを可能にしたものが、人を神の座に据えたデカルト精神の系譜にある学問や技術にあるとすれば、ヴィーコのやったような「無理で、無茶で、無謀な試み」の意味もまた、なんとなく空しい仕事ではなかったかという気もしてこよう。
 たしかに、単なる生物に変質した人間には、神に対する畏れなどはない。神になったと錯覚することによって、人間は神から人間を通り越して単なる生物に堕落したということかも知れない。神のものは神へ、カイザーのものはカイザーへと、「政教分離」を近代社会の大原則として創価学会批判の原点に据えた私の仕事にしても、神もなければカイザーの権威ももたない生物的人間の心に対しては、所詮、空しい雑音にすぎないのかという気さえしてくる。もっと無理で、もっと無茶で、もっと無謀な試みは、一体、今の日本では何を怖れてやったらよいのであろう。

 以上の文章は、昭和五十四年七月二十九日「週刊読売」に書いたエッセィの一部引用である。ヴィーコは、イタリアの生んだ有名な思想家。彼はデカルト的精神の世界を真正面から批判した、当時異端と考えられた新しい学問の発掘者として『世界の名著』(中央公論社刊)の中にも紹介されている。そのエッセィの表題は「神なきところに人間なく、人間なきところに神なし」というものであった。
 政治と宗教の分離という極めて自明な近代国家の大原則を掘り返しながら『創価学会を斬る』という本を敢えて出した私のやり方は、なんとなく、ヴィーコの「無理な、無茶な、無謀な試み」と清水幾太郎が評しているやり方と似ていると思ったからである。私は無理を承知、無茶を承知、無謀を承知で敢えて言論の自由の実験としてこれを試みたといって過言ではない。
  この文章はその後、『藤原弘達の生きざまと思索』全十巻(学研刊)のうち、第八卷『闘う』の最後の中にそつくり引用してある。

 昭和五十四年といえば、あたかも『創価学会を斬る』を書いて満十年を迎えようとするタイミングであった。十年のタイミングで私は既に、『創価学会を斬る』という本が巻き起こした問題が、当時の日本においてどうもマトモに浸透していない。若干の意義は果たしたかも知れないが、なんとなくその意義は空中に拡散し、人の心に届かず、実際の政治的効果は現われず、批判された当事者たる創価学会・公明党も政治と宗教の分離を表面では誓いながら、全くといっていいほどこれを実行せず、強引な折伏を選挙運動に混合する、まさに政教一体、王仏冥合路線は形を変え、より巧妙で陰険な形で展開されていた。ただ一つ、私の『創価学会を斬る』は、創価学会の批判がタブー視されていた昭和四十四年段階において、このタブーをブチ破り、自由な言論の批判を呼び起こす上で一石を投じたことは間違いないところであろう。  言論は自由であり、信仰も自由である。この自由という原則の下で空前の平和と繁栄、福祉を謳歌し続けた戦後日本の爛熟期の段階において、まさにヴィーコの提示したような私の試みが、我が国において、この戦後日本において、私は一体、何をやったことになるのであろうか?
 そういう疑問と、己れの空しさと無力さと、為さんとする意図が誤解されながら社会に伝わっていくということに対する、たまらない苛らだたしさの中に、その十年を送ってきたといえなくもない。
  さらに、それから六年の歳月は経っている。私は『創価学会を斬る』という本が投じたタブー打破の一石によって自由な批判の嵐が起こり、しっかりした世論が形成され、創価学会は池田大作以下総反省し、公明党は創価学会との関係を清算して他の諸政党との間に合意の原点を求めながら、自民党一党独裁に代わる健全な野党連合をリードできる方向へと発展することを、心秘かに望んでいたといってもいい。

 しかし、そうした私の意図、希望、政治と宗教の分離、戦後日本において政権交替可能なる政党政治、議会政治の軌道を設定させたいという政治学者なりの願望は、ほぼ完全にウラ切られたという実感をかみしめている。
 たしかに信仰は自由であり、政党支持も自由である。言論もまた、自由でなければならない。私は、言論自由のために実験を行なった。したがって創価学会・公明党がそれなりに、どのように自由を行使しようが、それは彼らの責任において自由であるという、極めて寛容な態度をもってこの十数年を見守ってきたものである。つまるところ、言論はそういう相手の立場に対する寛容性とルールについての歩み寄りによってのみ機能するものである。一方的にルールを無視し、相手の自由を認めぬというのであれば、それは専制以外の何物でもないだろう。専制者との「闘い」は、言論だけでは决するものではない。どうしても、力によって倒すか倒されるかになっていくものである。
 私は、自分の投じた一石によってますます批判精神、言論の自由の精神がまきおこり、言論と選挙を通じて、問題が克服されることを期待した。マスコミや議会もこれに正当に呼応するものと期待した。全体主義的共産主義やファシズムの国でないなら、必ずそういう機能が活性化しなければならないはずだと信じている。自由世界の一員としての戦後日本が、自由を愛するが故にこの問題を寛容な国民の批判、寛容にして自由な投票や選挙を通じて必ずや克服していけるであろう、と信じる。たとえ試行錯誤はあろうとも、よりよき方向へと歩んでいくであろうことを、私は私なりにじっとガマン強く期待し、そうした角度からの言論も不断に展開してきたつもりである。

 ところで、この十数年の間に、いま一つの政治的大問題が私の眼前にあった。創価学会問題において、いわばワキ役を演じたとはいえ、『創価学会を析る』の出版坊害に一役買った田中角栄が幹事長からやがて総裁・総理となり、そしていわゆる田中角栄問題が、その間において創価学会問題以上に緊急にして重大な政治的課題になつたこともまぎれもない事実である。
 このナマナマしい政治権力中枢の動きの中で、田中角栄を主役とすれば、所詮、創価学会や公明党などというものはワキ役であったに過ぎない。三枚目、いや、ホンの端役だったともいえよう。私は政治学者、言論人として、目の前に迫った田中角栄問題を少なくとも主たる政治的関心ないしは学問的興味をもって追求し続けていかざるをえなかった。
 そういう私の問題意識が、田中角栄第一審判决を前にして、『文藝春秋』に「角栄、もういい加減にせんかい」という諭文を発表させた。やがて、これを単行本として、同じ標題で講談社から世に出したものである。そのために私はそれなりに勉強をし、多くの古今東西の典籍にも蝕れ、問題の核心に迫らんとした。「角栄、もう……」はかなり大きな反響を呼び、ベストセラー群の一角に食い込んだこと(『創価学会を斬る』に比べれば四分の一ぐらいではあったが)も、問題の緊急性とのタイアップにおいては、それなりの効果を発揮したと考えている。  『創価学会を斬る』に対しては、創価学会・公明党はまこといやらしいまでの中傷や個人攻撃を含む反撃を私に加えてきたが、田中角栄は「角栄、もう……」という私の批判に対しては、殆ど反撃らしい反撃もしょうとはしなかった。病いに倒れる直前、たまたま小金井カントリークラブで顏を合わした時も、私に対して、むしろにこやかな笑顔で挨拶を送ってきたほどである。私の「角栄、もう……」を、彼が必ずしも怨念をもって受けとっておらず、かなり自分の心にこたえた反省の課題として受け止めているのではないかという、たしかなる反応を私はその時も確認したものである。
 それから僅か十日余りにして角栄は倒れた。その倒れ方の中に、彼なりに男らしく闘ってやはり己れの限界にまで燃焼しきった男の一つの姿を認めた、といってもいい。これに比べれば、池田大作、創価学会・公明党のやり方は、まこと卑怯であり、なっていないという他はないのだ。かって、彼らを言論・出版妨害事件の嵐の中から助け、自己の政治的野望のためにこれを利用しょうとした田中角栄が、まことぶざまにしてお気の毒な形で政治生命を終えようとしているのに対して、池田大作にはどれだけの反省があり、竹入や矢野ら公明党にどれだけの自覚症状があるといえるか。少なくとも、彼らには人間対人間として率直に対応してくるようなことは全くなかった、ということである。この十数年の歳月の中で、私の胸裡に、フツフツと煮えたぎつてくるような人間としての怒りは、田中角栄を越えて池田大作と公明党に向けられる。こんなヤツラは、どうにも許すことはできない--そういう生々しい人間として、男としての実感なのである。

 こんど『創価学会・公明党をブッた斬る』という、『創価学会を斬る』というタイトルをさらに激しい表現にして世に送ろうとしている。その中には、あの本(『創価学会を斬る』)以来まさに十数年、これをルサンチマンと読み取る向きもあろうが、単なる私怨ではないのだ。怒りではあっても、怨念ではない。これからの日本を考える場合、このような薄汚い存在は、すベからく大掃除しなければならない。ゴキブリは退治しなければならないし、カビは取り除かねばならない。そういう怒りの気持を、いよいよ新たにしているものである。 「ブッた斬る」とか、「斬る」とか……、思えば「斬る」という表現が物騒だからというので、十数年前には多くの通信社、広告社は、あの本の広告扱いを拒否したものである。大新聞すら、この広告掲載に躊躇したあの当時の思い出を、私は未だに忘れることはできない。「ブッた斬る」はもっと激しい怒りがこもっていることを、敢えて、この前書きに記しておこう。
             *
 この稿を書いている段階で、かって『創価学会を斬る』の出版坊害のために池田大作の命令を受けて執拗な接触を続けた藤原行正が突如として東京都議会公明党幹事長のクビを切られ、「造反」したという二ュースが飛び込んできた。藤原と同行した秋谷栄之助が現在の学会会長であることと思い合わせ、まさに感慨無量という他ない。ひとり藤原行正の今度の「造反」のみでなく、ここ十数年の間に創価学会は公明党ともどもに満身傷だらけになっただけでなく、どうやら中枢神経の空洞化はほぼ組織の限界にきているというのが、私の総合診断である。ここで必要なことは、「斬る」を「ブッた斬る」として、その脳天に一撃を加えることである。  今度の著述の問題意識も、まさにそこにある。
  昭和六十年九月              藤原弘達
        ---------(11P)-------つづく--
<参考>
藤原弘達と創価学会
1.創価学会を斬る<この日本をどうする2>=1970年・昭和45年<言論出版妨害事件>
2.続・創価学会を斬る=1971年・昭和46年
3.新・創価学会を斬る=1972年・昭和47年
4.創価学会に未来はあるか=1979年・昭和54年  共著・内藤国夫
     「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相
5.創価学会・公明党をブッた斬る=1985年・昭和60年
      -いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか-
6.創価学会池田大作をブッタ斬る=1988年・昭和63年
  ---藤原弘達・1999年=平成11年没---
7.藤原弘達『創価学会を斬る』41年目の検証=2012年・平成24年 

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創価学会に未来はあるか?-38

2019-03-28 07:27:35 | Weblog

〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉  1979/昭和54
創価学会に未来はあるか     藤原弘達/内藤国夫    日新報道出版

------(P.202)---(以下、本文)-------

あとがき
 私の書いた『創価学会を斬る』が、あれだけの政治的・社会的波紋をひろげ、それなりに“勝利”の形になってなんとかおさまったのには、やはりさまざまな“援軍”があったからである。
 なんといっても、国民大衆の自由を愛する世論のバックアップが最大の味方だったが、同時に、言論出版の自由を妨害された直接被害者の人々がつぎつぎと名のりをあげてくれたことが、問題を政治的水平面にのせて、波紋をひろげる上に大きかったといわねばならない。
  『公明党の素顔』を、私の『斬る』に先だって半年前に出版していた内藤国夫氏がどんな言論妨害をうけたかということは、当然のことながらくわしく調査し、彼のように、してやられないためにはどうするかという作戦をたてるうえに大変に参考になったということである。
 私の方は、『斬る』以後、引きつづいて『続』や『新』を書いたが、ここ数年は創価学会を直接のテーマとする著述活動はやっていない。内藤氏は、あの事件以後も自らを「安全弁」に擬して、学会内部の中枢情報を集め、しごく精力的な執筆活動を続けてきた。その努力と執拗なまでの取材活動は、ジャーナリストとしては当代第一級の仕事だったといえよう。むろん、私は内藤氏の仕事にはたえず注意をし、その情報をかなり高く信用し、私なりに利用させてもらったものである。  こんど、彼との対談の企画が、かって『創価学会を斬る』を出した「曰新報道」からもちこまれ、一冊の本として世に送ることとなった。数えてみれば、あれから十年の歳月は経過している。対談のなかに、私がドン・キホーテのように風車に向かって突進したというと、彼は「そうすると、自分はサンチョ・パンサですかな」というところがある。
 この十年間は、こと創価学会をめぐっては、ちょっとそれに似た関係だったといえるのかも知れない。少なくとも、数多くの創価学会・公明党を論じた人々のなかで、あえて『斬る』をあのような形で出版した私のドン・キホーテ的心情を、サンチョ・パンサのような理解をもって呼応してくれたのは、結局のところ内藤氏をもって、失礼かも知れないが、“第一人者”としなくてはならないと思っている。

 ともあれ、外見は華々しくても実際には大変に孤独な闘いを強いられ、見方によると不特定多数の味方をえた反面に、特定の友を失うことにもなったあの事件の思い出は、その意味ではけっこうイヤなオリのように、いまだに私の心のなかでは沈澱している。内藤氏は年齢的にはかなりの後輩であるし、同じような仕事を通じて知り合いになったものの、同世代の友人から受けた甚しい誤解や中傷からは無縁な立場にあった。そして私のおかげで、「自分の本も売れた」と卒直に感謝もしてくれた。
 今や彼は、継続的な取材と手きびしい内部暴露を通じて、創価学会からはむしろ逆に感謝される立場にある、なかなかにユニークなジャーナリストである。私の方は、必ずしも感謝される立場かどうか、ちょっとくらい感謝されたくらいでは、とてもヨイ気にはなれない。まだまだ創価学会・公明党のあり方に楽天的な見方はとてもできないからだ。ファシズムの一翼を担う可能性にしても、この十年で少しも減少したとは思っていない。そういう私と内藤氏との微妙な感度のちがいは、けっこうこの対談でもよくでているといえよう。

 それにしても世界も日本も、ずいぶんとこの十年の間に変わったように思う。一番変わっていないのが、会長をやめたが、名誉会長におさまった池田大作ではないかという気もしている。
 このごろ、なんで自分はあんな危険で、「敵」を多くつくり、しかも不愉快な後遺症の残るような仕事を、ドン・キホーテのように意気がってやったのだろうかと、自分でも不思議に思うことさえある。
 そういう心境の私に、「ああこれだ、この心境だ」と思わず手を打った文章があった。『パンセ』断章三三一にみえる、あのパスカルの一文だ。

 「プラトンやアリストテレスと言えば、長い学者服を着た人としか想像しない。彼らだって人並みの人間で、ほかの人たちと同様に、友達と談笑していたいのだ。そして彼らが『法律』や『政治学』の著作に興じたときには、遊び半分でやったのだ。それは、彼らの生活の最も哲学者らしくなく、最も真剣でない部分であった。最も哲学者らしい部分は、単純に静かに生きることであった。彼らが政治論を書いたのは、気違い病院を規整するためのようなものであった。
 そして彼らがいかにも重大なことのようにそれについて語ったのは、彼らの話し相手の気違いどもが、自分たちは王や皇帝であると思い込んでいることを知っていたからである。彼らは、気違い連中の狂愚をできるだけ害の少ないものにおさえようとして、連中の諸原則のなかにはいりこんだのである」(「世界の名著」前田陽一訳より)

 哲学者のプラトンやアリストテレスが「法律」や「政治学」をやったことの意味に、政治学者であった私が、わざわざ「創価学会」や「公明党」を問題視して『斬る』をだした意義を同列視するつもりなどは毛頭ない。政治の世界でも「気違い」はしばしば手に負えない相手になるというのに、それに狂熱的な宗教がドッキングし、しかも不特定多数の大衆がお相手ということになると、この「気違い病院の規整」は、どんな自信家の“名医”でもへキエキして当然なことなのだ。プラトンやアリストテレスにしても、おそらくはそこまではやらなかったのかも知れない。
 そういう、とんでもない仕事だったとやはり思うし、ではあのときゃらなかったらどうだろうと問い直してみると、やはりやってよかったというように自分の心に納得させてもいる。やはり、自分という人間にとって宿命的な仕事だったのかな……と。ヨーロッパ精神史のなかで、ドン・キホーテをどのように評価するかということになると、これは思想的にもかなりの大問題ということらしい。少なくとも、日本ではドン・キホーテ像が正しい評価をうけていないという点だけは間違いあるまい。

 その意味では、この十年間というもの、私は『斬る』出版以前より以上に不平不満の徒であり、その点は今日も同じである。少しくらいは気違い病院の規整はできたことになるのかとも思うが、その成果については全く自信はないからである。
 もういちど勇気をふるいおこして、風車に向かって突撃しょうにも、その風車自体のイメージがはっきりしないのである。それに何度も落馬したせいか、このドン・キホーテは満身創痍でもある。馬もくたびれ、槍も折れてしまっているのかも知れない。気力だけは旺盛でも、身体がいうことをきかなくなっているという表現が適切かも知れない。

 このドン・キホーテをふるい立たせて、さらに挑戦する勇気をかきたててくれるもの、それはただ一人の従者=サンチョ・パンサである。
 内藤氏をサンチョ・パンサにたとえることは、必ずしも適切ではないかも知れないが、こういう仕事の「宿命」のなかでは、やはりなんとなくやっぱり似ているわいと改めて思う。この対談は、その意味では、あれから十年を記念する一里塚のようなものでもあろう。
 今後、どれだけお互いの人生があるかはそれこそ神のみぞ知るところであるが、おかしな死に方はできないぞという点では、この二人の呼吸はピッタリと符合したものである。たまたまやりだした“仕事”が、ちょっとやそっとではキレイに片付くような生易しいものではないという点のカクゴだけは、お互いにやっていて、だんだんとできているということでもあろう。
 あと十年もたったときどういうことになっているかという思いも、それなりに対談していて脳裡に去来したものである。うんと若い内藤氏には、もっともっと頑張ってもらわないといけないとも思う。
 小生も、老馬に鞭打つ思いで、初心をかえりみ、さらに闘う勇気をふるいおこすことの必要を痛感する。
  昭和五十四年八月二十一日
                     藤原弘達
        ----------------おわり

 “創価学会・公明党”といえば、やはり、藤原弘達と思います。
次回から-- 5.「創価学会・公明党をブッた斬る」  藤原弘達
          いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか 1985年…S60/10…〈日新報道〉 
 --です。 ご期待下さい。

藤原弘達と創価学会
1.創価学会を斬る<この日本をどうする2>=1970年・昭和45年<言論出版妨害事件>
2.続・創価学会を斬る=1971年・昭和46年
3.新・創価学会を斬る=1972年・昭和47年
4.創価学会に未来はあるか=1979年・昭和54年  共著・内藤国夫
     「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相
5.創価学会・公明党をブッタ斬る=1985年・昭和60年
      -いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか-
6.創価学会池田大作をブッた斬る=1988年・昭和63年
  ---藤原弘達・1999年=平成11年没---
7.藤原弘達『創価学会を斬る』41年目の検証=2012年

コメント
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創価学会に未来はあるか?-38

2019-03-27 08:07:09 | Weblog

〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉  1979/昭和54
創価学会に未来はあるか     藤原弘達/内藤国夫    日新報道出版

<内藤国夫・巻末インタビュー>
だから私は創価学会を脱退した
                          元・茨城県土浦支部長・創価学会理事
                          現・茨城県水海道市市議会議貝
                              小 沢 利 夫
           (編集部注・このインタビューには、現在学会員で女子部の大ブ
             ロック長をしているF子さん、その恋人の庄子君も同席した)
    ------(P.202)---(以下、本文)-------

中堅クラスが続々脱会している
内藤 そのとおりですね。さて、あなたは創価学会を脱会して、これからどうなさるおつもりですか。
小沢 昭和五十三年の七月の時点では、創価学会を脱会してお寺に直結する檀徒になった人は五万世帯十万人くらいだったんです。それが昭和五十四年七月現在で二十一万人を突破しました。茨城県を例にとると、昭和五十三年の四月に三百七十世帯だったのが、昭和五十四年七月で千百五十四世帯に増えています。例えば日立市だけでも、もう五百世帯は突破したでしょう。しかも、支部長から大ブロック長まで軒並みですよ。このように脱会した人たちのほとんどが、元教学部教授、元大ブロック長といった中堅のリーダーなんです。末端に行きますと、まだまだ「聖教新聞」も読まない、ただ池田大作盲信といった人がかなりいますが、中間にあって真剣に信仰している人たちは、どんどん疑問を感じ、辞めていっているんです。
内藤 公明党議員で、学会を辞めた人はほかにもいますか。

小沢 北海道では札幌市の市会議員をやっていた人が辞め、三重県亀山市市会議員の横山正吉さん、沖縄の伊丹市の市会議員、それに千葉県習志野市の市会議員の館岡章弘さんと、優秀な人たちが続々と辞めています。
 私個人としても、自分なりに目標を立てて、まず年内にどんなことをしてでも私がかって折伏した百世帯の方々を目覚めさせる。幸いなことに、一つの目標を立てたらなにがなんでも実行しろ、といった訓練を創価学会時代に受けてきたのが役立ちそうです。
 本当は、私が折伏した世帯を一軒一軒回って説明したいのですけど、仕事もありますのでなかなかできそうにない。そこで取りあえず、私の脱会理由を書いたものを一万枚印刷しまして、檀徒会を通じて全国のお寺に九千枚置いてもらっています。千枚は私がもっていて、それはこの町で使います。
 すでに全国から、手紙や電話でどんどん反響がきていますよ。先日も大阪の女性から、お寺に行ったら見せてもらったんだけど、私はまだ半信半疑なのでくわしく聞かせて下さい、という連絡がありました。こんな人たちに、どんどん働きかけていくつもりです。
内藤 まだ、学会に入っている人たちに、だまされていることをなんとか気づかせたい、正信覚醒運動ということですね。
小沢 そうです。そうした純粋な会員たちに、本当に申し訳なかったと、心の底から慚愧の思いでいっぱいだと申し上げたい。そして、ぼくも改めるから、一緒にガンバッていこうじやないかと、その日の来る日まで闘い続けるつもりです。

結婚をも阻む学会の壁
内藤 さて、同席している恋人同士の若いお二人さん。創価学会の大先輩の話を聞いて納得しましたか。
 実は、この二人は私の本の読者で、直接、私の話を問きたいと東北から上京してきたのです。たまたま小沢さんが来られるというので、私の話よりも参考になるだろうと、同席願ったのです。庄子さんは学会員ではないのですが、恋人のF子さんが学会を辞めてくれないと結婚できない、学会を辞めてほしい、ということでしたね、私に出された手紙での訴えによると。
庄子 ええ、学会を辞めてほしいです。信仰で病気を治すとかいった常識外れなことを無条件に信じないで、自分なりの考えをもってもらいたいんです。ぼく自身、去年(昭和五十三年)の十月頃から、いろいろな学会批判の本を買って勉強して、それをコピーして彼女に渡していますが、初めのころの全くの拒否反応に比べて、最近は彼女、だいぶ変わってきています。
内藤 一緒につきあうようになって、彼女が学会員だと知った時は、ショックでしたか。
庄子 そんなにたいしてショックではありませんでした。ただ、ぼくの両親もぼくも、学会について好意的ではなかったのです。
内藤 F子さんの場合、ご家族は。
F子 両親と兄弟姉妹の四人、父が学会の県のブロック本部長をしているのを初め、家族全部が会員です。私は二歳の時から学会員です。
内藤 二歳?
小沢 親が信心していると、生まれた子供も自動的に学会員になる仕組なんです。
内藤 今までぼくと小沢さんが話してきたことを聞いて、どんな感じをもちましたか。
F子 今まで私がやってきた学会とは、イメージが全然違うんで、とても信じられない気持ちなんです。ただ、庄子さんにあなたの本などを貸してもらって読んでみて、私の考えていたいメージからひっくり返されたというか、すごいショックで、どうしていいのかわからなくなって……。信じられないといっても、本当のところ、まだ半信半疑なんです。
内藤 お父さんやお母さんとは、あなたが疑問をもったことについて話をしないのですか。
F子 こちらかち批判をしたりしたら、とても黙って聞いてはもらえないと思うんです。もしも池田先生が真実をいえば別なんでしょうけれど、かえって家庭の中がまずくなりそうで。
内藤 疑問に思っていることを家族にさえ話せないとは、ずいぶん狭い信仰ということになりますね。あなた自身は疑問をもち始めているでしょう?

F子 疑問というか、今はもう真実が知りたいだけで、それしかないんです。私だけじゃなく、こんな疑問をもっている人はいっぱいいると思うんです。そこに、庄子さんから学会をとるか、結婚をとるかといわれると、どうしても迷うというか困ってしまうんです。もしも辞めたりしたら、両親やなんかととてもまずくなってしまうし。両方取れればいいんですけど、考えているとだんだんわからなくなるばかりで......。
庄子 こういう話をすると、彼女、泣いてばっかしいるんです。それで、二人で気分転換をかねて九州へ旅行してみょうということになって、途中で東京に寄つて内藤さんにお話を聞きにきたわけなんです。
 そして、自分たちの目で創価学会の本部や学会関係のものをみたり、国会図書館にいって学会の真の姿を調べ、たしかめてみたいと思つているんです。
内藤 私のところには、あなたがた以外にも、大勢の学会員や学会を辞めた人々が、いろいろ悩みを訴えてきています。真相が知らされなさすぎるからですね。どうか二人して協力しながら、創価学会の真の姿を知って、結論を出してください。       
       ----------(次回に、つづく)---------208

 

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