創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-13

2018-06-30 07:19:15 | Weblog

<この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
      --言論出版妨害事件-- 昭和45年(1970年)
    ------(P.58)---(以下、本文)-------

創価学会発展の社会的背景とその手ぐち
 それにしても、700万世帯、1000万人余の人間組織集団は、日本の歴史上にあまり類例をみないマンモス集団といえる。それだけの人間を集めるからには、それなりの魅力をもっていたことは否定できないところであろう。創価学会の信者一人一人にあたってみると、たいていは真面目な人間であるようだし、日蓮正宗を唯一無二のものとして信仰しているのであろうから、信仰態度としてはそれなりに立派なものかもしれない。しかし、創価学会の会員が、いったい、学会の本質や、さらにはこの組織が何を狙いとするかというような点を、自己の運命や自己の立場や自己の人間性との関連において、どれだけしっかり把握しているか、という点になると大きな疑問が残るのである。
 創価学会の会員がどうして学会に入ったのか、興味のあるところはまさにその点であるが、その入信動機の背景は、大別して二つあるといわなければならない。
 一つは外的な要因、つまり戦後社会における社会的不満、政治腐敗ないしは不振等々の外面的条件である。
 もう一つは内面的要因として学会がなんらかの精神的渇望に応えている、という側面を無視できない。
 この外と内との二つの要因に、敗戦という日本未曽有の社会的環境の中からうまれたものでもあるが、創価学会の進出はこの二つの要因を実に巧みに利用し、またうまく組み合わせていったところにある。

 敗戦という歴史的な大事件と、これにともなう社会環境の変化は、まず明治維新以来のさまざまな権威を一挙に叩きつぶしたところにあった。天皇の権威をもって、民衆を圧しつづけてきた一切の政治権力は、敗戦とともにもろくも崩壊した。この強力な信仰体糸の崩壤がもたらした結果の前に、国民大衆は何よりもまず、とまどったといわなければならない。これまで専制的権力のもとに、受動的生活に慣らされてきた民衆が、一夜にして民主主義にふさわしい自律的生活をそれなりに強いられたわけであるから、その混乱たるやまさに目をおおうものがあった。過去の心のよりどころを失なつた国民大衆は、最低限の生存のためにも心の支えを必要としていた、ということである。

 ながい間、ハイハイと受動的生活を強制されてきたのであるから、一挙に自律的生活に切りかえるといってもムリであった、ということでもある。その意味で、敗戦という日本国家および国民に与えた大きな打撃は、民衆を混迷と虚脱伏態に追いこみ、かててくわえて政治と経済の空白時代がかなりの期間つづいた。
 戦後の日本の民衆は、東京オリンピックでニチボー貝塚を大勝利に導いた大松監督(現参議院議員)のような「俺についてこい」「なせばなる」と敢えていうような強烈な指導者をば、それなりに求めていたといっても過言ではなかろう。当時の民衆にとって、それがどういう方向を示すものであり、どういう運命が予知されるものであるか、というようなことは必ずしも当面の問題ではなかった。そういうふかふかと浮いた空疎な精神的状態が、社会の底辺にある大衆の心の一般的傾向であった。空白が大きければ大きいほど、強烈で鮮かな指導者、またそれに身を寄せれば、少なくともなんらかの心の張りを見いだせるような支えになる組織、こうしたものをまさに乞い求めていた。 戦後、雨後のタケノコのようにさまざまな新興宗教が誕生したが、新興宗教にとって戦争直後の社会状勢は、教勢拡大の絶好の条件になっていたといってよい。その点において、創価学会も決して例外ではない。創価学会も伸びたが、他の新興宗教も伸びたということである。
 創価学会はそのなかで、このタイミングをもっともうまく、最大限に活用した一種の新興宗教であるといえよう。戸田城聖は、幹部会員に折伏持訓を行ない、青年部をして折伏の突撃部隊としての使命を付与し、そのすさまじいエネルギーを内包しながら、邪宗撲滅論を旗印として、新興ならびに既存の宗教、たとえば立正佼成会、天理教等々に対する総攻撃をかける折伏大行進を展開したわけである。こういう他宗教に対する総攻撃と同時に、まさに散兵のように一対一の折伏を強行し、組織の底辺を固めながら、他宗教にそのエネルギーを向けていったそのやり方は、戦後のさまざまな新興宗教の大繁昌の中において、もっとも戦闘的であり、もっとも組織的であったということができる。
 では、創価学会の実際の勧誘はどういう具合に行なわれているのだろうか。

 それはまず「ともかくやってごらんなさい。やってみなければ何もわからないではないですか」というようなはなはだ柔和な戦法からはじまる。まずこうしたソフトムードでアプローチし、「これはものになる」という攻略目標が設定されたとなると、折伏であるということで入れかわり立ちかわり押しかけてゆく。そして一種の洗脳がはじまるわけである。学会員にとっては、折伏こそ不可欠の宗教的義務であり、使命なのであるから、他人の都合など全くおかまいなしなのである。それも時には集団で押しかけるから、よほど意思強固、思想的立場のはっきりした人でないと、ズルズルと押し切られてしまうことになるようである。その際、現世利益をふりかざすのも彼等の常套手段である。したがって、彼等の攻撃相手、攻略目標は、社会的に脱落した人間ないしは脱落しつつある人間に向けられることが多い。宗教は人間の魂を救うことが本来の目標であるとすれば、そういう点に目標を向けることも至極当然であろうが、問題はその方法なのである。

 ソフトムードでアプローチするまではともかく、ある段階以後になると、一種の威かく、中傷に等しいやり方が行なわれる。
 こういうやり方自体はどう考えてみても宗教者のやることではない感じがする。彼等にいわせれば、折伏は慈悲の行為なのであるから、大いにそういうようにおどしあげたり、中傷することも、それぞれ慈悲の行為の変形として許されるという理屈になるのであろうが、ともかく折伏は慈悲の行為であるという論理は、創価学会内では通用する論理ではあっても、一般社会ては通用しない理屈であるということを、この際はっきりと断言しておこう。
 やられる方はかなわないということである。ただし、やられる側の精神的弱さ、魂の弱さにも問題があるといわなければならない。
     ---------(65P)-------つづく--

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創価学会を斬る-12

2018-06-29 09:46:55 | Weblog

<この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
      --言論出版妨害事件-- 昭和45年(1970年)
    ------(P.58)---(以下、本文)-------

“七年目”の飛躍とジンクス
 戸田会長亡きあと、やがて池田大作が会長に就任するわけだが、池田会長に対する論評は後に讓るとして、もう少し、創価学会の足跡をたどってみることとしょう。
 創価学会では“7”という数字が、その発展に対する時代区分の単位になっているといわれる。これは必ずしも計画的にそうしたわけではないであろうが、結果的には、過去において起こった大きな事件が7年目ごとなので、自然にこの“7”を意識するようになったということのようである。
 たとえば、--
 ・1930年に創価教育学会が創立され、
 ・7年目の1937年に創価教育学会発会式が行なわれ、
 ・つぎの7年目に牧口初代会長が死去し、
 ・つぎが戸田会長の就任、
 ・そしてつぎの7年目に戸田会長が死去する。
 ・さらにつぎの7年目には大石寺大宮殿の建設と衆議院出馬の意思表明等々と、
 7年目ごとに大きな事件が起こっているというように説明されている。
 この7年目大事件ということでいくと、つぎの7年目は1972年である。果たして、創価学会にとってどういう大きな事件が起こるのか、まさに興味深々といわねばなるまい。
 70年代になれば、日本が国際社会で果たす役割はいよいよ大きくかわるであろうし、国内においては、創価学会・公明党の政治的真価がまさに問われるタイミングにもあたろう。
 それにしてもこの創価学会・公明党が、今後発展するにしても、没落するにしても、それは学会員の増減に大きくかかっていることは、間違いのないところといわなければならない。
 そこでここ数年、創価学会はどんな伸び方をしたか、将来の創価学会の姿をみるために、その実態を数字的に探ってみることも必ずしもムダなことではないであろう。
 池田大作が会長に就任したのは、1960年である。まさに牧口、戸田に次ぐ第三代創価学会会長ということであった。--
 ・1960年の創価学会は、すでに100万世帯を突破し、
 ・その年の暮には172万世帯に膨張していた。
 ・翌1961年には230万突破、
 ・1962年には300万台、
 ・1964年には500万を越え、
 ・1966年600余万、
 ・そして1967年には650万の大台にのった。  --(表省略、60頁)--
 ・しかも冒頭に述べたように1969年5月現在で700万世世帯というように創価学会は公表している。 

 日本の全世帯数は約2500万といわれるから、学会の発表を信ずるとすれば、3・5世帯に1世帯の割合で創価学会の信者がいることになる。しかし、この数字はあくまでも学会の発表であり、当然ながらこの中には若干の脱会者、あるいは統計の曖昧さと宗教団体特有の水増し発表があることは見逃してならないところであろう。ともかく、それはそれとして、7百万前後の世帯が創価学会に入っていることは、まず間違いのないところとみてよいだろう。この世帯数は、日本の全世帯の3分の1弱にあたるから、池田会長お得意の「舍銜の3億」の方程式を満足させるにあと一歩ということになるかもしれない。またこの数的巨大さは創価学会が対社会的にはなはだ強気になる原因となっている。しかし、あと3分の1の支持層を獲得できるかどうか、問題はそこにあるといえるだろう。
 創価学会が、公明党という政治支店を出してから、早くも国会関係で3回の選挙が行なわれた。これは創価学会にとっては、信者による選挙組織の強さをはかる一種のテストとなり、学会員が、抜群の成績を収めたことは記憶に新らたなところである。しかし、他面において学会員外の支持票はどうもほとんど見当らないといわざるをえない。それどころか、最近は学会員組織票の流出がその都度とりざたされるようになった。これは、いったいどうしたわけなのであろうか。

 創価学会の政界進出を支える自信となっているものは、その組織に信仰のバックボーンが通っているということであり、その結果として選挙に強いということにほかならないわけである。それがいつまでも学会員の組織票しか当てにできないというのでは、池田会長のいう「舍衛の三億」の方程式を究極的に満足させるのは、まことに容易なことではないといわざるをえない。これを登山にたとえてみれば、その頂上に近づくにしたがって酸素が枯渇し、息が切れてくるし、はなはだしくあらゆる条件が悪くなってきている、とでもいうことができる。一種の息切れ傾向が現われているということでもある。
       ---------(61P)-------つづく--

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創価学会を斬る-11

2018-06-29 08:53:35 | Weblog

 <この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
      --言論出版妨害事件-- 昭和45年(1970年)
    ------(P.55)---(以下、本文)-------

戸田城聖的段階の学会のイメージ
 1953年末には、創価学会は7万余りの世帯数にまで発展している。それにつれて、折伏活動もいっそう活発になってくるのであるが、他宗を邪教として排撃する激しい行動は、それなりに世間の注目をひかずにはおかなかった。また、社会的に大きな影響を与えるようになるにしたがい、あちこちで摩擦、軋轢を生み、世論の批判の的にもなっていった。
 しかし、当時は、このような世論の批判が、かえって学会員にとっては一種のはげみになるという皮肉な結果を生んだ。この時点において創価学会のとった態度は、笠原の前記『政治と宗教』に引用されている戸田城聖の創価学会第二代会長の就任挨拶(1951年)で述べた、いわば所信表明とでもいいうるものの中にありありとうかがうことができる。

 「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである。御本尊様の真の功徳がわかる究竟即の位の前の、分身印が、すなわち折伏することなので、これが真にあなたたちのためだから、広宣流布をやりなさいというのであります。お勤めをして、御本尊様に、あれをくれ、これをくれと、功徳をねだるような横着な信心ではなく、ほんとうに、折伏に身をいれて、人々に悪口をいわれ、バカにされて、ますます御本尊様を護持したとき、そこにげんぜんとして、功徳が現われるのです。始めから、御本尊様は、拝んでくれなどとはけっしていっておられません。われわれの方からどうか拝ませてくださいと願ったのです。一対一のひざづめ談判によって、広宣沆布はなしとげられるのである。
 以上、のべたことは、みな自分のためであり、いま、わたくしたちは大きな本門の戒壇を建てるための、ひとつひとつの土台石をはこんでいるのであります。みなさん、真に命をかけて、御本尊様へのご奉公を、しようではありませんか。」

 以上のような戸田城聖の所信表明演説は、この当時における創価学会の狙いがどこにあり、どういう形で大衆にアピールしていこうとしていたか、ということをかなりはっきり示しているものだといってよかろう。短かい言葉ではあるけれども、創価学会の目的、広宣流布の方法、折伏のあり方など、それなりに創価学会の性格がえがかれているということである。ともかく、そのやり方の激しいこと、屍を越えて驀進あるのみというような、猪突猛進に近いいきごみが秘められており、戸田の就任挨拶は、まさに創価学会進擎のラッパを吹いたものといっても過言ではあるまい。このような体当り的精神、猪突猛進精神とでもいうべきものは、その後の創価学会の中に脈々と受けつがれ、一見、ファナティックにみえる幹部たちは、こういう戸田特訓精神のたまものをいまだに有難がっている。

 さらに、戸田城聖のすさまじさは「75万世帯の折伏が達成できなければ、戸田の葬式はだしてはいかん。品川沖へ骨を捨てよ」というような言葉にもそのまま現われている。
 こういう教祖的性格とでもいえるものは、戸田城聖において一つの極点にきたということがいえるのではないかと思う。そういう教祖的教しさに刺激されてか、創価学会はそれなりにすさまじい勢いで伸びていることも事実である。創価学会の発表した数字によると--
 ・1954年--年間折伏成果9万4千世帯。総世帯数16万4272世帯。
 ・1955年--年間折伏成果19万4239世帯、総世帯数30万7490世帯。
 ・1956年--総世帯50万世帯達成。
 ・1957年--総世帯数75万5千世帯達成。
 というように、ざっとみただけでも爆発的拡大であり、一挙に倍々ゲームで拡大しており、こういう側面において果たしたところの戸田城聖の役割は、それなりに大きかったといわなければならないだろう。
 その戸田城聖会長が死亡したのは、1958年4月のことであるから、「75万世帯の折伏が......」云々、といった戸田会長の葬儀は、品川沖にその骨を捨てることもなく、まこと盛大に行なわれ、時の内閣総理大臣・岸信介がこの葬列に参加したこともいまなお記憶に新らしいところである。
       ---------(58P)-------つづく--

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創価学会を斬る-10

2018-06-27 07:55:09 | Weblog

 <この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
      --言論出版妨害事件-- 昭和45年(1970年)
    ------(P.51)---(以下、本文)-------

創価学会の成リ立ち
 われわれはこれまで創価学会がこれだけの大きな組織に発展した手ぐち、およびその実態の一端にふれたわけであるが、以下学会がどのようにして伸びてきたか、その歴史的足跡を一応はかえりみる必要があるだろう。
 創価学会の誕生は、故牧口常三郎による創価教育学会にはじまる。牧口は、警察署の給仕から幾多の流転を経て小学校の校長にまでなった人物であるが、彼はこの校長在職時代に、彼独自の教育学の完成に意を注いだ。この牧口の教育学は、実証的な帰納法によるものであり、これを集大成したのが創価教育体系である。彼は1930年から1934年にかけて創価教育学体系四卷を出版している。
 この牧口の価値論なるものをみてみると、当時の新カント学の哲学の影響がそのまま現われているといってよい。それは、やや陳腐な所論ではあるが、いちおう笠原一男の『政治と宗教』に紹介されているところにしたがって述べると、次のようになる。

 価値は客体と主体の関係性によって無限の段階があって、変化する。そして、その価値の内容なるものは、美と利と善であり、反価値にあたるものは醜と害と悪である。
 美とは、自分の目、鼻、耳、舌、皮膚、心の六感に訴えて外界と関係することによって生まれる価値のすべてであり、たとえば、好きとか楽しいとか等々の感情的な判断である。これの反価値が醜であり、嫌いという判断であるということになる。そして、子供の価値生活はおもにこの美醜の価値によっている、といういい方もしている。
 利とは、生命全体、一生の生命を規準として外界と関係を生ずる価値であり、自己の生命の発展を助けるものは、すべてこの内容に含まれる。美の価値が生命全体、永久の生命に発展すれば利の価値となる。そして、生命の発展を妨げる力はすべて害となり、反価値である、ということになる。大人の生活はほとんどこの利害の価値生活を基調としている、ということにほかならない。
 さらにつづいて善についても一応紹介しておくことにしよう。
 善とは、公利をいい、公害は悪である。善は、美、利を生む行為をその社会が判定する価値規準ということである。そして美よりも利、利よりも善というように価値内容はより本源的に深まっていき、重要な価値へと発展してゆく、こういうようにみるわけである。

 以上がごくごく大まかな牧口流の価値論なるものの内容である。こうした哲学の普及を彼は残された生涯の目的として、それなりに努力するわけであるが、これを宗教活動にまでもってゆくのは、牧口の日蓮正宗入信以後のことなのである。すなわち、1928年、牧口は日蓮正宗に入信し、日蓮正宗の普及とともに彼の哲学の集大成である創価教育学体系の出版へと発展していったわけである。
 そして、1937年、60数名の会員とともに創価教育学会を結成している。会員獲得はもっばら折伏座談会によったとされているが、これは当時も現在も変わっていない。会員が3000人になったのが第二次大戦がますます激しくなってきた1943年頃のことであり、政府当局の創価学会に対する弾圧が厳しくなったのもこの頃であるといわれている。
 こういうなかで、牧口は、他宗批判、神社神道への批判を痛烈に展開してゆく。しかし、これも長くは続かず、その年の6月に会員が行なった過激な折伏を理由として、官憲によって牧口、戸田城聖などの幹部が一網打尽に逮捕され、あげくの果てに牧口は獄死してしまったのである。ときに1944年11月のことであった。
 創価学会は、この戦時中の受難、ないしは法難とでもいえるものを戦後はフルに活用することになる。

 戦後、壊滅的打撃を受けた創価教育学会の再建に乗りだしたのは故戸田城聖である。戸田は、創価教育学会を創価学会と改名し、日蓮正宗こそ日本を救うものだという信念のもとに再出発したわけである。学会の再建がようやくその緒についたのは、1946年の秋頃であり、当時は戦後の混乱もあって会員たちの信心は必ずしも強固でなく、会員の獲得もまた遅々として進展しなかったといわれている。
 ここで戸田城聖は、会員の教説面での理論武装が弱いことに気づき、猛烈な折伏訓練を行なうことになる。さきに結成していた青年部を先頭に立て、邪宗打到の折伏活動を活発に行ない、1947年には東京に12支部、地方に11支部の組織が設けられるまでにこぎつけた。
 現在、これは特訓のたまものであるといわれている。
 創価学会の折伏活動がもっともはげしく行なわれたのは1952年から1953年にかけてのことであった。彼等の会員獲得の戦術をみると、折伏はもちろんのことであるが、印刷物、講演など、ありとあらゆる宣伝活動を通じて、猛烈な広宣流布を行なっている。現在では、朝日、毎日、読売に匹敵するともいわれる「聖教新聞」が発刊されたのもこのころにほかならない(1951年4月)。だいたいこの時期をもって創価学会の基礎が築かれた時期といってよいであろう。
       ---------(54P)-------つづく--

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創価学会を斬る-9

2018-06-26 08:44:36 | Weblog

 <この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
      --言論出版妨害事件-- 昭和45年(1970年)
    ------(P.45)---(以下、本文)-------

ガンジガラメの組織形態
 ところで、創価学会の組織が拡大するにつれて、その出店である公明党の党勢も伸びていることはたしかであり、とくに、1964年11月、公明政治連盟から公明党への改組によって、創価学会は一段と政治路線を強化し、これを契機として、その政治運動の性格もかなり大きく変質し、活動形態も活発でハデになったことは否定できない事実といわなければなるまい。
 このような政治運動を促進する母体になるものは、あたかも封建制下の下部組織にも似たガンジガラメの組織形態とでもいえる創価学会の信者組織であることは、ここでいうまでもない。
 創価学会信者組織の特色は、場合によっては旧軍隊の再来かと思われるような組織系列をもっているところにあり、その末端は徳川封建制を下部から支えたといわれる「五人組制度」とか「七人組制度」等々の相互監視形態に似ているといってほぼ間違いない。学会の組織は、まず会員に、どうしたら“信心”のありかたを徹底しうるかという点を第一義としてつくられている。したがって、折伏した人と折伏された人との関係が、ここでは何よりも重視されている。つまり、人対人との関係によって、タテヨコ十文字に人問関係が結ばれているわけである。
 たとえば、最小の単位としては折伏した人と折伏された人を中心に“組”がつくられるが、これは普通5ないし10世帯ぐらいによって構成されている。5人組制度と非常によく似ているということである。なお学会の組織は世帯で表現されるが、これは彼等のいうところの、いわゆる御本尊なるものが世帯単位で貸与されることから起こっている。つまり、御本尊をお祀りするのは世帯位ということである。
 この“組”を基盤にして、“班”がつくられる。班の世帯数は15ないし30世帯ぐらいである。さらにこの班をもとにして、150世帯から300世帯を擁するところの“地区”、その地区のうえに1000世帯の大世帯である“支部”が形成されることになっている。日本の平均世帯構成人員は約3人であるから支部だけで約3000人からの人間を影響下におくことになる。
 日本の町村には人口3000人級のものも結構あるわけであるから、支部はゆうに一つの町村を支配しているといっても過言ではなかろう。さらにこの支部がいくつか集まると“総支部”ということになる。総支部のうえにさらに“総合本部”がある。このように学会は、5人組制度とでもいえる組を最底辺にして、ピラミッド型の軍隊組織のような形で固められている。この側面をタテの組織といっており、別にヨコの組織としてはブロック制がとられている。
 このブロック制は、会員の居住地区を単位とするものにほかならない。このタテとヨコの組織によって、信者つまり学会員なるものは、ほぼ完全にコントロールされている。
 創価学会が選挙のたびに、学会員をフルに動員できるのは、タテヨコ両面における人間動員体制が、きわめて円滑に動いていることによる。普通、ブロック制は、小ブロック(グループともよばれる)→ブロック→大ブ口ック→総ブ口ック→総合ブ口ックという五段階であり、その都度、必要に応じて召集、動員をかけることができるシステムになっている。
 ひところ、脱会した会員に対するリンチ事件があったりしたが、これなども、いうならぱこの種のタテヨコ十文字のガンジガラメの組織の犠牲者といってよいであろう。ややオーバーないい方をすれば、アリのはい出る隙もないほどに、学会員はガンジガラメにしばられている。
 そのうえ、脱会しようとする会員に対しては、集団的な圧力をかけたりするわけであるから、心臓の弱い人間なら、ほとんどこれに対する反駁の余地はなく、不満ながらもそのまま屈服してしまうということにもなりかねないわけである。こうしたガンジガラメ組織の特色は、会員相互の相互監視というンステムのうえに組み立てられているところにある。
 それは、ある意味では上部組織への密告奨励、情報提供によって組織に対する忠誠心を測定するというシステムになっているといってもよい。よく共産党の規律を鉄の規律というような言葉で現わすけれども、創価学会は生命哲学、王仏冥合という仏法の魔術の規律によって結びつけられているということもできる。いわば一種の“鉄磁力の規律”によって結びつけられているのである。

 さらに、この他に年齢別の組織とでもいえるものとして、壮年部、婦人部、青年部等がある。このなかで青年部がもっとも活動的でアリ、創価学会の中核エネルギーを形成していること、これまた周知のところである。青年部の会員は、400万とも450万ともいわれているが、創価学会会員のほぱ半数を占めており、その意味においては若いエネルギーを背景とした大衆組織であることは、間違いのないところといわなければならない。
 青年部の中心にあたるものの一つに大学生があるといわれる。1968年4月末現在で大学生学会員は21万人に達したといわれるけれども、この勘定でいくと大学生の7人か8人に一人は学会員ということになってしまう。もっとも私なりの大学教師としての体験からいうと、自分のセミナーなり教室なりにおいて、そうざらに学会員がいたという体験がないので、7、8人に一人が学会員かどうかという点においては、いささかマユツバの感なきにしもあらずであるが、それにしても大学の中において東洋思想研究会等の文化活動を通じて、次第にこの創価学会学生とでもいいうる特異の集団が成長しつつあることはまぎれもない事実である。
 しかも最近は、大学生だけではなく、高校生、中学生にも結構学会員がいるといわれており、この高校、中学を含めてみた場合、だいたい広義学生層学会員は30万を越えているのではないかとみられてもいる。
 会員がこの細胞組織をつくって、日夜折伏行にあたり、各種の活動にエネルギッシュな動きをみせていることは、その主義主張についてのとやかくの批判は別として、まこと注目に値いするといわなければならない。
 1968年4月から、東京・小平市に創価中学と創価高校が開校したが、これは創価学会の新らしい事業として、政治路線の強化とともにやはり注目しなければならない方向である。さらにこれに加えて、創価大学なるものの開設も着々と準備されているようであるが、さきに発表された労働組合の結成とともに、創価学会の支店増設はまさに急テンポに各方面に広がっているといわなければならない。

 このような創価学会組織のピラミッドの頂点に位するのは、ほかでもない会長の池田大作である。この池田会長を頂点として、理事長、総務、副理事長、理事、理事補がアリ、理事室を構成し、学会の最高議決機関として機能しているわけである。会社でいえば、重役会がこれにあたるであろうが、巨大な組織だけに重役数の多いのも、創価学会の大きな特色となっている。
 たとえば、理事長は1名であるが、総務は25名もおり、副理事長にいたっては57名、理事となると558名、理事補591名、合計1232名という大世帯である。こういうものがどのように機能するか。数を増やすことによって実質的には一種の独裁体制が可能な組織形態となっているという表現もあながち不可能ではないであろう。つまり幹部組組織自体が大衆化しているというところに大きな特色があるということである。こういう組織形態において、合議制のウマミが発揮される可能性はまずはない、といっても決して過言でない。
       ---------(51P)-------つづく--

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